静かなる森
年中日の差し込まないその森は昼間だというのに薄暗く、深い霧が立ち込めていた。
数m先も見えぬほどの視界の悪さは、何かがそこに立ち入ったものを迷わせ、閉じ込めようとしているかにも思える。
時折鳥類が鳴く声、獣の歩く足音が微かに聞こえるが、人間の気配は感じられない。
人間が居を構えるのを完全に諦めたかのようなこの地に、ぽつんと佇む一軒の家があった。
基本的に人間は陽の当たる場所に好んで住みつき、自分の居場所とする。風通しの良い丘の上、農業を行うために川の近く、もしくはそれらに街を作り、お互いに支えあって生きているのだ。
鬱蒼と木が生い茂り、生活するのに不便でしかないこのような地に置いて、その家の違和感といったらないだろう。
外壁は石造りで、レンガと石を組み合わせたものに粘土や泥でコーティングしてあるという一風変わった見た目をしていて、小さな窓に大きな煙突がアンバランスな対比を表している。
まるで素人が見よう見まねで作りましたと言わんばかりのこの小さな家からは、薄明るい灯りが漏れ出ており、窓には二人の人影が映し出されていた。
「ねえティア、今日の晩御飯は何かなぁ?」
「はいミスト様。メゾック茸のスープとミックスサラダ、それと子兎のローストでございます」
家の中には少年と女性がいた。
ティアと呼ばれた女性は湯気の立ち上る食事を木でできた大きいテーブルの上に並べていく。
白と黒二つの色からなるメイド服に身を包み、その透き通ったような若菜色の髪は部屋にいくつか置かれているランプの光に照らされ淡く輝いていた。
無表情かつ声色も淡々としたものなので、少々機械的な印象を受ける。
それに対するように少年の表情は明るく輝き、椅子に掛けた足がパタパタとリズムを刻みだしているところから、非常に機嫌のいいところが窺える。そのまま鼻歌まで聞こえてきそうなほどだ。
まるで日焼けのしていない透き通ったような白い肌はどこかの貴族の子息を思わせ、その金髪は少し癖っ毛でありふわふわとしていて幼い顔と相まって小動物を感じさせた。
齢にして十と少しだろうか。あどけないその表情からは目の前の食事に興味津々であるということ以外は窺い知れない。
「ティアの料理は美味しいからなぁ。いくらでも食べられちゃうよ」
「ありがとうございます。さぁ、冷めない内にお召し上がりください」
いただきます、と神への祈りと兎の命を頂くことへの感謝を告げ少年は食事を始めた。
少年が美味しそうに、しかし品のある動作で食事を頬張り、メイドがそれを見守る様は貴族の優雅な食事風景のようでもあり、子供と母親の夕飯時のような風景でもあった。
ただし前者はもう少し豪華な食事、後者はメイドの柔和な表情が少しでもあれば、という前提が入るが。
スプーンを使うときの音や食器の音以外はせず、まるで世界にはこの二人しか存在しないのでは、という程に穏やかな光景であった。
男は走った。直ぐ先も見えず昼も夜も区別のつきそうにない薄暗い森の中をただ我武者羅に。
男は走った。もうどれくらいであろうか。すでに腕や足からはどこかの木で引っ掛けたであろう切り傷が幾つか、元は綺麗であったであろう軽装化された鎧も泥に塗れている。
男は走った。背後から追ってくる決して消えることのない殺気を痛いほど受けながら。
そして男は―ー―見つけた。一筋の光を。
ーー実際にはぼんやりとした灯りだったが、半分死を覚悟していた男にあっては地獄に仏、が垂らした蜘蛛の糸の一条の煌めきに思えた。
ドンドンドンドンドンッ!
静かな森に荒々しい音が響き渡る。
おおよそ他人の家にしてよい行為では無かったが、だからこそ事の緊急性を知らせるうえでこれほど分かりやすい物はないといえるだろう。
早く開いてくれ、早く、早く、早く、早く!!
