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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

すべてはアミノサンのために

作者: 赤いからす


 シュタイル・ラクトースは悩み事が多い。

 うれしいことに、その悩みは不平や不満といったストレスにはならず、むしろ心地いい安らぎとなって彼の心を満たしていた。なぜならすべての悩みの発信源は付き合ってまだ三ヶ月の彼女なのだから。

 生まれて初めての彼女、しかも美人でスタイルもモデル並み。なびく黒髪はエキゾチックで東洋の神秘を感じ、刃物のような切れ長の目で見詰められると、心臓を突き刺される快感を味わえる。彼女の名前はアミノ(網野)。日本人でこちらの大学に留学するのが目的だったみたいだ。

「ラクトース、コーヒーをお願い。今日はフレンチで」

 アミノさんは目を擦りながら、指示を出す。

「わかった、5分待ってくれたまえ」

 コーヒーひとつだけでも彼女の好みはコロコロ変わる。ある日はコーヒー豆を()き、時間をかけて本格的にドリップしてほしいとか、またある日はインスタントでいいとか、その日の気分で注文内容は変化してしまう。私はその多種多様な変化のために準備は(おこた)らない。今朝はその中間くらい手間がかかるコーヒーを要求。

 さっそく粗挽きしたコーヒー豆をフレンチブレス器に入れ、熱湯をそそぐ。4分後にプランチャーを押し下げてコーヒーを抽出。花柄のコーヒーカップをソーサーにのせてアミノサンに差し出す。

「アミノさん、どうぞ」

 私は流暢(りゅうちょう)な日本語で話す。

「ありがとう」

 彼女は私を見ずに受け取り、フランス語で季節という意味の『La・saisonラ・セゾン』というファッション雑誌の5月号に目を向けながら優雅にコーヒーをすすりはじめる。

 私は2年間、英語の教師として日本で働いていた経験を活かし、彼女を口説いた。初回のチャレンジで成功し、楽しい日常をすごしている。

「この瞬間が私にとって至福(しふく)のとき」

 彼女の横顔を見ていた私は思わず独り言をもらしてしまう。

「いま至福(しふく)って言った?そんな言葉をよく知っているわね」

 彼女が雑誌から目を離す。冷たい視線で褒め言葉を浴びせられ、心臓を突き上げてくるような気持ちの高鳴りを感じる。

「朝からドキドキさせてくれるのは、この世で君くらいだよ」

 私は歯の浮くような台詞を言うと、彼女は当然でしょ!と言わんばかりに怪しく微笑む。

 至高の朝がはじまったが、この生活が永遠に続くはずがない。

 残念ながら二人の未来は暗く、絶望だけが遠い先に見える。残されている道は残酷なのに、彼女もあえて口にしない。言葉にすると現実味がどんどん増して、幸福な思考回路に支障をきたす。

