大魔導師の師匠①
ジュニアの朝は早い。もとから寝起きは良い方だが、ドラクロワとの新しい生活を始めてから、輪をかけて早起きをするようになった。彼が朝一番にすることは朝食の用意。それが終わったら、家の全ての窓を開け、よどんだ空気の入れ替えを行う。師を起こしにいくのは、それら全てが終わってから。誰にそうしろと言われたわけでもなく、これは自主的に行っていることだ。
家事など、魔法を使えばそれこそ数分足らずで片付くだろう。しかし、そうしないのは、以前にドラクロワが言った言葉がジュニアの心に深く根付いていたからだった。
「魔導師の修行に一番大切なのは、魔法が使えなくなっても困らないよう、生きる術を身につけておくことだ」と、師は語った。
ジュニアは、これには感じ入るものがあった。たしかに自分は、魔法使いとして絶対的な自信がある。しかし、おいすがるものが魔力しかないような、そんな危うい人間にはなりたくなかった。
ドラクロワが言いたかったのは、きっと、魔力とは所詮、諸刃の剣でしかないということだろう。実際に、変性して魔法の使えなくなったドラクロワを間近で見て、ジュニアは痛感した。王国で一番強いと名を馳せる者が、ああもあっけなく非力な存在になり下がるのだ。魔力以外の能力も鍛えておかねばならないと、ジュニアが危機感を抱くのもごく自然なことだった。
(俺は変性しても普通に魔法は使えるんだけど。性別が変わったら、魔力がなくなるのが普通なのかな。それとも、師匠がたまたまそういう体質なだけなんだろうか)
朝食の時に一度質問してみようと思い、ジュニアは師を起こしにいくことにした。すると、ドラクロワの薄暗い自室に、見慣れぬ人影があった。
この家には、自分と師以外には誰も住んでいないはずだ。ともすれば、師がジュニアのあずかり知らぬところで招いた客人か、はたまた不法侵入の不届き者か。ジュニアは反射的に身構えた。よく目をこらして見れば、人影は女性だった。それも半裸の。ジュニアは一瞬面食らって、思わず女性から視線を外した。すると、視線をそらした先に、たまたまドラクロワの眠る姿を見つける。彼もまた、女性と同じように衣服を乱し、ベッドに突っ伏していた。
察しの良い少年は、この時点で、女性が九割がた師が招いた自分のあずかり知らぬ客人だろうと悟った。
「お、お邪魔しました……」
ジュニアは小声で静かに退散する。追加でもう一人分の朝食も用意するべきだろうか、などと考えていた矢先のこと。気付けば、先ほどの女性が再びジュニアの前に立ちはだかっていた。
ジュニアは今度こそ身構えた。女性はたしかに部屋の中にいたはずなのだ。そしてジュニアは、その部屋の扉をしっかりと閉めて退室してきた。しかし、部屋を後にしようとしたその瞬間には、もう女性はジュニアの目の前にいたのだ。移動してきた気配などまるで察知出来なかった。それだけで、彼女が只者ではないということがわかる。
「お前がクロの弟子だね」
女性はそう言った。ジュニアは返答しなかった。特に返事を求められているわけではないと感じたからだ。そして、ジュニアの思ったとおり、女性はジュニアの返答を待たずして口を開いた。
「ドラクロワの不幸な連鎖が、ようやく終わりを迎えようとしているのに、お前はまた同じ悲劇を繰り返すつもりなのか。……良い。それならば、お前にも見せてやろう。この一族の、呪われた末路を」
女性が言うや否や、ジュニアは真っ白な光に包まれ、その視界を奪われていた。
*
少年がこの屋敷に来たのは十二歳の時だった。黒い髪と瞳がまるで薄汚いカラスのよう。そう言ったのはここの奥方だった。この国の髪色は、茶、金、銀のような色素の薄いものが主流なため、少年はいつもいるだけで、良くも悪くも目立っていた。