男は祈る。普段から信心深いほうではなく敬虔とは言い難い男もこの状況においては神をも頼るほかなかった。
男からすれば永遠とも取れる時間のなか、遂に扉が開く。
「はい。どちら様でしょうか」
その涼しげな声、美しい姿に男は唖然とした。自分の想像した人物像とはかけ離れていたためだ。
この様な辺鄙な土地に好んで住まうもののことだから、世捨て人か研究のことしか頭にない偏屈な魔法使いであろうとたかをくくっていた。いやむしろ自分の置かれた状況を鑑みればそちらのほうが良かったのに、と複雑な心境を抱えながら男は言葉を矢継ぎ早に目の前の女性に掛けた。
「野盗に追われている!少しの間でいいので、匿ってはもらえないだろうか!」
その言葉に、メイドは少しばかり眉を顰めた。
当然である。どこの世界に厄介ごとを持ち込まれて嬉々としている輩がいるだろうか。
無機質な表情を少しも崩さず、メイドは淡々と言葉を紡ぐ。
「お断りします。野盗がこちらに来るといけないので
さっさと逃げてもらえませんか?」
「そ、そんな…」
まさに天国から地獄。
男の表情はつい先ほどのものへと逆戻りしてしまう。
「大体、何故あなたのような人間にーー」
「それはいけない!おじさん、早く中に入って!」
一瞬、どこから声が飛んできたか分からなかった。
メイドの向こうから聞こえた気はしたが、その姿は確認できない。
スッ、とメイドが入り口を塞ぐように立てていた身を翻した。
今を逃せば自分が助かる道はないと悟った男は転がり込むように家の中へと入る。
そこには、先ほどのメイドと一人の少年の姿があった。
テーブルの上には、湯気の立ち上る食事があることから、食事の最中であったことが伺える。
しかし、食事中なのに申し訳ないとも考えられない程度には男の状況は切迫していたのだ。
そして男が家に入ってから僅か十秒程で、家の扉が
勢いよくーー蹴破られた。
「テメェ…よくもやってくれたなぁ!」
「鬼ごっこはもうお終いかぁ?」
ぞろぞろと幾人かが無遠慮に家の中に立ち入る。
体格の良い体に薄汚れた服を着せており、その下品な声からは、彼らが育ってきた環境が多少なりとも推し量れるだろう。手にはそれぞれダガーやナイフ、手斧などを携え男に対する敵意を剥き出しにしていたが、
そこにいた奇妙な組み合わせに皆一様に興味を惹かれたようだった。
メイドは目を伏せているし、少年は状況を理解していないかのように目をぱちくりさせていた。
「なんだぁ…テメェら。こんな所に人間が住んでるなんて、聞いたことねぇぞ」
「しかし親分!見てくださいよ!とんでもねぇ美人がいますぜ!」
「このガキもだ!女みたいなツラしてやがる!獲物が増えやしたね、親分!」
非常に勝手な物言いである。
しかしーー相手は非力な女子供、手負いの男一人であり、彼らが強気な態度に拍車を掛けるのには、十分な理由であると言えるだろう。
一歩、また一歩と距離を詰めるように近付いて来る
野蛮な男たちに対し、ぽかんとしていた少年は我に返ったのように叫んだ。
「ちょっと待って!それ以上は近づかない方が良いよ!」
か弱い抵抗とも取れる発言に、男たちはますますもって薄汚い笑みを浮かべる。
「おじさんたち、ダメって言われると益々やりたくなっちまうんだよなぁ」
「さ、こっちにおいで。悪いようにはしないからよ」
男達の内の一人がごつごつとした手を少年の方へ伸ばしたーーはずだった。
伸ばしたその手は空中でピタリととまり、まるで目 の前に見えない壁があるようかのように微動だにしない。
「な、何だ、こりゃあ…」
「おいおい、何やってんだぁ?大道芸の練習かぁ?」
ガハハハ、と後ろの男たちが茶化す。
「い、いや、ちょっと待て!何かおかしーー」
「ーー蛆虫が」
瞬間、空間が凍りついた。
あまりにも冷たいその声色、鋭い眼光は隠す気のない怒気を孕んでいる。
「その御方を誰だと心得ている。貴様ら程度の虫が触れていい存在ではない。我が主人に危害を加えようとしたこと、死んで詫び、そして地獄で懺悔せよ」
男の伸ばされた腕が見えない壁に押し戻される。
何かを悟った男が鋭い声で叫んだ。
「魔法使い【マジックキャスター】だ!!距離を取れ!」
「まずいぞ!皆、外へ出るんだ!」
ドタドタと、声に急き立てられる様に男達は飛び出した。
慌てて飛び出す男達を見て、傷を負った男は唖然とし、少年はあちゃーといった風に頭を抱えている。
「君は、君たちは一体……?」
「話は後で。ちょっとここで待っててね」
スタスタとまるで散歩にでも出かけるような足取りで少年とメイドは外へと出た。
外では、男達が玄関を取り囲むかのように半円を描いて少年達を待ち構えており、先程の雰囲気とは打って変わって皆一様に武器を構え敵意を剥き出しにしていた。
「やれ!何かされる前にやっちまうんだ!」
「「「「おう!!」」」」
ガガガッ!ドッガッ!!
