勇者になれなかった子を、家まで送るだけだった
第一章 剣を抱えた同乗者
朝の冷えた空気のなか、荷車の縄を締め直していると、窓口の係員が書類板を抱えて女の子を連れてきた。
控えの紙を受け取って配達帳面を開いたところで、係員の後ろにいた少女が、四つ折りの白い紙を、慌てて上着の内側へ押し込むのが見えた。
紙の角が、まだ少しだけ残っている。
俺は何も言わず、手元の帳面へ視線を戻した。
「トビンさん、今日の北回り便、予定どおり同乗が一名です。本人確認と引き継ぎをお願いします」
「はい。北の谷あいの村までですね」
ここは街の東門に近い定期配達便の荷場だ。
依頼主は少女の母親。申し込まれた日付は十日前――この街にある勇者養成院の選抜試験が始まるよりも前だった。
勇者養成院は寄宿学校で、基礎課程は魔力を扱えるようになり始める十二歳から受験できる。子供をすぐ戦場へ出す場所ではなく、安全な扱い方や学科の基礎を学ぶところで、正式な勇者任命は成人後の別の審査になる。
ただ、寄宿舎には定員がある。村から来た受験者は、合否にかかわらず、親の手配した便で帰る決まりになっていた。
「同乗者はノエさん、十二歳。引き渡し先は村のお母様で、到着予定は夕方の鐘が鳴る前です。間違いありませんか」
俺が窓口用の丁寧な口調で尋ねると、少女――ノエは、胸の前で練習剣を抱えたまま小さく頷いた。
「……うん。合ってる」
「お母様から、申込時に伝言を預かっています。『帰ったら好きな豆の煮込みを作るから、気をつけて帰っておいで』とのことです」
帳面の備考欄に書き添えられた文字を読み上げると、ノエの肩がほんの少しだけ揺れた。
合格通知を見てから決めたご馳走じゃない。受かっても落ちても今日この子が村へ帰ってくる前提で、母親は十日前に帰りの席を予約し、今日は豆を水に浸して待っている。
俺は確認欄に自分の署名を入れ、控えを係員へ返した。
俺は二十八歳で、この街と周辺の村を結ぶ定期配達を任されてから四年になる。人並み外れた剣の腕も、派手な魔法もない俺にとって、荷を傷めず、予定の時刻までに相手へ届けることが毎日の飯の種だ。
「よし、手続きは終わりだ。俺は荷運びのトビン。村の家の前まで責任を持って送るから、よろしくな」
係員が去ってから普段の口調に戻して声をかけると、ノエは視線を斜め下に向けたまま、ぼそりと言った。
「……べつに、勇者になりたかったわけじゃないし」
誰も試験の話はしていない。
していないが、木芯に薄い鉄を張った練習剣を抱える彼女の上着からは、さっき押し込まれたばかりの不合格通知の角がのぞいている。合格した子なら、今頃は養成院の採寸所で支給品の制服を合わせている時間だ。
「そうか。じゃあ、その剣は後ろの荷台の布の上に置こうか。ずっと抱えていると腕が疲れるぞ」
俺が何気なく手を伸ばすと、ノエは一歩後ろへ下がり、鞘ごと練習剣をぎゅっと胸に引き寄せた。
「いい。自分で持つ」
「邪魔にならないか?」
「まだ、いらなくなったわけじゃないから」
少し尖った声だった。
その言葉に、俺は自分の部屋の棚の隅を思い出した。
家賃と生活費の帳面の横に、八年間一度も開いていない古い魔法の入門書が立ててある。表紙は日焼けし、軽い物を動かす練習の頁に、色褪せた布の栞が挟まったままだ。あの本を閉じたままにしておくことまで、俺は反省のうちだと思っていた。
俺はこの世界で生まれ育ち、十八歳のときに突然、前世と呼ばれる別の人生の記憶を思い出した。
その終わりと、この人生の始まりの間にあった、妙な面談まで一緒に。
真っ白な空間のカウンターの向こうで、星柄のマントを着た青年が書類をめくっていた。大きすぎるとんがり帽子を片手で押さえたその神様は、転生担当のツクヨと名乗った。
「はい、あなたは凡人枠です。特別な能力の付与はありません」
「魔法のある世界なんだろ?」
「ありますよ。ただ、転生しただけで人より上手に使えるわけではありません。そのあたりは、向こうで生まれる皆さんと同じです」