珍妙な外見に孤児とくれば、働き口は自然と狭まる。彼はやっとの思いでこの家の召使という職を手に入れ、過酷な労働条件の中、毎日休みなしに働いていた。仕事は主に屋敷中の掃除。少しでも埃が残っていようものなら、呼びつけられて全てやりなおしか、ひどければ即刻解雇。ゆえに、なかなか手の届かない隠れた隙間なども、隅々まで完璧に磨き上げなければならない。
少年は必死に壷に隠れた壁を拭こうと手を伸ばした。しかし無情にも届かない。壷をどかそうとしたが、彼の細腕ではびくともしなかった。仕方がないので、彼は腕力以外の力を行使することに決めた。
不安定に、だがゆっくりと宙に浮き上がる壷。はたから見れば、非常に不可思議な光景だった。少年は触れてもいない壷を、指先の動きだけで操っているのだから。難しかったが、集中力を途切れさせなければ不可能ではなさそうだった。
「随分と面白そうなことをしているわね」
唐突に背後から女性の声がして、途端に彼の集中力は途切れた。
盛大な音と共に元の造形を一瞬にして失う壷。後に残されたのは、粉々になった陶器の破片と、青ざめた顔で振り返った少年だけだった。
「お前は掃除すら満足に出来んのか」
案の定、少年はすぐに屋敷の当主に呼び出され、顔面を思い切り殴り飛ばされた。殴られるのは初めてではないが、成人男性の力いっぱいの拳は、何度受けても慣れるものではない。少年は途端に恐怖におののき、ひたすら謝罪し許しを請う。もちろん、それで済むはずもないのは百も承知だ。しかし、そうすること以外に、彼は自分が何をすべきなのかわからなかった。当主は、簡単に地にひざまずく相手を見て、満足げに笑んだ。
「お前には、一生かかってもあの壷を弁償してもらう。見世物小屋か、はたまた男娼館か。いずこに売り飛ばしてやろうか」
「では、私がその子を貰い受けましょう」
いつからそこにいたのか、さきほど少年に声をかけた女性がそう言った。彼女の登場に、少年よりも遥かに驚いていたのは、意外にも当主の方だった。驚いているというよりは、すくみ上がっている、と言ったほうが適切だった。
「こ、これは、ドラクロワ殿! いつからそこに……」
「ついさっき。それよりも、その子を譲っていただけるのか、そうでないのか、早急にお返事をいただきたいのだけど」
「は……あ、あの、この召使を、でございましょうか?」
「そう」
当主が二の句が継げないでいるのをいいことに、女性はさらうようにして少年を屋敷から連れ去っていた。しばらくして、この家には女性から莫大な報酬が寄せられたという。
彼女は少年に言った。
「あなたは魔法が使えるのね。私はちょうど、あなたくらいの年の魔法使いの子供を探していたのよ。私、今弟子募集中だから」
「弟子、ですか? 僕が?」
黒髪の少年は戸惑いを隠せなかった。
「そうよ。掃除も洗濯も料理も、教えずとも最初から出来るような優秀な子が欲しかったの。……あ、いえ、別に、家事をしてもらう目的で連れてきたわけじゃないのよ。ええ、断じて。決して、魔法の使える便利な召使が欲しかったから、とか、そんな浅はかな理由じゃないから。ついでに言うと、可愛いなら尚良し! とかも思ってないから。安心してね」
「は、はあ……」
「それにね、毎日が単調で退屈だから、からかいがいのあるおもちゃ―――もとい、話し相手が欲しかった、とかいう理由でもないからね。ちゃんと、一人前の魔導師を育てて世に送り出すという立派な使命感ゆえの行動であって、間違っても……」
女性の長い話に少年は目を瞬かせていたが、すぐに邪気のない笑顔を向けた。
「はい。ご心配には及びません。あなたは僕を救ってくれた恩人です。僕はあなたを信じます」
「……あら。見かけは黒いのに、中身はとことん白いのね」