「な、なんだぁ、こいつぁ……?」
不思議な光景だった。二人に向かって勢い良く斬りつけた者、飛びかかった者もいたが、全員が球状の薄緑色の壁に阻まれたのだ。
「駄目だよ。ティアの不可侵の掟【セイクリッド・ロウ】は、あらゆる物理的な衝撃、魔法攻撃を防いでしまうんだ」
「…はっ!何かと思えば、防御するだけらしいぞ!?
ボウズがバカ正直に教えてくれて助かったぜ!
おい、攻撃を止めるな!魔力が切れるまで続けるんだ!」
他の男達からもなんだ、という安堵の溜息が漏れる。
実際、彼らは魔法使い【マジックキャスター】の弱点を熟知していた。魔法を使うのには魔力が必要となる。
逆に魔力が切れたら魔法が維持できなくなるのは、太陽が昇れば月が沈むのよりも当然の事であり、事実彼らが襲ってきた魔法使いの中にも同じようなものを使う者は沢山いた。
「なんだ、驚かせやがって!この程度ただの手品みてぇなもんだ。大したことねぇな…」
一人の男がポツリと零した言葉をメイドは聞き逃さなかった。
それの証拠に端正な顔立ちの眉間にほんの少しシワを寄せ、不快感を滲ませている………様に見えなくもない。
ーーー実際のところは無表情にしか見えないので気付いているのは少年だけだったようだが。
突然、メイドが左の眼を手で抑えた。男達は、目の前の壁を破壊しようと一心不乱で目の前の人物には目もくれず、その行動を不思議がる者はいない。
そしてそのまま、ゆっくりと右の眼を閉じーー
「ーーティア、『それ』はダメだよ」
「っ……申し訳ございません。ミスト様」
ニコニコと笑っている少年が制止するように諌めると、メイドは自分の失態を恥じるように、ばっと頭を下げた。
「しかし、どう致しましょうか。彼奴らがこのまま退くとは思えませんが……」
「うーん…そうだね。彼女を呼ぶことにするよ」
「…畏まりました」
少年がとことこと前へ歩みを進めた。
一体何事かと男達は未だ崩れる気配のない防壁から身を離し、少年の動向を伺っている。
「人形達の館【ドールズ・ハウス】」
差し出された手からは淡い光が放たれ、その数瞬後には掌の上にミニチュアの家のような物が収まっていた。窓や扉、煙突などが精巧に作られており、まるで職人が幾年もかけて丹精込めて作った国宝のような輝きを有していた。
『さあ、おいで…リオン…』
少年が慈愛を込めた声色で呟く。
刹那、眩い光が少年の手から放たれた。薄暗い夜に明星の如き輝きが広がり、しばらくして元の暗い闇が周りを包み込むと、そこには少年に跪く女性の姿があった。
西洋の騎士を思わせる鎧を身に纏わせ、凛々しい瞳は
美しいアメジスト色をしており、後ろで束ねた背中まである艶やかな髪は鮮やかな朱色をしていた。
「ーー御呼びにより御身の前に平伏し奉ります。
我が絶対なる剣と忠誠をお受け取り下さいますよう、下意上達願います。」
仰々しい物言いで静々と口を開く様は、少年に対する過剰なまでの忠誠心の高さを感じさせた。
「うん、ありがとう。それでちょっとお願いがあるんだけど、良いかな?」
「何を仰いますか。我が身は隅から隅まで貴方様のもの……遠慮する事などございません。何なりとご命令下さい」
