大魔導師の弟子④
声がした。自分を呼ぶような声が。その声は穏やかで、いつも全てを包み込むように優しかった。呼んでいるのは女性だった。長い髪の、穏やかな笑顔を携えた美しい女性。「クロ、こっちにおいで」と、両手を広げていつも抱きしめてくれた。クロはその柔らかな笑顔が大好きだった。その居心地の良い腕の中にいつまでもいたいと、いられたら良いなと、ずっとそう思っていた。「クロ、クロ……」と、何度も名前を呼んでくれる彼女。泣きたいくらいに幸せだった。
その穏やかな声に、ふと叫ぶような声が混じった。同じく自分を呼ぶその声は、耳障りなほどにうるさかった。うるさいくらいに、悲痛に自分を呼んでいた。気が付くと、抱きしめてくれていたあの優しい女性はどこにもいない。変わりに、女にしてはやけに張りのある、澄んだ声が脳裏に響いていた。
ああ、この声は知っている。知っている子の声だ。忘れはしない、あのきらきらと光る波打つような金の髪を。真っ直ぐな瞳を。初めて友達になってくれた、正義の名を持つ娘のことを―――
「ジャスティン……」
ドラクロワは、おぼろげな意識のままで目の前の女性の名を呼んだ。彼女はドラクロワの手を握りしめ、今にも泣きだしそうな目をしていた。
「やっと、名を呼んでくれたな……」
そんなことを気にかける彼女は、やはり昔と少しも変わっていないのだと思えて嬉しかった。ドラクロワが起き上がろうとすると、彼女は彼の肩を押さえ込み、過剰なほどに制止した。
「駄目だ。まだ横になっていろ」
ドラクロワは、はじめて自分がベッドに寝かされていることに気付いた。
「お前一人で、私をここに運んだのか?」
「え? いや、ジュニアも手伝ってくれたよ。今は必要なものを買出しに行ってくれている。良い弟子だな、あれは」
ジャスティンは笑顔でそう言ったあと、ふいに神妙な顔つきに変わった。
「そういえば、この前もお前は胸元を押さえて苦しがっていたな。うかつだった。先にそのことを聞けばよかった。医者を呼ぶか散々迷ったのだが、お前はお尋ね者の身だから、それも容易には出来ない。黙って見ていることしか出来なかった」
「それでいい。医者ごときに診せたところでどうにもならん。治るものならとっくに自分で治している」
「やはり、何かあるのだな」
ジャスティンが心配そうな面持ちになる。
「私に話す気はないか?」
「お前に?」
ドラクロワが目を丸くし、そして呆れるように笑った。
「お前に話して何になる」
「たしかに、私では何の役にも立たないかもしれない。しかし、心労は少しは和らぐかもしれない」
「断る。―――そうだな。良い機会だから、お前に一つ忠告しておいてやろう。人に親切にするのは結構だが、誰にでもそれが通用すると思うな。私は、そんなものを振りかざして近づいてくる人間が一番嫌いだ」
「別に親切で言ったわけじゃない。私がお前に関わりたいと思ったからそう言ったまでだ。どうしてそう皮肉にしか捉えられないんだ。本当に、お前は変わったな」
ジャスティンはため息を吐く。そして、ふと何かを思いついたように顔を上げると、挑むような目線をドラクロワに向けた。
「お前がそんな態度に出るのなら、私にも考えがあるぞ」
本調子でない者に悪いが……と付け加えて、ジャスティンは突如、臥せっているドラクロワの上に馬乗りになって覆いかぶさってきた。突然のことに、今度はドラクロワが驚かされる番だった。ジャスティンが正義の味方らしからぬ笑みを浮かべる。
「お前が吐くほど私を嫌っていることは重々承知している。私に触れられて気持ち悪いだろう、おぞましいだろう。さあ、嫌なら吐け。洗いざらい、吐け」
「ま、待て。それはどちらの意味の『吐け』だ?」
「うるさい。私は回りくどいのは苦手だ。お前は話してくれない、でも知りたい。ならば、実力に物を言わせるしかないだろう」
驚くほどにジャスティンの目は据わっていた。
「私は本気だ。次はキスだけでは済まさない」
「ど、どうすればそういう考えに至るのだ。無茶苦茶だ」
「なんとでも。お前が私の気持ちに気付かせてくれたのだ。お前のことにはとことん首を突っ込んでやる。そう決めた」
「そんな勝手な……!」
ドラクロワの抗議が聞き入れられることは一切なかった。いよいよ吐息を感じるほどにジャスティンの顔が間近に迫ってきたとき、それは突然訪れた。
「誰だ、わが弟を苦しめる輩は」
声がして、二人は顔を上げる。いつからそこにいたのか、ローブの男が部屋の片隅にたたずんでいた。
「探したよ、クロ」
「あ、兄上……」
ドラクロワの顔色が、みるみるうちにまた青ざめていく。ジャスティンはそれを見逃さなかった。
「兄、だと? ドラクロワ、お前、兄弟がいたのか?」
「正確には兄弟子だがね」
答えたのはローブの男だった。
「それより、クロ。お前がわざと魔力を絶ったおかげで、ここにたどり着くのに随分と手間どってしまったんだよ。だが、お前の『呪い』が発動したおかげで、すぐに居場所を特定することが出来た。たまにはそれも役に立つことがあるのだな」
「呪い?」
ジャスティンがその言葉に反応する。
「おや、あの栗毛の少年はいないのか。見つけたらここで八つ裂きにしてやろうと思っていたのに」
「ドラクロワの兄弟子とやら。呪いとは何なのですか?」
ジャスティンは、会って間もない人物に対してぶしつけとは思いながら、それを聞き出さずにはいられなかった。彼女に見向きもしなかったローブの男が、表情を変えずにこちらを向いた。
「何だ、お前は?」
何も感情の宿っていないような、奇異な色の瞳で見つめられ、ジャスティンは今までに感じたことのないような恐怖を植えつけられた。男は黙ったままこちらに近づき、目の前で歩を止めた。
「女。お前が何かしら行動することによって、つい先ほど呪いは発動した。お前がクロを苦しめたのだ。卑しい女め。お前のような醜女には、制裁を下さなければ」
ローブの男がジャスティンの眼前に手をかざした。