舞踏会の長い夜①
「師匠がおかしくなった」
はじまりは、ジュニアのその一言だった。突然の知らせに、ジャスティン、カイン、ウィーズは何事かと、互いに顔を見合わせた。
ジュニアに連れられて、三人はドラクロワの小屋へとやってきた。ここに足を踏み入れるのも、もう何度目かといったところだが、招待されて出向いたのは、三人とも今回が初めてだった。
ジュニアは、ソファでうたた寝をする師に近づき、揺り動かして覚醒を促した。
「師匠。ほら、ジャスティンさんたちを連れてきたよ」
「んん……」
まだ昼間だというのに、こうして家で優雅にまどろんでいられるとは、なんて良い身分なんだ。……と、働き盛りの若者三人は、寸分たがわず同じ意見を持った。が、誰もあえてその場で口にすることはない。そもそも、このドラクロワと「働く」という言葉が、どう頑張っても彼らの頭の中で結びつかないのだ。いつも小屋にひきこもってはだらだらと過ごしている。そんな印象がどうにも拭えない。
「あーあ。国一番の大魔導師様ともなると、与えられる待遇もこれまた格別だなぁ」
ウィーズが思い切り皮肉をこめた言葉をよこす。そこで、ようやくドラクロワは目を覚ましかけていた。眠たそうに瞼をこする。が、すぐに、四人の人間に周りを取り囲まれていたということに気づくと、異様なほどに驚いてソファから飛びのいていた。
「な、何……」
「いよう。ようやくお目覚めだな、ベソ。実にかわいい寝顔だったぞ」
ウィーズが意地悪くそう言った。ウィーズは、このような調子でドラクロワを挑発しては、いつも彼の不興を買っていた。だが、それは、ウィーズなりのドラクロワとのコミュニケーションのうちの一つでもある。そうして、いつもと同じように、ドラクロワの心底不機嫌な表情が拝める。……はずであった。
今回その定石は、奇しくもあっさりとくつがえされてしまった。
「も、申し訳ありません! まだ昼間だというのに、うっかり眠ってしまいました!」
ドラクロワがものすごい勢いで、頭を下げて謝罪してきた。
なるほどたしかにこれはおかしい、と連れてこられた三人は思った。
*
ポットが宙に浮き、ティーカップにお茶が注がれていく様を、ジャスティンはまじまじと眺めていた。緊張した面持ちで食卓につくジャスティンたち三人に、ドラクロワは笑顔を向けた。
「お客様が来られているとは知らずに、大変申し訳ありませんでした。何のおもてなしも出来ませんが、どうぞ、ゆっくりしていってくださいね」
まるで花が咲くような笑みだった。こんな風に笑うドラクロワを見るのは、実に何年ぶりのことだろうか、と三人は思う。
「俺、この家に来て、初めて茶なんてものを出されたよ」
「僕も」
カインとウィーズは、驚きのあまり、ティーカップを持つ手がカタカタと震えていた。それを見て、ジュニアがため息をこぼす。
「……だから言ったろ。おかしくなったって」
「いや、おかしくなったというか……」
言いかけて、ウィーズはドラクロワを横目で見やる。すると、ドラクロワもそれに気づき、焼き菓子を皿に用意する手を止めた。
「あの、何か……?」
「や、別に」
「あ……あの、もしかして、お茶、お口に合いませんでしたか?」
「え? あ、いや、そんなことないけど。っていうか、まだ飲んですらいないんだけど」
ウィーズのその返答を待たずして、ドラクロワの顔色はみるみるうちに青ざめていった。
「あ、ああ……申し訳ありません。やはり、あなた方のような高貴なお方ともなれば、僕のように卑しい身分の者のいれたお茶なんて、口をつける気にもなれませんよね」
「え、いや、あの」
「せ、せめて、もう一度いれなおしてまいります。本当に申し訳ありませんでした」
ドラクロワはそう言うと、三人に配したティーカップを宙に浮かせて自分の持つトレイに回収し、それから逃げるようにして部屋を出て行ってしまった。取り残された三人は唖然とするしかない。ウィーズは、いまだ焦点の定まらない眼で呆けるばかりだった。