少年はそれを聞くとニッコリと微笑み、野党の集団を指差した。
「彼等を少し懲らしめてあげて欲しいんだ。何だか悪い人達なんだって。あ、懲らしめるだけで、殺しちゃだめだよ」
「ーー御意」
女はスッと立ち上がり、武器を構えた男たちを見据えた。いきなり登場した人物に驚くだけの者が大半だったが、中には状況を分析するだけの冷静な頭脳を持った者も居た。
だからこそ、彼らは今まで王国軍にも捕らえられることは無かったし、過酷な地の中でも間違った判断を下すことなく生きてこられたと言える。
「召喚術士【サモナー】だ!ガキを先に殺れ!」
夜の闇を切り裂くような鋭い叫び声が響く。
召喚術士とは、予め契約しておいた魔物や魔法生物、動物などを使役する契約召喚【コンタクト】
と、自らの思い描くものを自由に生み出す創造召喚
【クリエイト】を扱う者を指す。
創造召喚は呼び出せる幅が大きく広い分、例え契約召喚と同じものであったとしても数倍から数十倍近い魔力を消費するし、何より複雑な術式を作り出すのに時間が掛かるので殆どの召喚術士が契約召喚をメインに使っているのが現状である。
しかし召喚術士は強力な魔物等を使役できる代わりに、制御するのに常に餌となる魔力を安定して供給し続けなくてはならないと言う弱点がある。
気絶や錯乱、睡眠などのバッドステータスを受けると魔力の供給が途切れ、最悪自身の召喚したものに危害を加えられる可能性だってあるのだ。
そして術者が死ぬと召喚されたものも姿を消すので、
召喚された存在を相手にしつつ術者の息の根を止めることが召喚術師を相手にする上で最も有効的な手段だとされていくる。
敵の弱点を突くため、術者である少年に向かおうと女騎士の横を通り抜けるーーーその足が、綺麗に揃ってピタリと止まった。
「お、おいどうした!?早くガキの所へ行け!!」
「ち、違う!あ、足が勝手にーー」
「ーーどうした?我が覇気の前に足が竦んだか?
遠慮することは無いのだぞ?どこからでも『かかってくるがいい』」
リオンと呼ばれた女が声を発した瞬間、ピクリとも動かなかった男達の足が一斉に彼女の方へ向いた。
「な、何してるんーー」
「うおおおおおおおおっ!!」
後ろの男の瞳が大きく見開かれた。しかし、彼の驚愕も仕方ない事であると言えるだろう。
召喚術師を直接狙わなくてはいけない。当然ここにいる野党の全員が理解していたはずだ。にも関わらず周囲の男全員が、召喚されたであろう朱色の髪靡かせる
女騎士に突進して行ったのだから。
安っぽい挑発【チープ・プロヴォーク】。
朱色の騎士リオンが持つ数少ないーーというか2つしかない固有スキルの内の一つである。
周囲にいる敵全員の攻撃対象を強制的に自分に集める
というシンプルなもので彼女曰く「敵を追い掛けるのが面倒なのでこれがあると便利」との事である。
「逃げずにかかってくるとは……その意気やよし!!
だが……あまりにも遅い!」
瞬間、波状的にリオンに襲いかかった男達の間を縫うように閃光が走り、後に残ったのは地を這う男達ばかりとなった。
(ば…ばかな!そんな話があるか!何人いたと思ってるんだ!15人だぞ!それだけの人数が一瞬にして…こ、こいつら……何者だ!?)
