青空先生
私は、高校時代の恩師である、青空先生の家を訪れた。
先生に就職先を斡旋していただき、めでたく採用されたので、そのお礼に伺ったのだ。
先生は、「むっしっし」という快活な笑いで、私を迎えてくれた。
私は会釈をした後、靴を脱ぎ、柔らかそうな玄関マットの上に足を乗せる。
その途端、冷ややかな感触が足の裏全体に広がっていくのを感じる。
見ると、靴下がビッショリと濡れている。
「どうしたのかね」
と、先生が訊ねる。
「靴下が濡れてしまいました。玄関マットが湿っていたようで」
と、私が答えると、先生は天を仰ぐ。
「昨夜は土砂降りだったからなぁ。台風も近付いとるとかいっておるし。むっしっし」
先生にならって、私も空を仰ぐ。
起伏のある白い雲が一杯に広がっている。
「この家から仰ぐ空は、いつ見ても壮観ですね」
と、私が誉めると、先生は豪快に笑い飛ばす。
「昔、テレビのCMであったな。大物を育てるには天井を高くしろとな。その点、わしの家は優れモノじゃな。むっしっし。ささ、キミ、あがりたまえ。ささやかじゃがな、キミの就職祝いをしてあげようとな、家内が腕を振るっておるのじゃよ。むっしっし」
先生は、客間に案内してくれた。
既に、お膳が並べられていて、彩り豊かな料理が盛り付けされている。
私は、先生に勧められるままに、上座に腰を落ち着ける。
先生の奥さんがエプロン姿で現れ、会釈をする。
私も頭を下げる。
「お世話になります」
「ごゆっくり、どうぞ」
奥さんは優美な笑顔を残し、音もなく台所へ消えていく。
「ささ、一杯どうかね。むっしっし」
「ありがとうございます」
先生のお酌を受け、一気に飲み干す。
熱気が喉の奥から鼻の孔へ抜けようとする中、鼻の頭にチョンと冷たいものを感じる。
「雨かな?」
私は、雨粒を受け止めるように、手のひらを広げる。
空は、いつのまにか濃い灰色の雲で覆われている。
先生が手酌で酒を注ごうとしていたので、私は徳利を持ち、お酌をしてあげる。
「ありがと。ありがと。むっしっし」
先生は、嬉しそうに赤ら顔を綻ばせる。
既に、手酌で何杯か吸収したというような赤色だった。
「なぁ、キミ、私の家も最近はめっきり来客が減ってな」
と、先生が愚痴り始める。
「私の家はな、どうも落ち着かんというのじゃ。もしやキミもそう思っとるのではないのかね?」
「滅相もない」
と、私は首を横に振る。
「ここは何といっても空気がうまいですよ」
私が深呼吸をしてみせると、たちまち先生の機嫌が良くなっていく。
「空気の入れ換えがうまくいっておるからな。むっしっし。空調設備には、そんじゃそこらの屋根を取り付けるよりも、金がかかっておるぞ。むっしっし」
次第に雨粒が大きくなり、お膳の食器がリズミカルな音を立て始める。
「降りが激しくなってきおったな。でも、ご飯を食うのに心配はいらんぞ」
「どうしてですか?」
と、私は訊ねる。
「硬めに炊いておいたんじゃ。お茶漬けの素をかければ、ほれ、お茶漬けのできあがりじゃ。ちと、冷たいがね。むっしっし」
見る見るうちに、ご飯茶碗の中に水が溜まっていく。
雨足は、さらに激しくなり、辺りは轟音に包まれ、先生の声が聞き取れなくなってしまった。
先生は、押入の中から拡声器を二つ出し、一つを私に手渡してくれた。
「うむ、まだこれぐらいなら大丈夫じゃ。むっしっし」
先生の声が、拡声器を通して聞こえる。
先生の髪は、額の辺りでグチャグチャになって、雨の力で抜けてしまいそうな感じだ。
畳の表面が雨水で覆われて見えなくなってきた。
「部屋の排水は大丈夫なんですか?」
私は、拡声器を使っての会話に戸惑いつつ、先生に訊ねる。
「むっしっし。いざという時のためにな、救命具を用意してあるのじゃ」
先生は、ライフジャケットと、スキューバダイビングに使う酸素ボンベを、得意げに押入から出して見せる。
「これを使ったことって、今までにあったんですか?」
「二回ほどあったよ。室戸台風の時は、さすがに死ぬかと思ったぞ。むっしっし」
「あなた、料理ができましたよ」
台所から、ずぶ濡れになった奥さんが、お鍋を持って現れる。
「ささ、家内自慢の料理ができたところで、もう一度飲み直そうじゃないか。ささ、くつろぎたまえ。むっしっし」
(了)