ツクヨはそこだけ少しゆっくり言って、書類の一行を指で示した。
後ろの机にも、同じような書類が山になっていた。神様の職場も、あまり暇ではないらしい。
十八歳で思い出してみれば、たしかに何も増えてはいなかった。
前世を思い出した翌月にも、家賃はきっちり請求された。どうやら、転生祝いの免除はないらしい。
それでも当時の俺は、神様からもらう力はなくても、自分にはまだ気づいていない特別な才能があるはずだと信じ込み、荷運びの見習いをしながら二年間、夜な夜な魔法の練習を続けたのだ。けれど、二年かけて使えるようになったのは、指先の軽い物をほんの少し動かすだけの、子供と変わらない初歩の魔法だけだった。
「わかった。なら、そのまま持って乗るといい」
俺は荷車の前方の席を示し、木箱から出発前の点検道具を取り出した。
その拍子に、懐の小銭入れの口が緩み、銅貨が一枚こぼれ落ちて石畳の上を転がった。
「あ、いけね」
銅貨は荷車の脇から二メートルほど離れた地面で止まった。
俺が腰を上げかけるより先に、荷車の脇に立っていたノエが、そちらへスッと人差し指を向けた。
石畳の上の銅貨が、こすれる小さな音を立てて、こちらへ三センチほど滑った。
「おお。動かせるんだな」
「これくらい、普通だし」
ノエは鼻先を少し上げて言ったが、銅貨はそこから先へは転がってこない。
「……その紐も、片づけるんでしょ」
ノエが、すぐ足元の荷箱の下からはみ出した荷造り用の麻紐を指さした。眉間にしわを寄せてじっと見つめるが、紐はピクリとも動かなかった。
「……動かないな」
「紐の上に、箱が乗ってるから」
ノエが指を下ろす。
俺がしゃがみ込み、木箱の片角を片手で少し持ち上げて隙間を作ると、ノエがもう一度指先を向けた。今度は、麻紐の先端がスッと二センチほど横へ動いた。
「軽くても、引っ張られてたり挟まったりしてたらだめなの。直接見えるところで、三メートルくらいまでしか届かないし」
言いながら、ノエは自分の指先を引っ込めて握りしめた。
三メートル以内、見える範囲で、銅貨や紐の先といった軽い物を数センチ動かす。それが今の彼女の精一杯らしい。基礎課程の選抜では、もう少し離れた標的を動かしたり、複数の課題を通しでこなしたりする必要がある。
俺は落ちた銅貨を拾い上げ、砂を払って小銭入れに戻した。
十八歳から二十歳まで二年練習した俺の魔法も、似たようなものだった。だから、その数センチを動かすためにどれだけ目を凝らし、指先に神経を集めたかは、少しだけわかる。
「たいしたもんだよ。俺なんか、見習いの頃にそれを横着に使って、大失敗したことがあるからな」
俺は乗車用の小さな踏み台を席の下へ置いた。
「踏み台、使うか」
「なくても乗れる」
「そうか。でも、こいつにも仕事をさせてやってくれ」
ノエは踏み台を見下ろし、しぶしぶ片足を乗せた。
「……一回だけね」
御者台の隣の席へ腰を下ろしたノエに、俺は折りたたんだ厚手の毛布を差し出した。
「膝にも掛けておけ。風が冷たい」
「平気」
「荷場の備品だ。遠慮しなくていい」
ノエは少し迷ってから、毛布の端だけを膝に乗せた。
ノエが座ったのを確かめてから、俺は車輪の下の輪留めと踏み台を回収した。御者台へ上がり、手綱を取る。鉄輪が石畳を鳴らし、北の村へ向かう定期便がゆっくりと動き出した。
第二章 言えないただいま
街を抜けて街道へ出ると、両側に刈り取りを終えた麦畑と、色づき始めた雑木林が広がった。
荷車は一定の速さで揺れる。俺の隣に座ったノエは、前を歩く茶色い荷馬の背中をじっと見てから、ぽつりと訊いた。
「この馬も、ずっと荷運びしてるの?」
「ああ。俺より先輩だ」
ノエは少し座り直した。
「……さっき、遅いって思ってごめんなさい」
「本人には言わないでおく」
馬が耳をぴくりと動かし、ノエが小さく息を吐いた。
街の城壁が見えなくなる頃には、固くなっていた肩の力が少しだけ抜けてきたようだった。