一人残された野盗の首領は驚愕する。
数多の修羅場をくぐり抜けて来た彼らであったし、
その連携は確かなものである。
だからこそ、まさかこのような辺鄙な土地で自分の手下が全滅するなどとは到底想像できなかっただろう。
「逃げずにかかってくるとは……って…リオン自身の能力のはずなのに……彼女、どうしたんだろ?」
小首を傾げて、隣にいるメイドに問う少年。
「……雰囲気に任せてそう言いたいだけでしょう。彼女は少々戦闘を楽しむところがありますので」
少々、の部分が強調されたのは少年の聞き間違いでは無いだろう。ミストはあはは…と笑ってお茶を濁すのが精一杯だった。
「さて、残すは貴様一人だが…」
リオンは腕組みをして、目の前の男を見据えた。
(くっ……!)
男は戦慄した。
それはそうだろう、屈強な男達を一息に倒してしまった程の強敵がいきなり現れ、圧倒的に不利な状況になってしまったのだから。
しかし、本当に恐ろしいのはーーー
(こいつ……!腕を組んでいやがる!)
ーー彼女が武器を持っていなかったことである。
相手が武器を持っているときに基本的に取ると良いとされている行動というものがある。
剣を持っているのなら一度距離を取る、弓を持っているのなら一気に間合いを詰める、といった風に。
それが分からないということは、もし間違った対処方を取ると自分が危険に晒される可能性が高くなるということであり、戦闘に於ける避けなければいけないポイントの一つとなっている。
(くそっ…!くそっ…!)
男は心中で地団駄を踏んだ。頭の中で何度も何度もパターンを計算するが、勝てるヴィジョンが全く見えなかったためである。
(こうなったら……!)
脱兎とはまさにああいう姿を指すんだろうなと後にミストは語っている。
男は180度方向転換すると猛ダッシュで駆け出した。
当然、後ろでニタリと笑うリオンの不敵な笑みには気づかない。
「まさか、手下を置いて逃げ出すとは…こいつらも浮かばれんだろうな……。おい……貴様、『何処へ行くつもりだ?』」
「うわぉっ!?ぐっ!!」
瞬間、男の足がまるで何かに縫い付けられたようにピタリと止まり、慣性の法則に従ってつんのめるようにして体を倒してしまうーー
(くそっ!!また…アレか…!!)
ーーが、直ぐに何かに引っ張られるように体を起こし、手に持った剣を強く握りしめる。
「さぁ、向かってこい。私は逃げも隠れもしない…」
(くそっ……舐めやがって……ん!?)
男は、リオンと対峙してから初めて「もしかしたら」と思った。何故なら、彼女は未だに腕組みをして仁王立ちをしていたからだ。
飄々としたその態度は、完全に油断していると男に思わせるだけの余裕が溢れていた。
(その余裕な態度、後悔させてやる……!)
多少、剣の心得があった。
そこいらの盗賊とやりあっても勝つ自信はあった。
さっきは手下がやられたが、それは奴らの腕が無いせいで、もしかすると自分なら……。
考え始めると、もう自分に都合のいい言葉しか頭に浮かんで来ない。足が勝手に女に走って向かっていく最中、男はそう思った。
「ああああああああああッ!!!」
男は剣を高く振り上げると、唐竹を割るかのように勢いよく振り下ろした。
(さあ、来いッ…!一体何で防ぐ!?剣か?槍か?
いや…もう遅いッ!!)
確実に殺った。と男は確信した。額に剣が当たるまで後数センチ。もうどうしたって防げるわけがない。
男は肉を切り裂いたことによる反動と返り血による衝撃に備えるーー
ーーーが、次の瞬間男の姿勢はガクン、と崩れることになる。切り裂いた筈の対象が、まるで霞を斬ったかのように消えていたからだ。
「ーーああ、そうそう。貴様、私の武器を気にしていたようだったが……」
(な…にぃ…!?)
ズン!!
「がっ…はぁっ!」
背後から聞こえた女の声にバッ、と振り向くとほぼ同時にーー男の鳩尾に激痛が走った。
「ーー貴様等程度の奴を相手にするのにーーー武器を使うまでもあるまい?」
(まさ……か……素……手……?…)
感じる鋭い痛みの中、武器を構えていなかった理由を悟り、男の意識は薄れていくーーー。
薄暗い森に喧騒は無くなり、後に残ったのは恐ろしいほどの静寂と、倒れ伏す男達ばかりとなった。
「……ふう……こんなところか…全く、歯応えのない奴等ーーー」
「おーい!リオンー!」
「………」
ズダダダダダダダダダダ!!!