「……おかしくなった、ってレベルじゃねーぞ。もういっそ別人じゃないか」
それにはカインも同意する。
「ほ、本当にね。それに、まるで僕たちのこと、知らないとでもいうような接し方だし……」
「ベソが俺たちをからかってるってこともありえるが……。でも、もしベソのあの笑顔が仮に演技だったとしたら、俺はしばらく人間不信に陥りそうだ」
ウィーズが無駄に自信ありげにそう言った。つまり、それくらいドラクロワの表情や行動は、ごく自然なものに見えたということだった。普通に考えれば、人ひとりの記憶や人格が、ほんの数日間で劇的に変化するなどありえないことだが、だからといって、ドラクロワが自分たちを偽っている、というのもまた考えにくかった。
そこでふと、ずっと黙っていたジャスティンが呟く。
「……まるで、昔のペゾに戻ったみたいだ」
彼女のその一言に、カインとウィーズははっとなって顔を上げた。
そして、同じくジュニアも頷いていた。
「たぶん、ジャスティンさんの言ったとおりだと思うよ。俺もよくわからないんだけど」
「そもそも、何があったのだ?」
ジャスティンが尋ねた。ジュニアは深いため息を吐いて、首を横に振るばかりだった。
「それが、わかんないんだよね。今朝起きたら、もうあんな感じになってた。俺より早く起きてて、朝飯の支度してたから本気で驚いた。そんで、話しかけたら俺のことも覚えてないみたいだったし、逆に俺がこの家にいたってことに向こうの方がびっくりしててさ。俺も、はじめは何の悪ふざけだよって反論したんだけど、どうも様子がおかしいんで、とりあえずいろいろ探ってみたんだ。そしたら、テーブルの上にこんなものを見つけて」
そう言って、ジュニアがこちらに差し出してきたのは、手のひら一握り分の数本の草だった。
「この草が怪しいんじゃないかと思ってさ。昨夜、師匠が熱心に調べてたんだ」
「それ、忘れ草じゃないか」
ウィーズがジュニアの手からその草を一本取り上げ、じっと見つめた。
「忘れ草? 忘れ草とは何だ?」ジャスティンが問う。
「名前のとおりの草だよ。煎じてのめば、記憶の一部が抜け落ちるといわれている、魔薬草の一種だ」
ウィーズの言葉を聞いて、ジャスティンも身を乗り出して草をまじまじと見つめた。
「……っていっても、人ひとりの記憶操作が出来るほど強力なものでは全然ないぞ。せいぜい、酒で酔っ払って嫌なことを忘れる程度くらいの効き目しかない、とかなんとか。この草が実用されてるのは、物忘れのひどくなった老人とかに、拮抗作用として脳を刺激して、逆に記憶力の回復を図る、とかそういう類の使い方しか聞いたことないし……」
ウィーズは腕組みをして唸った。
ジャスティンもカインも、魔薬や薬草などに明るいわけではないので、魔導師のウィーズがわからないとなれば、この三人ではもう、答えを導き出せる手だてはなかった。
そうして行き詰った折に、ジュニアがふと口を開いた。
「師匠、魔薬を作るとき、既成のレシピじゃなくて、たまにオリジナルのブレンド調合とか試して、自分なりにアレンジすることあるんだ。俺も、魔薬のことはまだよくわからないんだけど、もしかしたら、その草を使って、記憶操作ができるくらいの劇薬を作ることも、師匠だったら可能なのかもしれない」
ジュニアの言葉に明確な根拠はどこにもなかったが、それでも、その可能性が全くないとは言い切れなかった。
「それにさ、師匠の話を聞いてみるとね、ジャスティンさんたちのことは何も覚えてないみたいなんだけど、師匠の師匠……つまり、先代ドラクロワ様のことや、兄弟子だったファーゼル様のことは知ってるみたいなんだ。そして、師匠は今でもその二人と一緒に住んでるって思ってるみたいで。だから、つまり、ジャスティンさんの言うとおり、本当に、『昔の師匠に戻った』みたいなんだよ」
