大魔導師の師匠⑥
それから数ヶ月の時を経て、この小屋に珍しい来客があった。人が訪ねてくること自体稀だったが、本来ここに訪れることは、もう決してないだろうと思われたその人だった。
「師匠! 師匠はいるか?」
「兄様」
小屋に飛び込んできたのはファーゼルだった。クロが彼と対面するのは実に三年ぶりのことだった。
「クロ! 大きくなって……。いや、今は懐かしんでいる場合ではないのだ。クロ、あのろくでもない師匠……じゃない、魔導師ドラクロワはいるか?」
「……いますが。何か、あったのですか?」
「ああ、あったとも!」
ファーゼルは矢継ぎ早に事情を話し始めた。
ファーゼルはドラクロワの弟子を辞めたあと、言っていたように、魔を払う側―――魔導師や魔法使いとは真っ向から対立する立場にある「聖教教団」の法術使いになったという。そして、一週間ほど前、とある小村が一人の魔導師によって壊滅させられたという話が教団に舞い込み、どうやらそれは、魔導師ドラクロワの仕業らしいということを聞きつけ、以前弟子であったファーゼルが、直接ドラクロワのすみかに乗り込んで本人に問い詰める、と教団に自ら申し出て、ここを訪ねてきたというのだった。
「よく、あの樹海を抜けることができましたね」
クロがそう言うと、ファーゼルはふん、と鼻を鳴らした。
「あんな子供だましな罠。私は法術使いになるために、持っていた魔力を全て捨て、その代わりに、どんな魔も一切受け付けない素晴らしい身体を手に入れたのだ」
それにしても、とファーゼルは眉を寄せて言った。
「樹海にあんな卑劣な罠を施してまで、あの魔導師はこの小屋に閉じこもっているというのか。まったく、元師匠ながら、情けない話だ。クロ、とにかく私をドラクロワに会わせろ。今すぐにだ」
「ここにいますよ」
クロは静かにそう言った。
「何……?」
「ですから、あなたのすぐ、目の前に」
ファーゼルはしばらく瞬きを繰り返した。そして、次第にわなわなと両の手を振るわせはじめる。
「まさか……」
「はい。僕がその、魔導師ドラクロワです」
その声には何の感情も含まれていなかった。ただ、事実を述べただけの義務的な口調。
「ついでに言ってしまえば、樹海の罠は僕が仕掛けました。何人たりとも、二度とここへ入って来られないように」
ファーゼルは、信じられないというように驚愕の瞳でクロを見つめた。
「し……師匠は、どうした?」
「亡くなりました」
「亡くなった?」
「はい。僕が殺しました」
ファーゼルの瞳がよりいっそう見開かれる。クロはそれに応えるように、ゆっくりと語った。
「あの方がそう望まれたので、僕はそのご意思に従いました」
ファーゼルはよろめき、その場で壁にもたれかかった。
「では、あの村を壊滅させたのは、クロ、お前だというのか?」
「はい」
「……!」
ファーゼルはその場でずるずると座り込んでいた。先ほどまでの意気込みはすでになく、唖然としている。
「なんということだ……」
独り言のようにファーゼルは呟いた。そして、それからふとクロをもう一度見上げると、今度は目の色を変えてクロの胸倉に掴みかかってきた。
「お前まで、お前まで、あの魔導師に毒されたのか!」
ファーゼルがいくら揺さぶっても、クロは反応を示そうとはしなかった。ファーゼルはそのとき初めて気付いた。クロの瞳が、自分の知っていたあの幼いものではなく、考えの読めない、ひどく冷たい色をしているということに。
「ああ……。やはりあの時、お前も連れてここから逃げれば良かった。お前をおとりにして逃げた私の言えたことではないが、こんなことになるのなら、初めからそうすれば良かった。あんな魔導師の元で暮らすから―――」
「あの方を侮辱するのはやめてください」
ファーゼルははっとしてクロを見た。クロの声音が震えている。初めて、クロがファーゼルの前で怒りを露にした瞬間だった。
