大魔導師の弟子③
ひとしきり走り抜けたあと、ようやく樹海を脱したドラクロワと少年の二人は、とある開けた市街地にたどり着いていた。そこは多くの行商人たちが行き交う交易街だった。人と物にあふれ、町並みは騒然としていたが、その分、街人に紛れて身を隠すには絶好の場所だった。
そんな折、ドラクロワは突然背後から肩を掴まれる。振り返ると、相手は軍服を着た兵士だった。
「貴様、その格好……」
そう言われて引き止められるが、ドラクロワは目の前の兵士を無言でにらみ返し、その手を不機嫌な顔で払いのけた。人間嫌いな彼らしい振る舞いだったが、それがますます相手の勘にさわったようだ。
「おい、その態度はなんだ」
兵士がもう一度ドラクロワの腕に掴みかかったとき、「やめろ」と、澄んだ声がした。声の主はぐんぐん距離を縮めてきて、やがてドラクロワたちの目の前で勇んだ歩を止めた。
「その者が何か粗相を? 私の知り合いなのだが」
「ジャスティン殿。これは失礼。出で立ちが例の魔導師と酷似していたもので。私の勘違いでしたか」
兵士はそう言うと、ジャスティンとドラクロワに非礼を詫び、あっさりと去っていった。その後姿を見送ったのち、ジャスティンは突然にもドラクロワの胸倉に掴みかかった。
「久しぶりだな」
押し殺すような低い声で彼女は言った。
「……何の真似だ」
「ふふん。苦しいか?」
「そうではない。何故、助けた」
ジャスティンはそう言われてふいに笑った。
「そうだな。まあ、ゆっくり話でもしようじゃないか。私からもひとつ、言っておきたいことがあるしな」
彼女はドラクロワの胸倉をさらに強く引っ張ると、これ以上ないくらい彼に接近して、こう告げた。
「お前は国中のお尋ね者だという自覚はあるか? 王女殿下誘拐の犯行当時と同じ服装でこんな街中に現れおって。三歩歩くたびに貼られているお前の似顔絵でも見ないとわからないか」
実際、声が周囲に聞こえないようにと配慮して、間近で話すジャスティンだったが、若い男女が身体をくっ付けあって話し込む様は、ドラクロワの黒尽くめの服装と同じくらいに悪目立ちしていた。
*
こじんまりとした建物。一階のフロアは酒場になっており、やたらと下が騒がしい。この建物の二階の一室に、何故かジャスティンと少年と自分と。こうして顔を突き合わせて一つのテーブルを囲んでいることが、ドラクロワにはどうにも珍妙に思えた。
「まあ、楽にしてくれたまえ」
ジャスティンは己の言葉どおりに、自らも銀の甲冑や腰に提げた大剣などの武装を解き、こちらが虚をつかれるほど無防備な姿を晒していた。今の彼女は、普段の雄雄しさが嘘のように、どこにでもいる若い街娘のようにしか見えなかった。実際彼女にはそういう面もあるのだろうが、普段の印象が強ければ強いほど、それを拭い去るのは困難なことだった。
そんな複雑なドラクロワの心境を知ってか知らずか、ジャスティンはさしていつもと変わらぬ態度で彼に接した。
「わざわざここまで足を運んでもらって悪かったな。できるだけ、人目のつかないところでお前と話がしたかった」
「偶然だな。こちらもお前に聞きたいことがある」
「わかった。では、まずそちらからどうぞ」
ジャスティンは簡単に会話の主導権をドラクロワに譲り、彼も素直にそれに応じた。
「何故、偶然にもお前はこの街に居合わせた。王女護衛騎士とは、王都から離れたこんな田舎街の警備までやらされるものなのか」
彼の質問の内容に、ジャスティンはふっと笑った。
「開口一番がその話題か。ああ。どんな辺境の地にだって赴くよ。何せ、もう私は王女護衛騎士ではなくなったのだから」
「何だって?」
「だから、言ったとおりだ。私は、王女護衛騎士の任を解かれたのだよ。王宮勤めだったエリート騎士が、今ではしがない一介の警備兵というわけだ」