ジュニアがそう言い終わると同時に、部屋の戸がそっと開き、話題の真っただ中にある人物・ドラクロワがおそるおそる入ってきた。自分の家だというのに、彼はまるで借りてきた猫のようにおどおどとしていた。
「あ、あの、大変お待たせいたしました。お茶、いれなおしてまいりました……」
自信なさげにうつむきながら、ドラクロワはもう一度ティーカップを浮かせて、三人の元に配した。静かに湯気を立ち上らせるそのカップに、最初に手をつけたのはジャスティンだった。彼女はドラクロワのいれたお茶を一口飲んでこう言った。
「とてもおいしいよ、ペゾ」
「ほ、本当ですか……?」
ドラクロワのこわばった表情が少し緩む。それを見て、カインとウィーズも慌てて飲み始めた。
「ああ、うまいうまい」
「うん、おいしい。まさか、君のいれたお茶が飲めるなんて思わなかったな」
「みなさん……ありがとうございます」
そう言って、ドラクロワは安心したように笑った。その笑顔を見て、ウィーズが独り言のようにぽつりと呟く。
「そうだよな。うん。そういえば、そうだった」
「? どうしたの? ウィーズ」カインが友人の様子を不思議に思って尋ねた。
「あ、いや……。別に大したことじゃねーんだけどさ。こういうのが、本来のベソだったよなぁって、ふと思って」
その言葉に、ジャスティンが顔を上げた。ウィーズは続ける。
「俺はさ、学舎にいたころ、ベソとそこまで関わりなかったし、王女誘拐騒動で再会してからの印象の方が強かったから、今まで忘れてたけど。ベソって、もともとはこういう素直な性格だったよな。よく泣いてたけど、笑いもするっていうか」
「……そうだね。たしかに。あのころからもう何年もたってるけど、よく考えたら、人の性格って、そこまでがらりと変わるものでもないよね。普通に暮らしてれば」
カインもそう言って頷いた。
すると、ジャスティンがふいに、隣に立っているドラクロワに向かって話を振っていた。
「ペゾ。お前にひとつ、尋ねたいことがある」
「あ、はい。なんでしょう」
「お前は今、幸せか?」
「え?」
ドラクロワは、何故そんなことを聞かれたのかわからない、という表情をした。実際、唐突な質問だったことは否めない。それでも、ジャスティンはドラクロワに真摯な眼差しを向けたままだった。
「これは、前から聞こうと思っていたことなんだ。こんな状況になったのも良い機会だ。私は、今のお前の言葉が聞いてみたい」
「僕は……」
ドラクロワは少しだけ考えるように瞬きをしてから、それでも、返答にそれほど時間を要することはなかった。
「僕は、幸せですよ。とても。お師匠様と共に過ごせて、優秀な兄様もいて、本当に恵まれています。それこそ、神様に申し訳ないくらいに」
「で、でも、お前の師匠はもう……」
「ウィーズ」
言いかけたウィーズの言葉をジャスティンが制する。彼女は首を横に振って、「何も言うな」と目で合図していた。そして、彼女はお茶をすべて飲みほしたのちに、再びドラクロワのほうに向きなおった。
「そうか。その言葉を聞けて、良かった」
そう言うと、ジャスティンは突然席を立った。
「邪魔をしたな。カイン、ウィーズ、帰るぞ」
「え、ちょ、おい? ジャスティン!」
「帰るって、もう帰るの?」
カインもウィーズも、ジャスティンの唐突な行動にわけがわからないという様子だったが、彼女がさっさと小屋から出て行こうとするので、慌ててそのあとを追った。申し訳なさそうに、カインが「ごちそうさまでした」とドラクロワに言い残しているときも、ジャスティンに待つ気はないようだった。
小屋を出てすぐに、カインがジャスティンに駆け寄る。
「ジャスティン、どうしたの?」
「……すまないな。勝手に飛び出して」
ジャスティンは、ばつが悪そうにその場にたたずんでいた。
「なんだか、これ以上、あの場にいてはいけないような気がして」
「え?」
「あ、いや……」
