魂の居場所②
ウィーズは雨の中を走り続け、小鳥になってしまったはずの友人を探していた。
宮殿内部は、ウィーズが今いる内廷の中庭の一区画だけでも途方もなく広い。ましてや、今の彼は猫。小さな身体でこの広大な敷地を右往左往するのは、思った以上に骨が折れる作業だった。それでも、諦めずに根気よく駆けまわっていたところ、ようやく、濡れた草地にぐったりと横たわる一羽の小鳥を発見した。
ウィーズが近付くと、小鳥はその気配に気付き、逃げようと精一杯羽ばたこうとする。それを見て慌てたウィーズは、咄嗟に小鳥の濡れた羽を前足で押さえつけ、ひとまず強引にその自由を奪った。当然のごとく、小鳥は恐怖に駆られて大いに両の羽をばたつかせた。
「待て待て、俺はウィーズだ。安心しろ、カイン。お前を食うつもりはない」
猫の言葉で、果たして鳥と意思疎通を図れるのかどうか定かではないが、とりあえず、敵意がないことだけは示してやる。しかし、それでもまだ相手が強情にもぴーぴーと鳴くので、短気なウィーズは、残念なほどすぐに粘るのをやめて、怒鳴り声をあげた。
「うるせぇ、騒ぐな! 食っちまうぞ!」
「ぴ」
小鳥は、あまりの猫の凄みに硬直して、鳴くことすら出来なくなり、ようやく静かになった。
ウィーズは、そんな相手の反応に弱り切ってしまった。
「お前を見つけるのにどれだけ苦労したと思ってんだよ。この悪天候の中、雨ざらしになって、必死に駆けずりまわってたんだぞ。風邪でもひいたらどうしてくれるんだ。……まあ、その様子だと、お前もひきそうだけどな」
思わずため息を吐きたくなる。しかし、悲しいことに、猫はため息を吐くようには出来ていなかった。
「なあ、お前カインだろ。カインだよな? いい加減、気がついてくれよ。俺が正気に戻ったんだから、お前だってきっと戻れるはずだ。……それとも、やっぱり、お前は変性してなかったから、ジュニアの術を直で受けたのか? だから、俺よりも解けるのが難しくて、自我が戻りにくくなってる……とか?」
もしも、このままカインの自我が戻らず、ずっと小鳥のままだったとしたら。
ウィーズは、自分の下で大人しくなった小鳥を見やる。途端にひどく不安になった。
「おい、こらカイン。目を覚ませよ。でないと、今度こそ本気で食っちまうぞ」
ウィーズがいくら切実に訴えかけても、小鳥は鳥類独特の縮瞳した目のまま、瞬きもしない。その目の中にウィーズが映し出されることはなかった。そればかりか、どうやら話しかけられているとも気付いていない様子で、しきりに首をせわしなく動かし、逃亡のチャンスをうかがっている。その仕草は、人間ではなく獣そのものだった。
ウィーズは、自分が泣きそうになっているのも気付かないまま、必死に小鳥に訴えかけた。
「カイン、頼むよ。元のお前に戻ってくれ。もう一度、俺のことウィーズって呼んでくれよ。なあ、カイン……!」
「ウィーズ!」
そう声がしたのは背後からだった。
ウィーズは反射的に振り向く。……と、そこには、雨でびしょ濡れになった青年が、息を切らして立っていた。
彼を見て、ウィーズはぽかんと口を開けた。
青年はしゃがみ込むと、猫のウィーズに目線を合わせた。
「ウィーズ。ウィーズだよね? ああ、良かった。やっと見つけられた」
そう言って笑ったのは、紛れもなくカイン本人だった。ウィーズは本気で開いた口が塞がらなかった。
そんなウィーズに対して、カインは全く見当違いのことを話し始めた。
「まったく、今までどこほっつき歩いてたんだよ。君を見つけるの、ものすごく大変だったんだからな。……って、ウィーズ、時に君、何を踏んづけてるの?」
カインはふと、ウィーズの前足の下敷きになっている小鳥に視線をやった。途端に、ひどく怪訝な顔をする。
「おいおい、鳥なんか捕まえて、一体何を……。ま、まさか、食べる気だったの? 猫だけに」
カインの問いに、ウィーズは力の限りに首を横に振る。すると、ウィーズの動揺を悟った小鳥が、隙をついて暴れ出し、さっとウィーズの元から飛び立っていった。
カインは小鳥の後ろ姿を見送りながら言った。