淡々と語るジャスティンとは裏腹に、ドラクロワはいくらか神妙な顔つきになる。それに気付いたジャスティンが、その沈んだ空気を一笑した。
「意外だな。全ての元凶である大魔導師殿がそんな反応をするとは。主人を守れなかった無能な騎士がその任を解かれるのは当然のこと。本来なら首をとられてもおかしくないほどの失態だったのだから、これだけの処分で済んだのはむしろ奇跡に近い」
ジャスティンは感慨深げに語る。そこでドラクロワが尋ねた。
「お前はそれで良いのか」
「良いも何も、殿下はもう宮殿にはおられないのだ。もはや騎士がいても仕方がないだろう」
ジャスティンの言ったことはもっともだったが、彼女にしては幾分潔すぎるのではないか、とドラクロワは思った。
「お前、本当は自分から辞任を申し立てたのだろう?」
その問いにはジャスティンは答えなかった。変わりにどこか含みのある笑みを漏らす。
「少しは自責の念に駆られたか? 自分の行ったことが、少なくとも他人の人生に大きく影響してしまったかもしれない、とかな」
これにはドラクロワもまさか、とかぶりを振った。
「自惚れるな。お前のような赤の他人がどうなろうと、私は痛くも痒くもない」
「そうか。それもそうだな」
意外なほどあっさり返され、かえってドラクロワのほうが幾分か戸惑うことになった。
「……とにかく、お前が王女の騎士でなくなったことはわかった。だがしかし、それとお前がこの街に都合よく居合わせていることは、何ら関係のないことだろう。なおかつ私をかくまうような真似をして。一体、何をたくらんでいる?」
「まあ、そう焦るな。それに、次は私が質問させてもらってもいいだろう?」
ドラクロワを軽くあしらいつつ、ジャスティンはふいに視線を彼の隣の人物に移した。
「この少年は何だ?」
話の矛先が自分に向いたことに気付き、少年はストローをグラスに戻し、襟を正して言った。
「俺は、このドラクロワ様の弟子だよ」
「自称、だろう。私は認めた覚えはない」
ドラクロワは否定したが、ジャスティンは少年のほうに身を乗り出し、彼をまじまじと見つめた。
「ほう。お前、弟子なのか。そうか。あのペゾも、ついに弟子を持つような一人前の魔導師になったのか」
ジャスティンは、まるで自分のことのように喜び、少年の頭をくしゃくしゃと撫でた。少年も特に嫌がる様子はなく、自分のことを認めてくれたジャスティンに対して、どこか満足そうに笑顔を向けた。面白くないのはドラクロワばかりだったが、この場は何を言っても無駄のような気がした。
ジャスティンが少年に尋ねる。
「少年、名はなんという?」
「名はないそうだ」
間髪入れずにドラクロワが言った。ジャスティンが目を瞬かせる。
「……そんなわけないだろう」
「本人がそう言ったのだ。仮にも『師匠』と仰ぐ、この私に」
ドラクロワはわざとそんな言い方をしてみせた。ジャスティンはそれには取り合わず、直接少年に尋ねることにした。
「おい、少年。普段はなんと呼ばれている?」
「セプト」
栗色の髪の少年は意外にもあっさりと答えた。
「それが名前ではないのか」
思わず叫んだのはドラクロワだった。
「まったく。どこまでも人を小馬鹿にして」
「これは名前じゃない。俺は九月だったからそう呼ばれてただけ」
「九月?」
「うん。俺のいた組織ではね、子供の組員が十二人いて、それぞれが月名で呼ばれる習慣があった。本当の名前がある奴もいたけど、俺は無い方だったの」
ドラクロワは無表情で少年を見やる。
「……それもお前の作り話か?」
「いいよ、信じなくても。ただ、俺にはたぶん戸籍もないし、だから決まった名前もないのは本当だよ」
「なら、私が決めてやろう」
ジャスティンがはりきってそう言った。
「ドラクロワの弟子なのだから、『ドラクロワジュニア』だ。これでいいだろう」
「待て。私は本当に弟子と認めたわけでは……。それに、何だ、その安直なネーミングは」
「俺はそれで構わないよ」