女性はそう言うと、少年の前に屈み、彼と目線を合わせた。
「私はカレン。カレン・ドラクロワ。これでも魔導師の端くれよ。ぼうや、あなたのお名前は?」
「僕はペゾです。ペゾ・レビトン。レビトン孤児院の出身で……」
「ペ、ペゾ……?」
女性―――カレンは一瞬呆けたような顔をした。
「それはまた、不憫な名前ね」
「不憫? 不憫ですか?」
「だって、『ペゾ』なんて、響きが最高に間抜けだわ」
少年は、カレンの言ったことの意味がよくわからなかった。
「うーん。顔はせっかく可愛いのに、もったいない。そうね……」
彼女が思いついたように手鼓を打つ。
「今後、あなたを『クロ』と呼ぶことにするわ」
「クロ?」
「そう。あなたのその黒い髪と瞳を称えた名前よ。まるで犬みたいで可愛いでしょう? 真っ黒な小型犬。あなた、見ていてそんな感じだもの」
そう言われて、少年は何とも言えない複雑そうな表情をした。喜ぶべきか否か、よくわからなかったからだ。
そんな折、突然部屋のドアがノックされ、扉が勢いよく開いた。入ってきたのはこちらも少年。浅黄のローブに身を包んだ、銀髪の美しい少年だった。
「あら。お帰り、ファーゼル。あなたを待っていたのよ」
カレンの出迎えには一切応じずに、ファーゼルと呼ばれた少年は、黒髪の少年を発見してすぐに眉間に皺を寄せていた。
「なんです、この毛色の黒いのは」
「そうね。たしかに黒いわ。だから彼はクロ」
「……今度は人間を拾ってきたのですか? まったく、あなたの気まぐれにはほとほと呆れる。それに、今回のはまた随分と変わり種だ」
ファーゼルはそう言うと、まるで値踏みでもするように、黒髪の少年をじろじろと見回した。
「なるほど。僕の銀髪に飽きたら、今度は黒髪ですか。まあ、僕はもう何も言いませんけど。あなたに小言を言うのも正直疲れました。それに、どうせもうすぐ僕は、ここの人間ではなくなりますから」
「またまた。冗談が好きね。ファーゼルは」
「……僕が冗談が嫌いだということは、あなたが一番よくおわかりのはずでしょう?」
二人の間には、そこはかとなく険悪な雰囲気が漂っていた。それこそ、その場にいれば誰にでも感じ取れるほどだった。その空気に耐え切れずに、思わず黒髪の少年が、不安そうな目でカレンを見上げる。すると、カレンがそれに気付いて優しく微笑んだ。
「大丈夫よ、クロ。心配しないで」
「でも、カレン様……」
「カレン? そうですか。今度の名前はカレンですか」
銀髪の少年がその名に反応した。
「良い名前でしょう。気に入っているの」
「別に……。どんな名であろうと、あなた自身が変わらないのであれば同じことだと思いますので」
「……また、随分と辛口ね」
「当たり前です。僕はあなたが嫌いですから。それでは、自室に戻らせていただきます」
銀髪の少年は踵を返す。が、怯えるように見つめる黒髪の少年を見て、ふと彼は足を止めた。
「その目。まさしく捨てられた犬のようだな。それとも、本当に君は捨て犬なのか。……まあ、いい。せいぜいその人に尻尾を振って、気に入られておくことだ。見た感じ、魔力もそう大したことはなさそうだし、魔導の才を秘めているようにも見えない。そんな捨て犬がこの家でうまくやっていくには、主人に取り入るしかないだろうな。たとえ、その主人がどれだけ最低な人間でも。兄弟子として、僕がアドバイス出来るのは、それくらいかな」
銀髪の少年は、それだけ言うと今度こそ去っていった。自分よりも背が高く、眼差しが少し大人びていたから、きっと年上なのだろう、と黒髪の少年は思った。
「ファーゼル……あの子、本気でここを出て行くつもりかしら。残念だわ。あの子にシロと名づけて、クロとつがいにするのも面白そうだったのに」
カレンが最後に言い放った一言は聞かなかったことにした。