「……落ちたって、言ったら」
そこで声が止まった。
俺は手綱を持ったまま待った。
「なんでもない」
「そうか」
しばらくして、また隣から声がした。
「去年、隣の家のフィネが養成院に入ったの。冬休みに帰ってきたとき、紺色の制服を着てて。だから私、村のみんなに言っちゃったんだ。次は私も、同じ制服を着て帰ってくるって」
ノエは毛布の下で革靴のつま先を揺らした。
「来年また受けられるのも、村の集会所で講習があるのも知ってる。魔力が遅く出る人向けの編入があるって、試験官の先生も優しく教えてくれた。……でも、そういうことじゃないのに」
一年後に再挑戦できることと、今日これから普通の服のまま村へ帰る恥ずかしさは、別の話だ。
「フィネが受かったとき、ちゃんと嬉しかったんだよ」
「うん」
「なのに、今は会いたくない」
俺は馬の耳を見ながら頷いた。
「今日すぐ会わなくても、いいだろ」
ノエは返事をせず、練習剣の柄に顎を乗せた。
それから少しの間、隣でブツブツと小さな声が聞こえた。横目で窺うと、母親への報告を小声で練習している。
「……ただいま。試験は、まあまあだったけど……。ううん、ええと、今回は定員が……」
俺の視線に気づいたのか、ノエが顔を上げて睨んだ。
「聞かないで」
「わかった」
俺は正面へ顔を戻した。
しばらくして、ノエが俺を見た。
「……一回だけ、聞いて」
「わかった」
ノエは小さく咳払いをしたが、結局「ただいま」の次が出てこなくなり、口をつぐんでしまった。
昼前になり、街道沿いの水場が見えてきた。
「少し馬に水をやるから、十分ほど休もう」
「私、休まなくても平気だけど」
そう言った直後、俺が踏み台を置くと、ノエは荷車を降り、水場脇の石ベンチへまっすぐ向かった。
「休まなくても平気じゃなかったか」
「馬が休みたそうだったから」
「なるほど。馬のためか」
ノエは頷き、自分の脚をもう少し楽な位置へ伸ばした。
俺は馬に水をやってからベンチの端へ座り、麻布の包みを広げた。中には焼き目のついた丸パンが二つと、小袋に入った乾燥赤実が六粒。丸パンは手作りのため形が不揃いで、片方がひと回り大きい。
「どっちでもいいぞ。好きな方を取ってくれ」
ノエは二つのパンを見比べてから、小さい方の丸パンを手に取った。
「お兄さん、このあとも荷物を運ぶでしょ。大きい方、食べて」
「ありがとな。大人は維持費が高いんだ」
「馬と同じ?」
「……だいたいな」
ノエが小さく笑った。大きい方のパンを受け取り、俺は一度立ち上がって荷台の縄の緩みを確かめに行った。
ほんの二、三分ほど一回りしてベンチへ戻ると、ノエは小さい方のパンを半分ほど食べ終えていた。そして、麻布の上の小袋に目をやると、六粒あったはずの甘い乾燥赤実が、一粒しか残っていない。
俺は残った一粒と、ノエの少し膨らんだ片頬を見比べた。
「……なあ、ノエ。この甘い実、最初は六粒入ってなかったか?」
ノエは視線をスッと遠い山の稜線へ向け、口を動かしながら飲み込んだ。
「さあ。最初から少なかったんじゃない?」
「俺はまだ一粒も食ってないんだが」
「風が吹いたから、転がったのかも」
「俺のパンは、ちっとも動かなかったけどな。袋の中から甘い実だけ運ぶとは、器用な風だ」
「……甘いものが好きな風だったんじゃない」
ノエの頬が、最後に一度だけ動いた。
それから、気まずそうにパンの端をかじり、残った一粒を俺の方へそっと押した。
「……ごめん。おいしくて、止まらなかった」
「じゃあ、その一粒は俺がもらう」
「うん」
俺は残った一粒を口に入れた。
「甘いな」
「……うん」
ノエは、今度はこっちを向いて頷いた。
その膝の上には、相変わらず練習剣が置かれている。よく見ると、柄の同じ場所だけ、表面が滑らかに擦れていた。
「それ、ずっと持ってるな。ずいぶん握ったのか」
「……毎日だったから」
ノエは鞘の傷を親指でなぞった。
「落ちたら、いらないって言われるの、いやだから」
「そうか」