「……冗談だよ。大方、まだ鳥のままだと思って僕のことを探してくれていたんだろ? その様子じゃ、とりあえず自我は取り戻せたみたいだね。安心したよ」
そう言うと、カインはウィーズを抱き上げ、その冷えた身体を自身の腕の中におさめた。
「僕がどうして人間に戻ることができたのか、見当もつかないって顔してるね。実はね、さっき、外廷の方で意外な人に会って。僕はその人に、元の姿に戻してもらったんだよ」
後でウィーズも戻してもらうといい。カインはそう付け加えた。
「さあ、僕らも急ごうか。もう一度、ジャスティン達の元へ」
カインがそう言いかけた時。
突如、すぐそばの小高い木に落雷が起こり、その轟音と閃光の衝撃で、二人はその場から勢いよく吹き飛ばされる。
カインは地面に背中から転がりこんだが、抱えたウィーズだけはなんとか放り出さずにすんだ。すぐに身を起こして体勢を整える。落雷の直撃を受けた木は、電流が走った部位にそって身を深くえぐられており、そのありありと残った痕跡を見て初めて身震いするような、考える間もない一瞬の出来事だった。もう少し近くにいたら、カインやウィーズも直撃もしくは感電を食らっていたかもしれない。
落雷はこの一回だけにはとどまらず、遠くの空で稲光や雷鳴がとどろき、好き放題に猛威を振るわせていた。
それもそのはず、見上げると、空はどんどん肥大していく暗雲に覆われる一方で、カイン達の立っている場所は、今や完全に真夜中のような闇に埋没していた。
「空が、まるでのしかかってくるようだ……」
カインは、嫌な胸騒ぎを必死に抑えようとした。
ウィーズも一緒に空を見上げ、まるでこの世の終わりのようだと思った。何かが起ころうとしていることは、二人とも肌でたしかに感じることができた。
カインとウィーズは顔を見合わせると、すぐに目的の場所へと急いだ。
*
「思ったより早かったな……」
ジュニアが独り言のように呟いたのを、ジャスティンは聞き逃さなかった。
「何が早いんだ?」
「いや、こっちの話だよ」
「お前、一体何をした?」
「別に何も」
「嘘を吐け。この不穏な空気、普通じゃない。一体、何が起ころうとしているんだ」
その問いに、ジュニアは含み笑いをして言った。
「雷の語源は、『神鳴り』―――つまり、神様が鳴らしているもの……なんだってね」
ジュニアの話にジャスティンは首を傾げた。ジュニアはそのまま続ける。
「俺がこの現象を直接引き起こしているわけじゃない。でも、神様を怒らせてしまったっていう意味でなら、この異常気象の原因は、俺にある」
「神様……?」
「そう。『神様』だよ。人は死ぬと神になるんだろう。本当かどうか知らないけど。だから神様」
暗がりの中で、指に一つの小さな光を灯しただけで語るジュニアの表情は、なんとも妖しげに照らしだされていた。
「どういう意味だ」
「わからない?」
相手の姿さえも見失ってしまうような、ほとんどが暗闇に閉ざされた広間の中で、こだまする声だけが、その感情の揺らぎを表すただ一つの指標だった。
「ついさっき、ジャスティンさんも見たよね。俺が魂引きの術を使うところを。俺は、あれを数えきれないくらいの人達に施してきた。この状況に持ち込むまでに三年かかったけど、ようやく俺は、俺の思い描く通りのことを、叶えることが出来たんだ。このドラクロワの力をもってして」
「それが何だというのだ」
暗がりの中で、ジャスティンははっきり言った。
「多くの人々を死に追いやって、国を屍の山にして、それで一体何を叶えることが出来たというのだ? お前は、現実をも虚無の世界に作り変えてしまうつもりか」
「現実を虚無の世界に、か。なかなか面白い発想だね。そうだな、ドラクロワになら、それも不可能ではないのかもね。俺はね、単に終わらせたいだけなんだ」
ジュニアはしばらく間をおいてから、ゆっくりと話し始めた。
「出会った時、師匠は俺に言った。『弟子をとるつもりはない。自分の代でドラクロワを絶やす』って。でも、所詮あの方には無理だった。どんな形の未来にも、あの方がそれを成しえる道は用意されてはいなかった。だから、代わりに俺がやる。あの方の願いを叶える。ドラクロワを終わらせるという願いを」