「別に、僕は何も変わってなどいませんよ。変わったように見えたとしても、それはお師匠様のせいじゃない。僕が望んで、なるべくしてそうなったのです。だって、あの村の連中が悪いんだ。あんな奴ら死んで当然だ。ここに突然大勢でつめかけて来て、お師匠様が本当に死んだかどうかを確かめるために、あの方の墓を掘り起こした。死んだお師匠様に向かってひどいことを言った。あいつらこそが外道だ。僕は、あんなにも人を憎いと思ったことはない。そうだ。あいつらが悪い。僕に、『殺したい』と思わせるようなことをするから。あんなやつら、痛みに耐えて殺すのを我慢する必要なんて、どこにもないんだ」
クロがあまりにも憤った様子で話すので、ファーゼルは話の内容より、そちらのことに対して驚いていた。この子は、こんなにも怒りをむき出しにするような荒い気性の持ち主だっただろうか、と。たしかに、村人にも非はあったようだ。だが、それは果たして、村一つを壊滅に追い込まれるほどの罪だったのだろうか。命まで奪われる必要があったのだろうか。
クロのこの怒りは、村人の犯した所業以上に、何か別のものに突き動かされて発せられているようにファーゼルには映った。
すると、唐突に、何の前触れもなく、クロはいきなりその場にしゃがみ込んで胸を押さえた。ファーゼルは何事かと目を白黒させるしかなかった。
「クロ、どうしたというのだ」
聴いても答えは返ってこない。それに、とても答えられる状態ではなさそうだった。咄嗟に支えようとしてファーゼルがクロの身体に触れると、その瞬間、そこから何かとてつもなく深く大きな力がファーゼルの身体の中に流れ込んでいた。
「これは……」
クロが何か苦しんでいるのは、十中八九この巨大な力のせいだろうと、ファーゼルはすぐに把握する。しかし、この力が何なのか、何故クロの中に巣食っているのか、そこまで見当はつかなかった。
「クロ、お前の中に、何か大きな負の力を感じる。これは一体?」
「呪い、ですよ」
クロは息も絶え絶えにそう答えた。
「呪い?」
「兄様は、お師匠様から何も聴かされてはいないのですか? てっきり、このことを知ったから、門下を出て行かれたものだと思っていたのに」
「何のことだ」
どうやらファーゼルは、本当に全く何も知らない様子だった。彼は語る。
「私はあの魔導師の、自分勝手で人を人とも思っていないような非道な振る舞いが許せなくて、だから弟子を辞めた。魔法のあり方についても常々疑問を抱いていたし、自分はこうはなりたくと思ったから、だからあの家を出たのだ。他に理由などない」
「そうでしたか。あなたは、お師匠様の、時に無法な振る舞いを、ただの自分勝手だと認識していたのですね。だから、あの方をあんなにも毛嫌いされていた。あの方が、何故僕に殺してほしいと望まれたのか、考えようともしないで」
「どういうことだ」
ファーゼルは、クロの言い方に密かに眉をひそめた。しかし、クロがそれに動じる様子はまるでない。
「言ったままの意味ですよ。あなたは今までも、そしてこれからも、何も知らなくていい。お師匠様の跡を継いだのは僕です。部外者のあなたには、もう何も関係のないことです。わざわざ関わる必要はありません。むしろ関わってほしくない」
「そんなわけにはいかない」
クロが一方的にまくしたてても、ファーゼルがそれですんなり納得するわけはなかった。
「お前の中に巣食っているそれ、それがお前の話す呪いなのだろうが、それは、明らかにお前の―――いや、人の手に負えるものではない。私は、今お前に触れてはっきりとそう確信した。それは、誰かが意図的に施した魔術の一種だろう。おそらくは、魂と肉体の一部を支配する類の。そして、お前の苦しみようから、その術がお前の内側だけで片付く問題でないことは、容易に想像がつく。お前は、その術に突き動かされて、他人に悪影響を及ぼしかねない。―――現に、前科はもうすでにあるのだから」