俺は頷き、空になった包みを畳んだ。ノエがパンの最後の一口を飲み込むまで、出発の声は掛けなかった。
「よし、そろそろ出るぞ。午後は市場に寄って、塩の袋を一つ降ろしてから村へ向かう」
「うん」
ノエは剣を抱え直し、今度は何も言われずに踏み台を使って荷車の席へ戻った。
第三章 三センチの魔法
午後に入ってすぐ、街道が交差する宿場の定期市場へ到着した。
ここは週に三度、周辺の村や街から荷が集まる場所で、俺も毎回立ち寄る馴染みの配達先だ。石畳の広場の周りには露店が並び、奥には石造りの共同倉庫や荷降ろし用の通路が続いている。
広場の手前で馬の歩みを落としたときだった。
市場の西側で、木造庇の補修工事をしていた大工たちが、梁を槌で打ち込む「ガン、ガン!」という鋭い音を響かせた。
直後、低い唸り声とともに、前方の荷降ろし通路の入り口で砂埃が上がった。
「おい、止まれ! どう、どう!」
工事の音に驚いたのは、別の荷車を引いていた荷役用の大トカゲだった。体長三メートル近い灰緑色の胴体が跳ね、広場から狭い荷降ろし通路へ急に曲がった。通路の左手には共同倉庫の石壁が迫り、入り口の右手には露店が並んでいる。
曲がりきれずに荷車が左へ振られ、倉庫側の車輪が、石畳の縁から一段低いところへ落ちた。ガツン、と鈍い音がした。
左に傾いた荷車の前で、大トカゲの腹を回る革の補助ベルトが、牽引用の棒と車軸の隙間に挟まった。大トカゲは前へ逃げようとする。だが、ベルトは荷車に引っ掛かったまま離れず、もがくほど腹を締めつけた。苦しさで獣が身をよじるたび、荷車まで左右に揺れる。浮いた右車輪が露店の木枠にぶつかり、鉢が砕け散った。
「危ない、下がれ!」
俺は即座に自分の荷車を広場の端へ寄せ、馬をつないで輪留めを噛ませると、ノエの手を引いて降ろした。
「ノエ、剣を持ったままこっちへ来い!」
暴れる獣から離れた側を回り、通路の隣に建つ石造りの共同倉庫へ駆け寄る。入り口にいた顔馴染みの倉庫番の老人に声をかけた。
「おじさん、うちの同乗者だ! 危ないから倉庫の中に入れて、外へ出さないでくれ!」
「おう、わかった! 嬢ちゃん、中へ入りな!」
ノエが屋内へ入ったのを確かめてから、俺は通行人を下がらせ、予備の輪留めを抱えて通路へ走った。そこには、別の荷を運んできていた職場の先輩のダントと、もう一人の荷運び仲間が駆けつけていた。
「ダントさん!」
「トビンか! 荷が崩れるぞ。まず後ろから、上の荷を降ろす!」
ダントが低い声で指示を飛ばす。大トカゲの頭側では、世話係の男が必死に手綱を引いていた。
「世話係さん、主綱とは別の引き綱はあるか!?」
「ある! 首輪の横環に通せる!」
「そいつを右の石柱の固定環に取って、頭の向きを保ってくれ!」
世話係が予備の引き綱を首輪の横環へ通し、石柱の鉄環へ巻きつけて獣が前へ突っ込む力を止めた。
大トカゲが前へ進めなくなった隙に、俺とダント、荷運び仲間の三人は荷車の後ろへ回った。上に積まれた荷を一部降ろしてから、車輪に輪留めを押し込む。ダントは傾いた荷台の低い側に太い支え木を当て、それ以上倒れないように支えた。
荷車が安定したことで、大トカゲの暴れ方が少し収まった。だが、まだ苦しそうに腹を波打たせている。
「何が引っ掛かってるんだ?」
ダントの問いに、俺は荷台の外にしゃがみ、車輪の脇から下を覗き込んだ。補助ベルトの端には金属の輪があり、車軸の根元の留め金に、小さなピンでつながれている。ピンは上から差し込んである。これを引き抜けば、ベルトの端が荷車から離れる仕組みだ。
「腹のベルトが、棒と車軸の間に挟まってます。あのピンを抜けば、ベルトを荷車から外せます。ただ、今はベルトに引っ張られて、ピンが穴の縁に押しつけられてる。先に緩めないと抜けません」
「主綱と固定環の引き綱は残るんだな?」
「はい。外すのは腹の補助ベルトだけです。ただ、ピンは車軸と獣の間にあります。ここから手を伸ばすと、また荷車が揺れたときに腕を挟まれる」
