大魔導師の師匠④
クロがカレンとともに過ごしたのはたったの三年間だけ。しかし、クロにとってその三年間は大きな意味を持つものとなった。
月日は経ち、クロは十六歳になった。ファーゼルがいなくなってからというもの、カレンと二人きりの生活が続いたが、彼女は出会った頃から少しも変わることなくクロを可愛がった。毎日、抱きしめられない日は無かった。だから、クロはもう何も言わないことに決めた。「あの男」が時折ふと現れて、クロを少女の姿に変えては抱いていこうとも。
男はクロに冷たく乱暴で、いつも不必要にクロの身体を苛んだが、クロは男を憎みきれなかった。彼の目はいつも辛そうに見えたのだ。何故だか理由はわからない。性交以外での交流はほとんど無いに等しかったから。言葉を交わしたことすら数える程度だ。
(やっぱり、あの男の人はお師匠様だ。同じ人だ。どうしてこんなにも人が変わってしまうのかよくわからないけれど。それにしても、どうしてあの人はいつもあんなに辛そうなんだろう。お師匠様がいつものお師匠様のときは、ちっともそんな風に見えないのに)
そんなことを一人で考えたところで、答えなど出るわけもないのだが。
「クロ、お引越しをしましょう」
カレンの一声で、クロは現実に引き戻されていた。
「ひ、引越し、ですか?」
「そうよ。良い物件を見つけたの。さあ、行きましょう」
「え、い、今からですか?」
彼女のマイペースさはいつものことだったが、今回は特に急な提案だったように思う。
クロにとってはそれほど長く暮らした家でもなかったが、それでも住み慣れていたことに変わりはない。さすがにすぐには対応出来なかった。
まず、引越す理由が聞きたい。それからなんとかここに留まれないか説得して、しかしおそらくは考えを覆すような相手でもないので、とにかく抗議の一言だけでも言ってやろう、とクロは半ば諦めつつ考えていたのだが。
「はい。引越し完了」
「……え?」
目を瞬かせた。
「完了って……」
「言葉のとおり、終わったのよ。外に出てみるといいわ」
クロはわけがわからないまま、カレンに促されるままに小屋を出た。
すると、いつもの見慣れた景色はすでに無く、かわりに目の前一面に広がる夕焼け空と、小屋を取り囲む荒れ野、そして、おそらくはすぐ近くから、何か、大きく静かに広がっていくような水の音を聴いた。水音は、どうやらある一定の間隔で繰り返し響いているようだ。
そして、背後に迫るのは、今まで見たこともないような巨大な森。木立が異様に高く、そのせいか、日の光が地面にまで降り注がずに、中は随分鬱そうとしている。森というより樹海と表現するほうが正しいのかもしれない。
そして、何もかもが初めてのこの環境の中で、一番クロが不思議に思ったのが、今までに嗅いだことも無いような、どこか湿気た生暖かい風の匂いだった。
どうやら、家の中にいる間に家ごと全く別の場所に移動してきたらしい。これも全てカレンの術の力なのだろうか。クロがあっけにとられていると、カレンも小屋から出てきてこの景色を見渡した。
「良いところでしょう? クロ、あの崖まで一緒に歩きましょうよ。良いものを見せてあげる」
クロは、カレンにつれられて目先の崖までしばらく荒れ野を歩いた。そして、この生暖かい風の匂いと繰り返される水の音の正体を知った。
崖の下には、大きな大きな水たまりが広がっていた。以前勤めていた屋敷の近くにあった湖よりも、もっとずっと大きな水たまり。太陽の光を反射して神々しく光るその姿は、まるで星を散らした夜空のように深い藍色をしていた。繰り返されていた水の音は波。この生暖かい独特の匂いを持つのは潮風。これが、クロが初めて目にした海だった。
「どう? 初めての海の感想は」
「すごい……。なんて広いんだ」
クロは言葉も忘れて、その巨大な水たまりに見入っていた。
「気に入っていただけたかしら?」カレンが問いかける。
「はい、とても。すごくびっくりしたけど、こんな綺麗な景色は見たことがありません」
「それは良かったわ」
クロの様子を見て、カレンはふっと微笑んだ。
「私ね、海が好きなの。全ての生命は海から生まれたというわ。そして、生き物は長い年月をかけて様々な進化をとげ、陸に住まう者と海に残る者とに別れた。人間は陸での暮らしを選んだけれど、私はなんとなく、私の還るべき場所は、海のような気がするのよ」
そう言って、カレンは海の向こうのもっとずっと遠くを見つめる。クロは、そんな彼女を不思議そうに眺めた。
「お師匠様の前世は、魚か何か、とか?」
「うーん、どうかしら。でも、もし海の生物だったとしたら、むしろ来世のような気がする。この海に還って、そして、来世にまたこの海で生まれるの」
そうだとロマンチックよね。そうこぼしてから、彼女はころころと楽しげに笑った。
「ここはね、海と森に完璧に囲まれた秘境の地なのよ。海と言っても、ここの岬は絶壁だから船は使えないし、森は恐ろしく深くて、入ったが最後、二度と出られない不可侵の樹海と言われているわ。だから、普通の人間がここにたどり着くことは、なかなか無いことだと思うの」
カレンは意気揚々とこの土地の魅力を語った。―――魅力というには語弊があるかもしれないが、少なくともカレンは、この土地がどれだけ魅力的かということを言いたかったようだ。
だからね、と彼女は語る。
「だから、あなたの身の安全は、これである程度は保障されるわ」
ふいにそう言われて、クロは首を傾げた。
「僕の、身の安全……?」
「そうよ。ここなら、あなた一人でもやっていけると思うの」
「……え?」
もう一度目を瞬かせた。
「クロ。私、おなかすいちゃったわ。そろそろお夕食にしましょうよ。今日の献立は何かしら?」
カレンは何かもの言いたげなクロを無視して、さっさと小屋に戻ってしまった。取り残されたクロは、訳もわからずにぽかんと口をあけたまま彼女の背中を見送るだけだった。