クロは、ファーゼルの言葉に何も反論することは出来なかった。核心の部分には至らないまでも、ファーゼルはほとんど呪いの性質を見破っているようだった。ファーゼルは、ふたたび熱心にクロに語りかけていた。
「私は法術使いとしてまだ未熟だが、教団の上層部の方々ならば、もしかすると、お前の魂を浄化し、その術を解くことが出来るかもしれない。あるいは、その方法がすぐに見つからなかったとしても、応急処置として、お前を変性させて魂の性質を変えれば、その苦痛から逃れることが出来るかもしれない。何にせよ、お前は一刻も早くここを出て、教団に保護されるべきだ。クロ、私と共に来い」
「嫌です」
クロはファーゼルの手を振り払うと、左胸を押さえたまま、肩で息をしながら言った。
「お気持ちはありがたいですが、兄様、この呪いが根本で解けないということは、もうどうしようもなくわかりきっていることなのです。それに、僕は変性して、お師匠様のように長い時を生きながらえようとも思いません。そんなことをしても、また同じことを繰り返すだけです。だから、僕は考えました。呪いと僕が、一緒に消滅するほかない、と」
「一緒に、消滅……?」
「はい。このまま、ずっと何もしなければ、いずれは肉体の方が限界を迎えるでしょう。だから、僕は肉体が自然に滅びるのを待つつもりです。どのくらいの時間がかかるかはわからないけれど、それでも、待っているつもりです」
「そんな馬鹿な話があるか。それではお前は、自分が死ぬのを、その痛みに耐えながら、ただひたすらに待つというのか。こんな誰もいない辺境の土地で、たった一人で」
ファーゼルがすかさず反論するが、クロの瞳が揺らぐことはなかった。ファーゼルは理解できない、というように思わず舌打ちをする。
「お前はそれでいいのか。それで満足なのか」
「兄様。兄様は、僕のことをひどく誤解なさっている」
クロは額にうっすらと汗を浮かべ、立っているのがやっとの状態の中で、ファーゼルに微笑を浮かべた。
「僕は、自分を不幸だなんて、これっぽっちも思っていませんよ。僕はお師匠様と、あの方と一緒にいられて、本当に幸せだった。あの方が最後に僕に残したものがこの術だというのなら、これはあの方の大事な形見なのです」
ファーゼルは大きく瞳を見開くと、それから小さくため息を一つ吐き、もう何も言ってはこなかった。反論出来ないというよりは、呆れて物も言えないといった様子だった。
クロだけが、その場で微笑んでいた。
(お師匠様。お師匠様は、僕に、自分を永遠に憎み続けるようにと、そう言われましたね。でも、僕は、どんなあなたでも、たとえあなたが僕に何をしても、あなたのことが好きなのです。僕は、最後にあなたにそう言いたかったのです。お師匠様)
クロは、いつの間にかファーゼルの腕の中で気を失っていた。
*
気付けば、ジュニアは師の部屋の前に立っていた。目の前には、微笑を浮かべる妖艶な女性。
状況は何一つ変わっていないし、時間にすれば、それこそほんの一瞬の出来事だったはずなのに、ひどく長い時が経過したような気がしていた。
ジュニアは改めて、女性の方を見て言った。
「今のは、師匠の昔の記憶……?」
「そうよ」
「そうか。で、あんたが、師匠の師匠、つまり、先代ドラクロワのカレンってわけだね」
「……大師匠を呼び捨てるとは、なかなかに良い教育を受けているようね。後でクロを褒めてあげなくちゃ」
カレンはそう言うと、にこりと笑んでみせた。目が笑っていないように見えるのは気のせいではないだろう。
「すごくわかりきったこと、聞いてもいい?」
「何かしら?」
「あんた、もう死んでるんだよね?」
それでも、カレンの微笑は揺るがなかった。逆に、彼女はジュニアの怯みのない物言いに興味を示したようだ。
「そうね。私はすでに、この世にはいない人間よ」