「長い鉤棒か何かで引っ掛けるしかないか」
荷運び仲間が周囲を見回したとき、通路に面した石造り倉庫の壁から、小さな声が飛んできた。
「……お兄さん。そのピン、小さい?」
見ると、倉庫の分厚い石壁に設けられた、胸の高さほどの低い窓の内側にノエが立っていた。隣には倉庫番の老人が寄り添っている。
窓は、左車輪が落ちた側にあった。ノエから留め金までは二メートルほど。俺たちの側からは車輪や荷台に隠れがちなピンの頭が、倉庫側の窓からは隙間越しに見えていた。ノエは厚い窓台より内側に立ったまま、そこへ視線を向けている。
「銅貨よりは少し長いが、重さは同じくらいの留めピンだ」
俺が答えると、ノエはピンの位置をじっと見つめた。
「小さいものなら、動かせる」
「だめだ。無理しなくていい、俺たちでやる」
言葉が、考えるより先に口から飛び出していた。
八年前、二十歳だった見習いの頃の記憶がよぎる。
坂道での積み替えを急ぎ、荷箱を留めていた小さな金具だけなら魔法で外せると思い込んで、輪留めも先輩のダントを呼ぶのも省いて一人で作業した。金具は外れたが、荷が偏って荷車が滑り出し、駆け寄って止めようとしたダントさんが手首を捻挫したのだ。
自分のちっぽけな力を過信して他人に怪我を負わせた恥ずかしさが、喉元までせり上がってきた。
だが、窓の内側に立つノエは、八年前の俺とは違う言葉を口にした。
「今は無理。引っ張られてるから、私の魔法じゃ動かない」
ノエはできるふりをしなかった。
「……でも、そこ、緩められる?」
俺は息を呑み、車輪に噛ませた輪留めを見た。
八年前、手首に包帯を巻いたダントさんは、謝り続ける俺に、新しい輪留めを一つ渡してこう言ったのだ。
『道具を使え。人手を呼べ。――次は、一人でやるな』
手順を省いたのが悪かった。それは、ずっとわかっていた。
それでも俺は、魔法を使おうと思ったことまで、間違いだった気がしていた。
目の前のノエは、できないところを隠さず、人の手を借りようとしている。
俺は顔を上げた。
「ノエ。君を無事に帰すのが、俺の仕事だ。だから、そこから試せるようにする。無理ならやめよう」
俺はまず、ノエの隣にいる倉庫番の老人へ声をかけた。
「おじさん、ノエのすぐそばにいてください」
「ああ、任せときな。嬢ちゃんの肩はわしが押さえてる」
それから、窓の内側のノエへ目を向けた。
「ノエ。頭も腕も、外へ出さない。約束できるか」
「うん。ここから動かない」
続けて俺は、もう一人の荷運び仲間を見た。
「すみません、道具小屋へ走って、長い鉤付き工具を取ってきてください! 魔法で抜けなかったら、そいつで外から引っ掛けます!」
「おう、すぐ持ってくる!」
荷運び仲間が道具小屋へ向かって走り出す。
「ダントさん、支え木で荷台を少し持ち上げてください。挟まったベルトを浮かせます。俺は外から届く革の端を持って、留め金の方へ送り戻します」
「わかった。俺が荷台を支える。腕は中へ入れるなよ」
車輪が転がらないように輪留めは噛ませたままだ。ダントさんが荷台を持ち上げている間に、俺がベルトを緩める。その間だけ、ノエにピンを動かしてもらう。
「世話係さん、獣の息はどうだ!?」
「引き綱は張れてる! 今なら頭も下がって落ち着いてるぞ!」
「よし、引くぞ……っ!」
ダントさんが支え木で荷台を少し持ち上げると、棒と車軸に挟まっていたベルトに隙間ができた。俺は車軸の外へ垂れた余り革を両手で掴み、挟まった部分を浮かせながら、留め金の方へ押し戻した。
荷台の角の金具で右手の甲が擦れ、皮がむけた。それでも手を離さず、ベルトを支える。張り詰めていた革が少したわみ、ピンを横へ引っ張る力が弱まった。
「今だ、ノエ! やってくれ!」
二メートル離れた窓の内側で、ノエが右手を上げた。腕は窓の外へ出さず、指先だけをピンの頭へ向ける。
一秒、二秒。ピンの頭がわずかに浮いて傾き、そこで止まった。
「――まだ引っ掛かってる!」