少年はあっさりとその提案を受け入れた。
「うむ、なかなか素直な子だな。師匠と違って」
「だから、弟子ではないと何度言えばわかるんだ。それに、『ドラクロワ』は姓だ。名前にするのはおかしなことに……」
ドラクロワがいくら言っても、ジャスティンと少年の二人はその言葉に耳を貸す気配すらなかった。それから二人は、何やら親密に話し込み始める。
「お姉さんは、師匠とどういう関係なの?」
「元同級生だ」
「同級生?」
少年が興味深げな視線をよこすと、ドラクロワはいっそう不機嫌な表情をした。
「違う。それは、この女が勝手に勘違いしているだけだ」
「ペゾ。もういいだろう。今さら誤魔化しはきかんぞ。それに、これが私の勘違いならば、何故カインやウィーズまでがお前のことを覚えていたのだ」
「……だったら、あいつらも勘違いしているのだろう。何せ、お前たちの話す『ペゾ』とやらは、泣き虫で影が薄い、みなの記憶からはなかなか思い出しにくい人物らしいからな」
「私は、そうは思わないよ」
ジャスティンが、ふいに真剣な眼差しでドラクロワを見つめた。
「私は、お前のことをちゃんと覚えていたよ、ペゾ」
ドラクロワはその言葉に面食らって、何も言い返すことができなかった。
「あ、そういうこと?」
何を察知したのか、少年が気を利かせてこそこそと部屋を出て行く。ジャスティンはそれすらも気付かなかった。それほどに、彼女は今ドラクロワしか見えていなかった。
「先ほどの、お前の質問に答えてやろうか」
ジャスティンが小さく呟いた。
「お前は、私がこの街に都合よく居合わせたのはおかしいと言ったな。そのとおりだよ。だって、私はこの街でお前を待ち伏せていたのだから」
「何?」
ドラクロワは眉をひそめる。ジャスティンは続けた。
「お前が、王女殿下誘拐の事件とは別に、以前から非公式に政府に追われていることを、あるつてで知った。だから、お前が逃走経路に使うかもしれない、お前のすみかに一番近いこの街で張ることにしたのだ」
「私を捕まえるためにか」
「そうだ。でもこれは、王女殿下への罪滅ぼしや、政府にお前を突き出すためなどではない」
ジャスティンは、まるで本当にドラクロワを捕まえるように、彼の腕を掴んでいた。
「私は、お前が他の奴に捕まるのが嫌なだけなんだ」
「……何?」
「おかしいと思うかもしれないが、他の奴にお前を渡すくらいなら、私がお前を手に入れる。何故かそう強く思った」
よくわからないジャスティンの告白に、ドラクロワは呆けるしかなかった。つまり、それは。
「お前、私に惚れているのか?」
「惚れている?」
ジャスティンは素直に驚いているようだった。しかし、取り乱すことはなく、むしろ彼女は冷静そのものだった。
「そうなの、かな。やはり、そうなのだろうか」
まるで、知らず知らずに受け入れていたかのように、考えられる可能性を呟いた。しかし、それを全否定したのは、こともあろうにドラクロワ自身だった。
「……愚かな」
「何だと?」
ドラクロワはこの上なく不機嫌な表情で彼女に述べた。
「愚かだから愚かだと言ったまでだ。私は極論、ありえない話をしたというのに、それが本当かどうかで心揺るがすなど、まったくもって愚鈍な有様だ」
「ありえないって何で決めつける。そんなもの、私の心が読めなければわからないだろう」
「心など読まなくともわかるさ。そう、手に取るように」
ドラクロワはそう言うと、ジャスティンに掴まれていた腕をふりほどき、逆に彼女の腕を掴み返した。落ち着き払っていたジャスティンもこれには驚き、ドラクロワを凝視した。
「私は以前、お前に裸になれ、と命じたことがあるな。しかし、あれは見せしめのために言っただけで、実のところ、衣服を剥ぎ取るような面倒なことをせずとも、お前を裸にすることくらい、わけないのだよ」
「え?」