「じゃあ、どうして今この場にこうしているの? 幽霊?」
「私はね、カレンはカレンでも、クロに作り出されたカレンなの。私のこの姿も言葉も、クロの記憶の中の私、つまり、あの子が想像しうる範疇のみで具現化した、模造品に過ぎないのよ。ときどきね、あの子はこうして私を呼び出すの。寂しいのかしらね。まったく、いつまでたっても子供なんだから」
カレンはそう言うと、クスクスと笑った。
「ジュニア、と言ったわね。さっきの記憶は、クロが無意識のうちに、お前に見せようとしたものよ。これでわかったでしょう。あの子が、今まで頑なに弟子を取らなかった理由が。クロは、お前に『ドラクロワ』の弟子になることを、今でも辞めさせようとしているわ。何故だか、もう言わなくてもわかるわね?」
「うん、なんとなくね。でも、だからって、俺の気持ちはこれっぽっちも変わらないよ」
「……それ、本気で言っているの?」
カレンの表情が、一変してひどく冷たいものに変わった。それでも、やはりジュニアが怯むことはなかった。
「当たり前だ。呪いとセットだろうがなんだろうが、関係ないね。俺はドラクロワの弟子で、次期ドラクロワだ。だから、師匠には勝手に一人で死んでもらっちゃ、困るんだよ」
ジュニアは何の迷いもなく、さらっとこう口にした。
「俺は強くなりたいからね」
「怖いもの知らずなのね。若いって素敵だわ」
その言い方は、少々ジュニアの癇に障ったらしく、彼は口をとがらせた。
「その呪いを、なんとかすればいいだけの話だろ」
「そうね。初めは、誰もがそうやって意気込むのよ。私もそうだった。でも、そのうちどうにも出来ないことがだんだんわかってくるの。そんな人間は、きっと今までにいくらでもいたはずだし、実際に私も見てきたわ。過去に、『ドラクロワ』に関わった多くの人が、呪いの力に抗い、そして絶望して散っていった」
カレンは息を吐き、ふと遠い目をして言った。
「クロの、あの子の強がりもいつまでもつか……」
「あんたは、師匠がああやって、変性もせずにずっと呪いに耐え続けているのを、『強がり』で片付けるのか」
「ええ、そうよ」
カレンはあくまで、自分の考えを変える気はないようだった。
「だって、あんなに苦しいのよ。何を義理立てて律儀に耐える必要があるというの。どうせ続かないんだから、さっさと諦めて、変性して女として一生暮らして、そして、魂が限界を迎えたときに、弟子に呪いを引き継がせればいいのよ。私のようにね」
「でも、それだって、決して楽な生き方じゃなかったはずだ。あんただって、相当苦しんだんだろう?」
「さあ。どうかしら。忘れたわ。私はもう、すでに死んで楽をしている人間だから」
カレンはすっとぼけていたが、おそらく、ジュニアの言ったことに間違いはないのだろう。この呪いを背負って生きてきたのであれば、穏やかなだけでいられたはずがないのだ。
「それでも」
ジュニアはカレンに面と向かって宣言した。
「俺は変えてみせるよ。今のドラクロワを。だって、その呪いはかけることが出来たんだ。だから、解く方法だって、きっとどこかにあるはずなんだ。たとえば、愛する人の真実のキス、とか」
「まあ。ロマンチックね。でも、今のところその可能性は低いと思うわよ。だって、私はずっと、クロとキスをしていたもの」
「あ、そ」
ジュニアが気のない返事をよこしたときには、もうすでに、カレンの姿は消えてなくなっていた。ミステリアスに登場してきた割に、退場はあっさりしていたな、などと考えながら、頭の隅では、もう一つ別のことに思いを馳せていた。
(師匠はきっと、今でもあの人のことが好きなんだ。だから、幻でも、いまだに自分のそばに置いておくんだ)
そう考えて、ジュニアはふと、自分の役目を忘れていたことにようやく気付いた。
「いっけね。忘れてた。師匠、いい加減起きろよ。朝だぞ!」
こうして、いつものように二人の朝は幕を開けるのだった。