ノエは無理に続けず、すぐに声を上げて手を止めた。
「少し浮いたけど、斜めになって、穴の縁に当たってる!」
「よし、一度緩める!」
ノエが手を下ろしたのを見て、俺たちは持ち上げる力を少し緩めた。輪留めと支え木は動かさない。引っ掛かりをすぐ知らせてくれたおかげで、無理に引き続けずに済んだ。
「ダントさん、支え木をもう少し前へ。今度は留め金の近くを持ち上げてください。俺も、ベルトを引く向きを直します!」
「おう、いくぞ。……せえの、ほらよ!」
ダントさんが支え木を当て直し、荷台の前寄りを少し持ち上げた。俺は革を掴み直して、留め金につながる輪の傾きを戻す。ピンを横へ押していた輪が緩み、ピンが穴からまっすぐ抜ける向きになった。
通路の角からは、鉤付き工具を抱えた荷運び仲間が走って戻ってくる足音が聞こえる。
「ノエ、向きを直した! もう一回、試せるか? 嫌なら工具を待っていい!」
窓の向こうで、ノエは倉庫番に肩を支えられたまま、一度だけ深く息を吸った。
「やる。――動かせる」
「頼む!」
世話係が引き綱を保ち、大トカゲの頭を前へ出させない。ダントさんが支え木で荷台を支える。俺はベルトがまた張らないよう、革を緩めた位置で持ちこたえた。
そこへ、窓の内側からノエが指先を向けた。
留め金の穴から、軽い抜きピンが三センチほど浮いた。先端が穴を抜けると、そのまま横へ倒れ、小さな金属音を立てて石畳へ落ちた。
ピンに留められていた金属の輪が外れ、補助ベルトの端が荷車から離れた。俺が支えていた革がバサリと垂れ、大トカゲの腹を締めつけていた帯が緩んだ。
「抜けた!」
工具を抱えて戻ってきた荷運び仲間が足を止める。道具を当てるよりも早く、腹の締めつけから解放された大トカゲが「フオオ……」と長い息を吐き出し、その場に腹を下ろして落ち着いた。
窓の内側で、ノエが胸の前に小さな握りこぶしを作った。
俺と目が合うと、何でもなかったように両手を下ろした。
世話係が大トカゲを押さえている間に、俺とダントさん、戻ってきた荷運び仲間の三人で荷車を立て直した。掛け声を合わせて左側を持ち上げ、一段下に落ちた車輪を石畳の上へ戻す。
魔法の力が急に強くなったわけじゃない。届く距離も、動かせる重さも、朝と同じだ。動かしたのは、ほんの数センチ。俺たちが重みと張りを引き受け、ノエがその数センチを足した。
車輪を戻し終えると、ダントさんが俺の隣に来て、右手の甲を見やった。
「手、擦りむいてるぞ。あとで洗っとけ」
「これくらい、かすり傷です。ダントさんこそ、手首は大丈夫ですか」
「八年前の古傷をいつまで気にしてる。……今日はちゃんと輪留めも置いたし、人も呼んだな」
「いつも置いてますよ」
「知ってる」
ダントさんは口の端を上げて、自分の荷車へ戻っていった。
倉庫の扉が開き、倉庫番の老人と一緒にノエが顔を出した。俺が抜きピンを世話係へ返してから歩み寄ると、ノエはほっとしたように息をついた。
「どこも痛くないか」
「うん」
「助かったよ。引っ掛かってるって、すぐ教えてくれたからな」
俺が自分の荷車の方へ向き直ろうとすると、袖が軽く引かれた。
「……もう、あっちには行かない?」
「ああ。後は世話係の人たちがやってくれる」
それを聞いてから、ノエの指が離れた。
その拍子に、彼女の視線が俺の右手の甲で止まった。
「……手、赤い」
「たいした――」
言いかけて、俺は口を閉じた。
「さっき擦った。水で洗っておこう」
「私、水もらってくる」
「じゃあ、そこのおじさんに頼んでくれるか」
ノエは頷き、倉庫番の老人のところへ走って、小さな木桶に汲んだ水をもらってきた。
水桶を差し出したノエが言った。
「遠慮しなくていいよ」
毛布を渡したときの俺と、同じ言い方だった。
「ありがとう」
俺は手の甲の砂と血を洗い流した。水が傷に触れて、俺は少しだけ顔をしかめた。
隣で、ノエも同じ顔をした。
清潔な布で水気を拭う。