ジャスティンは、少々戸惑い気味に頭をかく。
「ペゾは……あやつは、私たちのことは忘れてしまっているようだが、それでも、とても穏やかな顔をしていた。あんな顔、ペゾが『ドラクロワ』になってからは、一度だって見たことがなかった」
「あ、ああ。うん、そういえば、そうだね……」
「だから。これで、よかったのかもしれない」
そう言うと、ジャスティンはふと荒れ野の向こうに広がる青空を見上げた。そして話を続ける。
「学舎に通っていた頃に何があって、ペゾが変わってしまったのか、私は知らない。だが、少なくとも、私達と出会う前のペゾは、本来のペゾは、あんなふうに笑うことのできる人間だったんだ。だとしたら、私たちが近づくことで、余計なことを思い出させる必要はないと思った。あのままで、穏やかなままで過ごすことが出来るのなら、それでいいのではないかと思うんだ。私の勝手な言い分かもしれないが……」
そのジャスティンの言葉に、カインは何も言えなかった。そのかわりに、ウィーズが横から補足するようにして付け加えた。
「でもあいつ、自分の師匠がもう亡くなってるって知ったら、相当ショックなんじゃないか。大切な人を失くした痛みを、わざわざ二度も味わう必要なんてないだろうに、さ」
「そう、だな。本当に……」
ジャスティンはうつむく。さきほど、ウィーズがドラクロワに、師がもうすでにこの世にはいないと告げようとしたのを、止めたのは自分だ。それが、結果として良かったことなのかどうかはわからなかった。それは単に、嫌なことを先延ばしにしただけなのではないか。ドラクロワを現実から遠ざけてしまっただけなのではないか。何より、幸せだと言ったドラクロワが悲しむ姿を、自分が見たくなかっただけなのかもしれない。そんなことを苦悩していると、カインがジャスティンの肩をぽんと叩いた。
「大丈夫だよ。たとえ、ペソが、お師匠様が亡くなってるって後で知ることになっても、今のペソにはジュニアがいる。それに、僕らだってついてる。彼は一人ではないんだ」
カインがそう言うと、ちょうど小屋の戸が開き、ジュニアがこちらに駆けてくるのが見えた。
「ジャスティンさん」
少年は息をはずませて三人の眼前で止まった。それから、少々ためらいつつも、訴えかけるような目をして言った。
「あの……あのさ。師匠が忘れ草を飲んだのは、別に、ジャスティンさんたちのことを忘れたかったからってわけじゃないと思うよ。たしかに師匠は、忘れたいと思うような過去も抱えてたと思う。でも、師匠が忘れてしまった記憶の中にも、きっと、忘れたくない思い出もいっぱいあって、でも、それ以上にあの方はとても苦しんでいて、だから……」
「いいんだ、ジュニア」
ジャスティンは、いつになく必死な様子のジュニアの頭を撫でて、ふっと微笑んだ。
「私たちのことは気にしなくていい。お前だって、ドラクロワに忘れられてしまっているのだろう。お前の方こそ辛いだろうに。わざわざ、私たちのことまで気遣ってくれて。ありがとう」
ジャスティンは、自分の笑顔にどこか陰りがあるのを、そのとき自分自身で気づくことはなかった。
その日は、結局何も解決しないまま、三人は帰ることとなった。
帰路の道中、薄暗い樹海の中でジャスティンは思う。自分は、先日カインとの結婚を拒んだ。だが、本当は、父に言われたとおりに、カインと結婚することが一番最良の選択である、ということは、彼女の頭の中でもなんとなくは理解出来ていた。いくら色恋沙汰に要領を得ないジャスティンといえども、いつまでもその類の話に無縁を装うわけにもいかなかった。しかし、それとは別に、どこかで何かを期待していた自分がいるのも、また事実だった。はっきりとはわからなかったが、誰かに期待していたのだ。誰かに何かを。そう、何かを。
(私は、いったい何を望んでいるのだろうな。教えてくれ、ドラクロワ……)
ジャスティンは、人知れずそんな思いを抱えていた。