「私には、お前の心も身体も透くように見ることが出来る。だからわかる。お前、まだ男を知らんのだろう」
予想だにしていなかったことを言われ、ジャスティンは思わず頬を染めた。そんなことを言われるとは思っていなかった。ドラクロワが目を細めて笑う。
「やはりな。そんな少女のような青さで、私を相手に恋愛ごっことは。片腹痛い」
ひとしきり笑ったあと、ドラクロワはジャスティンの耳元に優しく語りかけた。
「いっそ、お前を女にしてやろうか」
ドラクロワの腕を掴む力が強まり、ジャスティンは瞬時に身を硬くしていた。
「どうした? 私が好きなのだろう?」
面白がるような視線を受け、ジャスティンは自分でも驚くほど恥じらいの念を浮かべた。挑発的な言葉とは裏腹に、ドラクロワの手つきは優しく、抱き寄せるようにジャスティンの腰に手を回してきた。まさか、こんな状況になるとは思っていなかったので、ふと思い出したようにドラクロワの弟子を探して周囲を見回すも、その姿はどこにも見当たらなかった。それをどこかほっとしている自分にまた恥ずかしくなる。
「自分から求めてみろ。私を手に入れたいと言ったその口で、私を自分のものにするがいい」
ドラクロワはあくまでジャスティンを促すだけで、自分からは一切何もしなかった。ジャスティンも、顔を紅潮させてうつむくだけで、時は刻々と過ぎていく。先にしびれをきらしたのはドラクロワのほうだった。彼はジャスティンに聞かせるように大きくため息を吐いた。
「……出来ないのだろう? まったく、生娘とは面倒なものだな。夢や理想ばかりを男に押しつけて、恋や愛がそんなに良いものだと、どこから仕入れてくるのやら」
「……決め付けるな」
ふいにか細い声で反論した相手に、ドラクロワは目を丸くした。先ほどまでうつむいて黙ったままだったジャスティンが、耳まで真っ赤にしながらまくしたてた。
「で、出来ないなんて、勝手に決め付けるな。いいだろう。この際、とことん愚かになってやる。お前の挑発に乗ってやるぞ」
冗談を言う人間の目ではなかった。ジャスティンはその身を乗り出し、ドラクロワとの距離をぐっと詰めていた。
形勢が一気に逆転したことに気付くには、あまりに遅かった。ドラクロワは、押し当てられた唇に言葉を封じられる。開き直ったジャスティンにためらいはなく、無遠慮に押し付けた唇が深く吸い付くようにドラクロワを求めた。時折唇を離すのは呼吸のためだけ。ドラクロワはそこに、ジャスティンの見知らぬ部分を垣間見ていた。
やがて、ジャスティンがドラクロワの唇を解放する。熱に浮かされた彼女と目が合う。ドラクロワはもう我慢の限界だった。
突然彼女を突き飛ばし、その反動で自身も床に倒れ込みながら、這い上がって部屋の片隅に駆け寄り、盆に盛大に吐いた。
ジャスティンは、状況が飲み込めずに呆然とした。先ほどまで唇を重ね合わせていた男の嘔吐する姿を目にして、気の利いた言葉をかける余裕があるほど彼女は大人ではなかった。おかげで燃え上がった熱は一気に冷めていった。
「失礼な奴だな。自分から誘っておいて、その態度は一体なんなのだ。女に恥をかかせるどころの騒ぎではないぞ」
怒りを通り越してむしろ呆れる、とまでジャスティンは思った。
「なんだか、もう何もかもどうでもよくなったよ。おい、大丈夫か、ドラクロワ」
そう言いかけて、ドラクロワの肩を掴んだジャスティンの表情が一変する。ドラクロワの顔は赤みを失い、冷や汗をかいて小刻みに震えていた。痛むのか、胸元を強く押さえている。
「ドラクロワ、大丈夫か?」
すぐに異常を察知して、ジャスティンが彼の肩を支える。ドラクロワはただ苦痛にうめくだけで、ジャスティンの声が聞こえている様子もない。あるいは、ジャスティンがこの場にいることすら関せぬように痛みにのた打ち回った。その苦しみ方は尋常ではなかった。
ドラクロワが意識を手放すまでに、そう時間はかからなかった。