塩の袋を市場の店へ納め、定期連絡便の詰所から「市場での事故の手伝いで到着が半刻ほど遅れること」「ノエに怪我はなく無事に向かっていること」を書いた連絡札を村へ出してから、俺たちは荷車へ戻った。
荷車に乗りかけたノエが、一度振り返った。
「おじさんも、ありがとう」
「何、わしは隣にいただけじゃよ」
「うん。いてくれて、よかった」
倉庫番が目を細めて手を振る。
ノエは乗車用の踏み台を見下ろしたまま、少し黙った。
「……剣、乗るまで持っててくれる?」
「ああ」
朝には触らせてもらえなかった鞘が、俺の手に渡された。
ノエが踏み台を使って席へ座り、俺が剣を返すと、彼女はそれを膝の上に置いて、備品の毛布を肩まで引き上げた。
市場を抜けて再び街道へ出たところで、隣から小さな声がした。
「怖くなかった?」
「怖かったよ」
ノエがこちらを見た。
「お兄さんも?」
「あれだけ大きいからな」
「……でも、ちゃんとしてた」
俺は返事の代わりに、手綱を少し持ち直した。
しばらく、車輪の音だけが続いた。
ノエは剣を膝に置き、毛布の中へ両手をしまっていた。
第四章 おかえり
谷あいの村へ着いたときには、西の空が濃い茜色に染まり、家々の煙突から夕餉の煙が立ち上っていた。
先に届いていた連絡札のおかげで、ノエの家の前には、すでに前掛け姿の母親が出て街道を見つめていた。
俺が家の前で荷車を止め、車輪に輪留めを噛ませる。
母親は前掛けで手を拭いた。ノエが踏み台を降りてくるのを見て、もう一度、同じところを拭いた。
「ノエ!」
ノエは胸に練習剣を抱えたまま、母親の二歩手前で立ち止まった。
俺はすぐには口を挟まず、荷台の後ろへ回って着替えの布包みを下ろしながら、静かに待った。
夕暮れの風のなか、ノエは一度だけ下を向いてから、顔を上げて母親を見た。
「……お母さん。試験、落ちた」
昼間に練習していた「まあまあだった」でも「定員が」でもなかった。
ノエは上着の内側から、四つ折りの紙を取り出した。指で折り目を一つ伸ばし、母親へ差し出す。今度は、角まで隠そうとはしなかった。
母親は受け取った紙を折り目どおりに畳み、前掛けのポケットへしまった。それからノエの顔を見て、肩を見て、一歩近づいてその肩に手を置いた。
「おかえり、ノエ」
「……落ちたの、まだ、いやだ」
「うん」
母親はノエの肩を抱いた。
ノエは空いた方の手で、母親の服をつかんだ。
「……ただいま」
「うん。お腹空いたでしょう。豆の煮込み、温め直すね」
開け放たれた木の戸口から、じっくり煮込まれた豆と塩漬け肉の温かい匂いが漂ってくる。
試験に受かったからでも、市場の事故で役に立ったからでもない。豆の煮込みは、朝、帳面で読み上げた伝言のとおりに用意されていた。
軒先の小さな木卓に荷物を置くと、母親は湯飲みを二つ盆に乗せて持ってきた。
「あなたも、温かいものを一口」
母親が、俺の前にも湯飲みを置いた。
両手で受け取ってから、自分の指先が冷えていたことに気づいた。白湯を一口飲むと、胸の奥までじんわりと温まった。
隣で白湯を飲んでいたノエが、俺をちらりと見てから、母親へ顔を向けた。
「あのね、お母さん。それと、帰りに市場で、手伝ったことがあるの」
「そうかい。連絡札に、荷車の騒ぎがあったって書いてあったね」
「うん。大トカゲが驚いて、荷車が傾いちゃって。でもね、このお兄さんが、暴れる大トカゲを止めたんだよ」
ノエが少し胸を張って言うので、俺は湯飲みを下ろして苦笑した。
「おいおい、話を盛るな。止めたのは大トカゲじゃなくて荷車だ。しかも六人でな」
俺が訂正すると、ノエは少しだけ唇を尖らせ、それから指を一本立てて言った。
「じゃあ、六分の一は、この人。で、もう六分の一は、私」
その言い方に、母親が「ふふっ」と柔らかく声を立てて笑った。俺もつられて肩の力を抜いて笑った。
ノエが自分の言葉で市場の出来事を話し終えたあと、俺は母親に向き直り、背筋を正して補足した。