「ドラクロワを、終わらせる……」
「ほら、来たよ」
ジュニアは広間の端にある、大きな窓を指差した。この広間の窓は、人の背の数倍の高さを誇り、贅沢な硝子を惜しげもなくふんだんに使用している。平時であれば、この窓から見下ろすことの出来る王宮内部の庭園の景色は、素晴らしく美しいものなのだという。
しかし、今この場から見える光景は、美しいどころか、それこそ身の毛のよだつような、恐ろしい惨場へと化していた。もしかすると、本当にこの世は虚無の世界になり変ってしまったのかもしれない。どこまでも深い迫りくるような暗闇と、荒れ狂う雨風、轟く雷鳴、そして、まるで全身にのしかかってくるような、重苦しい空気。
おぞましいと感じるのは、何も五感からの感覚だけではなく、どうやら、もっと奥深くの部分で、本能的にその恐ろしさを察知している。
ジャスティンは、怯んだ身を奮い立たせながら、なんとかその場に立っている状態だった。
(何かが……何かがこちらに向かってくる)
逃げ出したくなる衝動を必死に抑えていた。何が迫ってくるというのだろう。全く予想も見当もつかないというのに、何故か心の奥底では、何が来ているのかをちゃんとわかっていて、早く逃げないといけない、ということもいち早く理解していた。ようするに、何もわからない自分ですら、危険ということだけはわかるくらいに、とてつもなく恐ろしいものが迫ってきているということだった。
たまらずジャスティンは、ジュニアを問いただした。
「ジュニア、何が来ている。お前は一体、何をする気でいるんだ」
「あはは。ジャスティンさん、顔が引きつってるよ。怖いの? ジャスティンさんでも、怖いものってあるんだね。それはそうか。でも、大丈夫だよ。恐れても何も恥じ入ることはない。だって、生きとし生けるものたち全て、あの存在に畏怖をなさないわけがないんだから」
ジュニアは、鉛のような暗黒の空を見上げた。
「あれはね、この世とあの世との狭間に閉じ込められている間に、どんどん膨れ上がって、身動きできなくなってしまった、死よりももっと深い暗闇を司る者達だ。行き場がないからこの世に迷い込んでくるしかなかったんだね。そして、あれはこの世に、嘆き、悲しみ、苦しみ、恐怖、怒り……ありったけの負の感情しか残しては来れなかった。何故なら、ほとんど全てが、理不尽にして唐突にその生を奪われてしまったから。この俺にね。そして、その淀んだ怨恨の意は、最大限の悪意となって、この国を覆い尽くすだろう」
「な、何……?」
ジャスティンの顔色が見る見るうちに青ざめていった。
「では……何だ? あの恐ろしいものは……見ただけでも口から内臓を吐き出したくなるような、あのおぞましい存在は、お前が今までに狩ってきた、この国の人々の魂……だとでもいうのか?」
「もはや、魂と呼べる代物かどうかははかりかねるけどね。元を正せば、間違いなくそうだよ」
「そんな……そんな……!」
ジャスティンはついに、その場にゆるゆるとくずおれた。
ジュニアは、そんな彼女に構うことなく、その黒の塊が荒れ狂う様に酔いしれるようにして、自分の元へと誘導していた。
「そうだ、こっちへ来い。復讐に駆られて我を忘れた、哀れな猛神ども」
「ジュニア、お前まさか、初めからこうするのが目的で……?」
「そうだよ。言ったろう。終わらせるんだよ、何もかも」
「どうして……っ」
「ドラクロワの負の連鎖を終わらせるためには、こうするしかない」
そう言ったジュニアの視線は、もはや黒の狂気に釘付けだった。
「ドラクロワを何代殺したって、呪いは次から次へとドラクロワの中で生き続ける。このサイクルは永遠に続くんだよ。だから、その悪循環の根元を絶つ。人ならざる者に魂ごと食われれば、いくらなんでもこの呪いだって消滅するはずだ」
淡々と語るジュニアに、ジャスティンは目を見開いた。彼が初めて本当の目的を語った瞬間だった。
そんな折、突然広間の扉が開け放たれて、一人の青年が駆けこんでくる。その人物を見てジャスティンは仰天した。