そしてまた生きる希望
「……よし」
支度を済ませて部屋の扉に鍵を掛ける。
いつものように大学へと向かう。
だが、足取りは軽い。
俺に纏わり付いていた憂鬱は、彼女が絶ち斬ってくれた。
少し、気負い過ぎていたんだと思う。
必死に勉強して大学に入った。
あれだけ頑張って、そうまでして来たかった場所だ。
楽しいに違いない。いや、楽しくなくてはならない。
そんな強迫観念にも似た想いが、俺の人生から色を奪っていた。
モノクロの世界で、死んだように生きるくらいなら、いっそ死にたい。
なんて考えていた。
けど、今は違う。
昨日の夜、冷たくて暖かい殺人者の腕の中で、泣いて、哭き叫んで、心の底に溜まっていた、どろりとした物を吐き出すことが出来た。
憑き物が取れた、なんて言うのは正にこういうのを言うのかもしれない。
そんなに重く考える必要なんか無かった。
人は誰だって、産まれて、生きて、そのうち死ぬ。
だから、死ぬまでの間、ただ生きてるだけだ。
その生き方に、正しいも間違いもない。
まして上だの下だのあるはずもない。
人それぞれ、状況も価値観も違うんだから、どう生きているかなんて比べるべくもない事だ。
「どうぞ」
大学内を歩いていると、一人の学生から紙を手渡された。
イベントのビラだった。
今日は例の広場で書道パフォーマンスをやるんだとか。
素晴らしいことだ。書道部は楽しく青春をやってるらしい。
だからと言って、彼らが俺に勝っているということはないし、俺だって書道部には負けちゃいない。
俺には俺の生き方があって、それは誰とも相容れるものではないんだから。
そんな彼らのことを、羨ましい、と僅かに思ってしまうのも事実ではあるのだけど。
一晩程度で人は簡単に変わったりはしないけど。
自分の日常が多少学生らしくないからと言ってそれが悪いとはもう思わない。
青々と茂った隣の芝生に目を取られて、自分の庭に咲いた花に気付かないようでは意味がない。
他人が自分にないものを持っていて、自分がそうなりたいと思うならそうなれるように行動すればいい。
そうでないなら、気にしなくていい。
俺は自分以外の『誰か』になりたいわけじゃないんだから。
誰とも違う、誰でもない俺自身でありたいんだ。
「おはよう!」
教室に入ると、先に席に着いていた友人に声をかけられる。
その隣に腰掛けながら、俺も言葉を返す。
「ああ、おはよう」
「ん?何か今日はいいことでもあったか?」
「え?」
思わず聞き返すと、
「あ、いや、何かいつもより明るく見えたからさ。良いことでもあったのかと思って」
いつもより明るい、か。
多分それは間違いじゃない。心の持ちようも変わって気持ちも軽い。
俺は、どちらかと言うと自分が明るいということより、彼がそれに気づいたことが驚きだった。
こんな風に俺のことを見てくれている人間がこんなにも近くにいたなんて。
本当に、何も見えていなかったんだな。
自分が思ってたよりも、俺はずっと幸せだったのかもしれない。
そんな事にも気づいていなかったなんて、俺は随分と愚かだったみたいだ。
「いつもより明るい、って。俺、いつもそんなに暗いか?」
照れ笑いと、苦笑交じりに言葉を返す。
「そういうつもりじゃ無くてさ」
「わかってるよ」
冗談を笑い飛ばして、初めの質問に答える。
「ああ、あったよ。良いこと」
言ってから、ありがとう、と続けると、相手は不思議そうな、面食らったような表情になった。
それがどうにも可笑しくて思わず吹き出してしまった。
急に声を上げて笑う俺を見て少しの間ぽかんとしていた友人だが、俺に釣られたのか一緒になって笑い出した。
今日一日で沢山の発見があった。
何気ない会話も、ごく普通の食事も、いつもと同じ部活もこんなに楽しいなんて知らなかった。
暗くなった帰り道を歩いていると、突然、背後に気配を感じた。
優しく柔らかい雰囲気を感じ取って、振り返る。
「もう俺を殺す必要はないんだから、いきなり背後に出てくなよ」
もちろん相手は散々世話になった殺人者だ。
「つい、癖で」
「『つい』、殺しちゃったりしないでくれよ?」
「気を付けるわ」
軽く冗談を掛け合って、無表情な少女は本題を切り出した。
「どう?人生は」
「楽しいよ。このままで良いんだって思ったら、何もかも素直に楽しめた」
「良かった」
俺も、少し真面目に質問する。
「……お別れでも言いに来てくれたのか?」
「そうね」
小さく間を置いて答える。
「私は貴方が『死にたい』と願ったから現れた。でも、今の貴方はそんな風には思っていないものね」
「お前のおかげだよ」
「ありがとう。でも、願われなくなった『願い』にはもう居場所はないのよ」
「……そっか」
「それじゃ、さよなら」
「ああ」
言うと、彼女は一歩、二歩と下がりながら影を薄くしていく。
そして終には完全に闇に融けてしまった。
今生の別れにしては少しあっさりし過ぎだったかもしれない。
そう言えば、礼の一つも述べていなかった。
もっと色々な事を言ってやれば良かった。
そんな後悔の念と共に小さく一言、闇夜に言葉を放つ。
「ありがとう、本当に」
自分の中で一応の区切りを付けてから、前を向き直す。
そして、絶句した。
「どういたしまして」
そこに立っていたのは、今さっき消えたばかりの殺人者。
「お前、どうして……?」
「確かに、願われなくなった『願い』は存在価値を失くすけど、貴方の本当の願いは死ぬことじゃなかったでしょう?」
言われてから気付いた。
「貴方の本当の願いは『死ぬこと』じゃなくて『生きること』。残念だけど、貴方が死ぬまで私は消えられないわ」
「残念って」
と言うより。
「だったら何で消えたふりなんかしたんだよ?」
「どんな反応するのか見てみたくて」
けろりと答える少女。
呆れながらも、何だか笑えてきてしまった。
そんな俺を見てか、無表情だった彼女もクスリと微笑んだ。
「そうだな。俺の願いは『生きること』。もうしばらくよろしくな」
昨日まで『死にたい』なんて考えていた人間は『死んだ』。
俺は生きていく。
もっと楽しい未来のために、ではなく。
今を楽しく生きるために、俺は生きていく。