「市場で荷車の事故がありまして、到着が遅れました。ノエさんには倉庫の中にいてもらい、倉庫番の方も付き添っていました。そこから小さな留め具を動かしてくれて、とても助かりました。遅くなり、申し訳ありません」
「いいえ、丁寧に連絡まで入れてくださって、本当にありがとうございました。この子が無事で何よりです」
母親は深く頭を下げ、俺が差し出した配達帳面の受領欄に署名を入れた。
帳面を閉じると、横で見ていたノエが目を丸くして言った。
「お兄さん、係員さんみたいなしゃべり方もできるんだね」
「朝にもしてただろ」
「朝は……それどころじゃなかったから」
俺は笑って配送料を革袋へ収め、荷車へ戻ろうと背を向けた。
すると、戸口のところで練習剣を抱えていたノエが、トタッと二歩だけ追いかけてきた。
「あの、トビンさん」
「なんだ?」
振り返ると、ノエは胸に抱えた練習剣の鞘を指先で触れながら、真っ直ぐ俺を見上げて訊いた。
「……勇者じゃなくても、魔法の練習は続けていいよね」
来年もう一度養成院の試験を受けるのか、村の講習に通うのか、それともただ自分のために練習するのかは、これからこの子が考えればいい。
俺は荷車の脇で立ち止まり、ただ当たり前のことを返すみたいに言った。
「いいだろ。まだ、やりたいんだろ」
「……うん。初めて銅貨が動いたとき、嬉しかったから」
ノエは自分の指先を見た。
「なら、続けりゃいいさ」
「……次も、トビンさん?」
「北回りなら、たぶんな」
「……ふうん」
小さな返事のあと、口元がほんの少し緩んだ。
戸口から見守っていた母親が、優しく声をかける。
「さ、ノエ。食べよう。お母さんもお腹ぺこぺこ」
ノエが、母親の方へ一歩近づいた。
「じゃあな、ノエ」
「うん。ありがとう、トビンさん!」
手を振るノエと母親に軽く片手を挙げて応え、俺は空になった荷車の御者台へ乗り込んだ。
第五章 もう一度ひらく頁
帰りは配達先へ寄る必要がない。馬を休ませてから、俺は来た道を街へ引き返した。
夜の鐘が鳴り終える頃、荷場へ戻って馬の引き具を外し、その首をひと撫でした。
「お疲れさまでした、先輩」
返事の代わりに、鼻先で肩を押された。
自分の借り部屋へ戻ると、水差しの水で右手の甲の擦り傷を洗い直し、清潔な布で水気を拭う。ヒリヒリとした小さな痛みはあるが、明日も問題なく手綱を握れる傷だ。
俺は木の机の前に座り、小さなランプに火を灯した。
まず、引き出しから今月の家賃袋を出して銅貨と銀貨の数を確かめ、続けて今日一日の配達帳面を開く。最後の行には、北の村の母親が記した丁寧な受領の署名がある。
ペンを取り、完了の印を書き入れて帳面を閉じた。
帳面をしまいかけて、少しだけ横へ寄せた。
机の上に、本一冊ぶんの場所が空いた。
俺は立ち上がり、壁際の棚の隅から、背表紙の色が褪せた一冊の古い本を抜き取って机の上へ置いた。十八歳のときに買い、二十歳のあの日に閉じてから一度も開いていなかった、初歩魔法の入門書だ。
表紙を開くと、途中の頁に挟まったままだった古い布の栞が現れる。『軽い物を動かす練習』という見出しがついた頁だ。
これを読んだからといって、明日急に重い荷箱を魔法で浮かせられるようになるわけじゃない。
俺は二十八歳の荷運びで、これからも輪留めを使い、重い荷は先輩や仲間と声を掛け合って運ぶだろう。
特別な何者かになるためでも、誰かに勝つためでもない。
俺は指先で古い栞をつまみ上げ、本から外して机の端へ置いた。
ランプの黄色い灯りの下で、八年前に止めたそのままの頁へ目を落とし、最初の行から一頁だけ、静かに文字を追った。
(おわり)
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
ノエとトビンの、たった一日の帰り道にお付き合いいただけてうれしいです。二人と、黙々と歩いてくれた先輩のことを、読み終えたあとにふと思い出していただけたら幸いです。
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