遠くから笑顔で手を振る少年に、何か途轍もなく速いものが怖いくらいの圧迫感を持って迫り、そのまま素早い動きで跪いた。
「ありがとね、リオン。助かったよ」
まるで天使のような笑顔にリオンの凛々しかった顔が破顔する。
このような労いの言葉が、リオンにとって何よりも代え難い報酬であることは、彼女のまるで仔犬がご主人様から褒められた時のような様子から容易に想像できる。
「いえ…この程度の苦労、マスターのためならば何千、いや何万回でも厭いません!ですのであのぅ……
そのぅ……」
「???」
もじもじ。もじもじ。
ごにょごにょと口を濁らせる様は、大体何でも物事をズバッと言う彼女からすれば珍しいな、とミストに思わせるほどに違和感があった。
チラチラとこちらを伺い、何かを欲しているような…ーーでもわがままを言って良いのだろうかというような期待と不安が入り混じるーー見る人に「何だこいつ」と思われても仕方ないような、そんな表情をしていた。
「ああ!!」
ふと、何かを思い出したかのような声をミストがあげた。
まるで、思い出せなかった事柄がスポンと気持ちよく思い出せたときのような、裏のないそんな声色で。
その声に連れられるようにしてリオンはバッと顔を上げた。その顔には不安が消え、残すのは期待感だけといったところだろうか。
そんな彼女に、ミストはすっと手を伸ばすとーー
なでなでなでなで。わしゃわしゃわしゃわしゃ。
「くぅ〜〜ん…」
……断っておくが、目の前の光景は別にどこかの貴族の昼下がりーー少年と仔犬の戯れーーという訳ではない。単に少年が鎧を着て跪く女騎士の頭を撫でているだけで、別段おかしいところもないと言える(?)。
「ああ…よく頑張ったね…偉いね……」
なでなでなでなで。わしゃわしゃわしゃわしゃ。
「ああっ…あああっ……」
ゾクゾク。ゾクゾクゾクッ。
自分以外のーーそれも敬愛する主人から直接触られているという、激情ともいえる多幸感がスカーレットの身を包み込んだ。
「本当にありがとう……リオン……『愛してるよ』」
「わ…私もですマスター!!ああ……ああ….ますたぁ……ますたぁぁぁぁぁぁあーーーへぶっ!!」
ゴン、という鈍い音とカエルが潰れたような声が同時に周りに響いたのは、感極まったリオンがミストに抱きつこうとするまさにその瞬間だった。
彼女の額に何かがぶつかったような音だったが、その原因はすぐにわかった。
「テ、ティア!何をするんだ!感動的なシーンだったではないか!」
額を抑えて抗議するスカーレット。ほんの少しだけ涙目に見えるのは、僅かに差し込む月明かりのせいだろうか。
「いえ何か………そう、ご主人様に悪い気配が近づいたと思って……なんとなく」
「『なんとなく』じゃない!完全に今考えただろう!」
「それよりあなた……最初の凛々しい感じはどうしたの?すっかり仔犬モードじゃない」
「な……!誰が仔犬だっ!この偉大なる朱色の騎士、リオンに向かってよくもそんなーーー」
「ご主人様」
わしゃわしゃわしゃ。
「くぅ〜…ん…」
「……………」
「……はっ!ち、違うっ!!なんだこの巧妙な罠はっ!抜け出せる気がしないぞっ!?」
「……………」
「そ、それにっ!『愛してる』なんて言われたら…」
「うん!ボク、リオンのこと、愛してるよ!もちろんティアもね!!」
「……ありがとうございます」
「有難き……幸せ…」
うん!と満足げな笑顔で微笑んだ少年を見て二人は悟り、遠い目をした。ーーああ、家族に向ける愛情と同じか、と。
「……あ、あのー…」
初投稿です。
少しでも多くの人に面白いと思ってもらえるように頑張ります!