休日の汽車 ⅳ
チューリップ畑の上には、フリージアとネモフィラが対比をなして咲き広がっていた。
ここまで来たら、あとはルートが決まっている。エス字に回っていき、景色が一望出来る高台へ登るのだ。
謐君の手を握り、一歩をゆっくり歩いていく。
昨年同じ時期に来た時、フリージアを霧久君に、ネモフィラを千領夫妻に例えたりしていたり、フリージアの香水がどうこう言っていたことなどを思い出した。
思い返せば、今の生活を初めて三年が経つ。
今の職場に入る前は、別の同じような企業にいた。しかし三ヶ月でそこは辞めた。そして今の職場に転職した。
例の空き枠が発生し募集が掛かっているのを偶然見つけた僕は、僕の最終目標に最も近いそこに飛びついた。
不自然に採用された僕は、性格も相まって、歓迎はされなかった。前任者がいなくなったことも関係しているかもしれない。
しかし僕は、目的を成就出来れば、それでも構わなかった。手前都合で悪くされた関係を、積極的に修復する気もなかった。
そんな異端者の僕に自然に話しかけてきた変人が、海葛君と霧久君だった。
僕とて残忍で冷酷なロボットではない。三年も同じチームで過ごしていれば、仲間意識も少なからず生まれてくる。数少ない、心許せる「人間」だ。
だが、あくまで僕は、謐君のためだけに生きている。選択を迫られれば、彼らより謐君を取るだろう。
そして彼らも、彼らの大切なものと僕との選択を迫られれば、僕と同じ決断をするだろう。
それは至極真っ当なことだ。
だから線引きをすることにしている。
僕たちが互いに踏み込んでいい領域を、自分の心に定めている。
捨てても捨てられても、あいつなら仕方がないと言える、安全地帯を。
高台に登ってきた。
ユキヤナギが道を作っている。
僕たちは柵に近づいて、眼前に広がる風景を静かに眺めた。街の見慣れた俯瞰図だ。
もう太陽が位置を落とし、白から黄、そして朱へと燃え始めていた。
これから地平から天空にかけて、赤系のグラデーションを織りなし、決して交わることのない青空と茜空は、やがて暗闇に侵食されていく。黄昏が不安を煽るのは、深層心理に闇への恐怖が隠れているからだろう。
加速する黒の中を、今度は月が照らす。太陽の意志を反映するかのごとくに---
僕は、太陽を横切る二羽のカラスをちらりと目で追った。
「謐君」
謐君がこちらを向いたが、僕は前を向いたままだった。
「僕が永久に君の傍にいなくなったら……どうする?」
こんなことは訊くのは無粋だと解っていた。訊いてもどうしようもないことだと解っていた。
しかし、なぜか今、訊いてみたくなった。
謐君が繋いでいない右手を差し出したので、僕は左掌を上にして見せた。
謐君の人差し指が、僕の掌をなぞる。ゆっくりと、丁寧に。
そうして紡ぎ出された音なき声が、僕の言葉を喉の奥へと追いやった。
きっと望むべであろう最適の答えが、僕にとっては悲哀と虚無感の種となって、心の奥底へと沈んでいった。
「人間」と「ヒューマノイド」の間に、決して超えることの出来ない壁が存在することを、この肌で実感した。
僕は、自嘲を含めて笑った。
「そろそろ帰ろうか」
すっかり外は暗くなった。
汽車の中の光は、昼間とは違った明るさを醸し出す。
汽車と言っても、大昔のような汽車ではなく、小型の火力発電所を搭載した自家発電車であり、水蒸気を排出している様がまるで汽車であるから、汽車と呼んでいるというだけだ。二酸化炭素貯留技術が発達した今では、黒煙をあげるということは無くなったのだが。
窓際に座った謐君は、デージーの花を抱えたまま、僕の肩にもたれて眠っていた。
この時間帯の、この方面の汽車に乗る人は少なく、疎らに座っているくらいだ。
向かい側の空席をぼんやり見ながら、色々と考えていた。
僕の持っている記憶の中では、すでにヒューマノイドは存在していた。僕の幼い頃の記憶がほとんど無くても、世界の記憶がそう言っている。
まだヒューマノイドのいなかった世界は、どんな空気だったのだろうか。
きっと今とそう変わらない。
その場所にいるのが、人間か、そうでないかの違いだけだ。
もしくは、初めから変わっていないのかもしれない。
ヒューマノイドのヒト化が、いつ行われたのかは分からないが、もしもここにいる人間のうち誰かがが、元ヒューマノイドの第三の人類であったとしたら。
もしかしたら、海葛君や霧久君や先生が、僕が。
ありえない話ではない。
そうであれば、人間とヒューマノイドの領域は交わり、融解し、やがて不可分になる。
人間とヒューマノイドが、一つになる。
がらがらと車両連結部のドアが開き、サングラスの男が一人入ってきた。
男は、荷物を持っていて、僕の前に腰を下ろした。
その男は僕と謐君を交互に見た。
「ふむ…人間か」
男は何やら呟いて頷く。
どうやら間接脳波計測装置のようだったが、既製品のそれよりも随分形態が違う。
男は、こちらを見つめたまま、肘当てに肘を立て、拳に顎を乗せていた。脚を組み、何だか尊大な態度だった。
僕は通路側にそっぽを向く形で、視線を逸らしていた。
関わっては面倒だ。例の人間至上主義者だと直感で分かっていた。
やがて、アナウンスが耳に響いた。
「…着いたよ」
謐君を起こして、席を立って早足で歩く。
「ちょっと待て」
ドアに右脚を出した所で、誰かに僕の左腕を掴まれた。
振り返ると、さっきの男だった。
「そっちの女、人間じゃねえな……ガイノイドか?」
男は、車外で待つ謐君を顎で指した。
「違います」
「俺の目は誤魔化せねえよ。あれは間違いなく、長い間使い込んだヒューマノイドの動きだ」
「だから違います!」
「いいや、違わないね」
「あなた脳波を見たんでしょう?」
男の手が緩んだ。
その隙に、手を振り払って外に出た。
ここでは普段、他に降りる客もいない。
僕が降りると同時に、ドアが閉まった。
汽笛が鳴り響く。
窓からは、男が乗務ヒューマノイドに囲まれているのが見えた。
街灯に照らされた白煙をあげて、汽車は発車した。僕たちは遠くなっていく車輪の音が消えるのを待つ。
汽車の去った方向から顔を戻すと、謐君が心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫、大丈夫だよ……何があっても僕が守るから」
口角を限界まで引き伸ばし、笑ってみせた。
携帯杖を伸ばし、いつもと違う複雑な道で帰る。
僕にも時間がなくなってきた。悠長に、慎重に構えている暇はない。
一歩一歩歩くたびに、焦燥がちりちりと左腕を焼いた。