 お昼にビスケットの表面についた青いカビをナイフで削り、軽くあぶって皿にのせる。

「ご馳走ね」彼女は嫌味を言ってから、貴重なビスケットをたいらげた。

「ディナーも期待してほしい」

 私は自信に満ちた表情で言う。

「過剰な期待をしてもいいのかしら」

「オフコース」

「私の期待を良い意味で裏切ってちょうだい」

 彼女は冗談半分でハードルを上げてきた。毎日のように振り回されているので慣れている。彼女の口から発せられる要求や罵声はすべて私にとってご褒美なのだ。

 次の日の朝、昨夜の豪華なディナーを堪能した彼女はご機嫌だった。

「コーヒープリ~ズ」

 抑揚(よくよう)をつけ、しかも目線を合わせてきてくれた。

「どうぞ」ドリップしたコーヒーを楽しめる最適な温度の85℃にして彼女に差し出す。

「ありがとう」彼女はコーヒーカップの取っ手に長い指を(から)める。

 そして、私は下ごしらえの準備のこともあり、心苦しい胸の内を彼女に話さなければいけない。

「今日も昨日と同じディナーでいいかい?」

「もちろんよ」

 私が願っていた答えを言ってくれる彼女は天使にしか見えなかった。

 次の日の朝、彼女はコーヒーを出す前に「ディナーはいつものでいいわよ」と決定事項のように催促してくる。

「心得ております。お嬢様」

 私は胸に手を当てながら頭を下げた。材料を加工し、食べ物へ変化させて口に運び、おいしい!と思うだけで食卓は幸福に包まれる。人間は単純なのだ。

「今日も堪能させてもらったわ」

 ディナーが終了し、彼女を満腹感で笑顔になり、私は食器類を洗いキッチンを片付けてから食料の調達にかかる。重大な任務であり、男しかできない仕事だ。

 俺達が住んでいるのは高層マンション。しかも最上階で眺めは最高。だが、羨む人間は周りにはいないだろう。一階へ降りて慎重に外へ出る。そして背負っているリュックから空き缶を遠くへ投げた。軽やかな音が響き渡り、しばらくすると「うぅ~うぅ~」と低い唸り声が聞こえてくる。

 音に反応する奴らの習性を利用することに成功して、あとは声がした方向に銃を撃ちまくって待つ。物音がしなくなってから近づくと、釣りで地上に揚げられた魚みたいにピクピク動いているゾンビを発見。止めに脳天へ一発見舞って完全なる死を与える。

 ポケットからカロリーチェッカーという栄養成分分析装置を取り出す。注射器のような形をして先端の針を刺し、DNAを採取する。本体の片面が表示パネルになっており、瞬時に成分分析が表示される。コンパクトなカロリーチェッカーのため、詳細な分析はできないが、ゾンビの肉が食べられるのかは判断してくれる。

 表示パネルに文字が流れ『脂質・たんぱく質の酸化分解率67%・中心部を75度以上で 90秒以上加熱すれば食べられます』と死滅したゾンビの肉が比較的新鮮なことを教えてくれた。

 私は両刃のナイフを使い、血抜きをした肉塊をビニール袋に詰めて持ち去る。所要時間1時間もかからず、手慣れてきた自分をほめたい。

 マンションに戻ると彼女は『La・saisonラ・セゾン』の5月号に視線をはなさずに「収獲はあった?」と尋ねてくる。

「今日はいつもより新鮮な肉が手に入ったよ」

 私は自慢気に答えた。

「あら、そう」素っ気なく返事をしながら雑誌を眺めている彼女は、どこかうれしそうに見える。

 数ヶ月後、私達の生活に変化の兆しはない。

 彼女はいつものように『La・saisonラ・セゾン』の5月号に目を通し、残り数枚しかないビスケットを口に運ぶ。

 普段と変わらない振る舞いをするアミノさんの態度を私は理解している。彼女は外の世界で起こっていることを知りつつ、現実を受け入れたくないのだ。鳥インフルエンザから派生した正体不明のウィルス〝VNI〟(Virus non identifié)が人間を凶器の破壊衝動を起こすゾンビに変貌させた。(Virus non identifié)を直訳すると未確認のウィルスという単純すぎる名前だが、それだけ感染力がすごくしゃれた舐めをつける暇もなかったようだ。

 彼女は泣き言を吐かず、平静を装っているのはすごいと思う。普通の女性ならギャァーギャァー騒いで邪魔な存在になるだけ。アミノさんがそんな態度をしたら、さすがに私でも殺意がわいてくるかもしれない。

 しかし、やはりというべきか物事には限界がある。ゾンビが罠に引っかからなくなった。知恵がついたのだろう。驚くことじゃない。犬だって仲間が殺されているのを見れば寄り付かなくなる。

 私は報告すべきか迷ったが、いつもと違う彼女の反応が見たくて話すことを心に決めた。

 ドア横に備え付けられている卓上計算機サイズの電子錠に暗証番号をテンキーで打ち込み、「ピー」と音が鳴ると鍵が解錠される。

 私が部屋に入ってもアミノさんは『La・saisonラ・セゾン』の5月号から目を離さない。すでに暗記するくらい読み込んでいるくせに、その一途な姿勢は評価に値する。

「人間は嗜好(しこう)がないと退屈だろうね」

 私は災害で家を失い避難所生活を余儀なくされている被災者に労をねぎらう大統領のように話しかける。

「また難しい日本語を覚えたみたいね」

「話をはぐらかされてしまうと、新しい雑誌がほしいとか質問できなくなってしまうね」

「この一冊で十分よ」

「さすがですね、アミノさん」

「別に我慢しているわけじゃないのよ」

「わかっていますよ。もし、私が食料や嗜好品(しこうひん)を求めて遠くへ出かけて、ゾンビに襲われて感染した場合、アミノさんは一人ぼっちになってしまうからね」

「そうね、ここに閉じ込められたまま死ぬのは、本望じゃないわ」

 彼女の弱気な発言を初めて聞いたかもしれない。

「実は、カロリーチェッカーで自分の細胞を調べてみたんだ」

「どうしてそんなことを?」

「もちろん自分の健康状態をチエックするためさ」

「オロカネ」と彼女はボソッとつぶやく。

「オロカネ?どういう意味だい?」

 私は首をかしげながら尋ねる。

「頭の働きが鈍化(どんか)なことよ」

「ドンカってなんいだい?」

「日本語って難しいわよね、フフフッ……」

 彼女は悪戯(いたずら)っぽい笑みを浮かべた。

 なぜか背筋に冷たいモノが走る。恐怖心ではなく、気をつけろという自分自身への警告だとわかる。

「ところで私の健康診断の結果だが、圧倒的に必須アミノ酸が欠如しているらしい」

「そんなの当り前じゃない。人間に必要な9種類の必須アミノ酸は体内では合成不可能な栄養素で、動植物から摂取しないといけないもの。今の状況で鳥、豚、牛、マグロ、大豆製品から良質なたんぱく質を摂取するなんて無理な話よ」

「でも、君の名前はアミノさんじゃないか!」

 私は大げさに両手を広げた。

「私が名前を告げた途端に、目を輝かせていたからわかっていたわ。あなたは私を食料としか見ていないんだってね」

 アミノさんは丸めた『La・saisonラ・セゾン』の5月号を私の口の中へ突っ込む。

 嗚咽の息苦さで私は片膝をつく。

 完全に油断していた。

「ボンヌ・バイ」アミノさんはフランス語で〝さようなら〟を意味する言葉を残してドアを閉める。施錠する軽やかな音が聞こえたが、それが、私の耳に聞こえた外からの最後の音だった。

               ♢

               ♢

               ♢

 私がマンションから出られたのは一時間後。

 まだ、自分の名前を覚えているかしら?

 網野(あみの)……下の名前が思い出せない。

 まさか高層アマンションの一室で閉じ込められているのに、感染するとは思わなかった。思い当たるのは、欠けた陶磁器のコーヒーカップで指を切ったとき。

 アイツ、ちゃんと食器類を洗っていなかったのね。

 許すマジ!

 どうせあいつもカロリーチェッカーの針で感染しているから、ゾンビになるのは時間の問題かもね。

 こんなことならフランスになんて来るんじゃなかった。

 腕が軽い。と思ったなら、砂化したように右腕がずり落ちる。

 ものすごい感染力ね。

 けれど、ほぼゾンビになって運動神経が鈍り、細胞は腐っているのに、思考力は変わらず痛覚がない。この症状は、私だけ特別!なんて思わないほうがいい。どうせ〝VNI〟の正体が判明したころには人類のほとんどはゾンビにされていることでしょうね。

 初めての海外で浮かれ、ダンディーな男にディナーを誘われてノコノコ付いていった女の末路ってこんなもの。干しあがって地割れしているアスファルトを見ると、監禁生活のほうが楽だったかもしれないと思ってしまう。

 二十メートル手前にボロボロの服を 着ていない(・・・・・)金髪の男がフラフラ歩いていた。

 まだ感染してそんなに時間が経っていないのなら、アミノ酸が微量でも成分として残っているかもね。

 逆ナンしちゃおうかしら。

 もしかすると、私と同じく思考力があるかもしれないし、もしかすると、監禁して最低限のエサをくれるかもしれない。あぁ~豚肉が食べたい。体がアミノ酸を欲しているわ。ヤドカリのように次々と新しい男と棲み家を変えていけば、そのうち有りつけるかもしれない。

 前方にいる男の背中を追いかけた。

                                             〈了〉

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