略符号はN1K1、連合国側のコードネームはRex ~湾上の横槍~
1945年2月16日、千葉県館山沖の出来事・・・
1945年2月16日、千葉県館山沖・・・
朝の館山湾は、冬の冷たい空気に包まれていた。
格納庫の扉は開かれ、修理を終えた水上戦闘機・強風がゆっくりとスリップへ運ばれていく。
ガラガラ...... ギギギ......
ウインチの音が響き、修理を終えた強風は、館山湾のスリップから静かに海へ降ろされた。
チャプッ
フロートが水面に触れると、小さな波紋が広がる。
雨傘完爾中尉は帽を被り直し、整備兵へ一礼すると強風へ歩き出した。
館山湾は、戦場から取り残されたように静かだった。
水面は穏やかで、風も弱い。
その静けさの中に、水上戦闘機・強風は浮かんでいた。
性能諸元・強風一一型
乗員・1名
全長・10.58m
全幅・12.00m
全高・4.750m
翼面積・23.500㎡
空虚重量・2.700㎏
最大離陸重量・3.500㎏
エンジン・三菱火星一三型 ( 空冷星型14シリンダー、離昇出力1.460hp )
プロペラ・住友ハミルトン油圧式可変ピッチ定速回転3翅プロペラ
最大速度・488.9km/h
巡航速度・352km/h
降着速度・131.5km/h
航続距離・4.8時間
実用上昇限度・10.560m
上昇力・4.000mまで4分11秒
武装・九七式三型改ニ7.7mm機銃×2 ( 装弾数各500発 )、九九式二号三型20mm機銃×2 ( 装弾数各60発 )
爆装・30㎏爆弾×2
フロートに手をかけたまま、俺、雨傘は整備兵の言葉を待っていた。
【 補足・フロート......水上からの離着水( 離水・着水 )を可能にするための船の形をした浮力装置( 浮舟 )のことです。『強風』は太平洋戦争中に日本海軍が開発した水上戦闘機で、フロートは同機を運用する上で最も特徴的な装備でした 】
整備兵はエンジンカウルに触れた指を布で拭い、短く息を吐く。
「 応急ですが、漏れは止めております 」
一泊置く。
「 一応、回ります、規定までは上げました。振れも大きくは出てません 」
俺は機体を見上げた。
塗装の剥げた部分が、鈍く光を返している。
「 一応、か 」
小さく繰り返す。
整備兵は苦く笑い、すぐに表情を戻した。
「 水温の上がり方が少し早いです。無理はさせないでください、中尉 」
俺は答えない、代わりにフロートに手をかける。
冷たい金属の感触、軽く体重を預けると、水面がわずかに軋んだ。
「 飛べるな 」
「 はい、中尉 」
短い返答、それで十分だった。
俺は機体の側面を指の背で軽く叩く、乾いた音が返る。
フロートに足をかけた。今日も、この機体に生命を預ける。
飛び立てば、生きて戻れる保証はない。
それでも、操縦席へ身体を滑り込ませた。
振り返ることはしなかった。
狭い空間が外気を遮る、計器に目を落とす。
針はすべて、規定内に収まっていた。
スターターに手をかける、一瞬の間。
キュル......
一瞬の静寂。
ボッ!
次の瞬間、
ドドドドドド......
やがて重低音が館山湾に響き渡る。
ゴオォォォォォ......
次の瞬間、プロペラが回り、爆ぜるような振動が機体を伝った。
エンジンの唸りが立ち上がる、回転を上げる。
振動は荒い、だが、崩れない。
「 ......回るな 」
整備兵との別れ際に、
「 帰ってきてください。中尉 」
整備兵がぽつりと言う。
俺は振り返らず、
「 努力する 」
それだけ答える。
スロットルを絞り、前を見る。
水面に滑走路はない、ただの湾だ。
ゆっくりと前へ出す、フロートが水を切り、白い筋を引く。
やがて速度が乗る。
波の抵抗が軽くなり、機体が浮き上がる気配が伝わってきた。
そのまま、引く。
強風は、重さを抱えたまま水面を離れた。
上空は思ったよりも穏やかだった。
機体の振動は、地上で感じたほど悪くない。
軽く旋回を入れる。応答は鈍いが、破綻はしない。
「 館山、こちら○二、上昇完了」
無線に声を乗せる。わずかなノイズの後、応答が返る。
「 ○二、館山。状態報告せよ 」
「 大きな異常なし。回転、規定内 」
短く答える、機体はまだ完璧ではない。だが、"飛べる"。
それで十分だった。数秒の沈黙、次の指示を待つ。
ーーその時だった。ノイズが一度、大きく跳ねる。
別の声が、割り込んできた。
【 ......房総沖......敵機動部隊...... 】
途切れる、すぐに別の断片が続く。
【 .......各隊......迎撃機、不足...... 】
一瞬、無線が静まり返る。俺は、わずかに眉を寄せた。
「 ......近いな 」
視線が、自然と南へ向く。水平線の先、ここからでは、何も見えない。
だが、距離はそう遠くない。再び無線が入る、今度は館山からだった。
【 帰投せよ。試験飛行を終了せよ 】
当然の命令。俺は一瞬だけ、視線を計器に落とした。
針は規定内に収まっている。飛べる、問題はない。
南は、近い。応答しかけた指が、わずかに止まる。
・・・戻るべきだ。
頭のどこかが、その判断をなぞる。
だが、操縦桿を握る手は離れない。
「 ......了解 」
言葉になりかけた声は、そこで途切れた。
スロットルに置いた手に、力が入る。
機体は飛んでいる。操縦桿を倒す、機体が静かに傾く。
振り返れば、館山湾の向こうに洲崎灯台が霞んで見えた。
だが、機首を南へ向けると、その先には敵機のいる空が広がっていた。
計器が変わる、南へ・・・
高度を落とす、海面が近づく、波頭が白く崩れていた。
音が聞こえた、乾いた連続音。
機銃掃射、前方、低空に影。
一機、さらに奥にもう一機。
編隊は崩れ、ばらけている。
地表へ向けて機種を下げている、そのうちの一機に視線を固定する。
外れた位置、単独。
「 ......あれだ 」
距離を詰める、敵機が機種を下げる。
その瞬間・・・
引き金に指をかける、敵機が動いた。
機種が止まり、翼が鋭く傾く。
・・・見た。
回避機動、遅れて後方銃座が振れる。
もう隠せない、引き金を絞る。
衝撃が腕を叩く、だが、弾はわずかに逸れる。
敵機が旋回した、幅の広い主翼、丸みを帯びた機首。
・・・ヘルキャット
【 補足・グラマンF6Fヘルキャットは、第二次世界大戦後期にアメリカ海軍の主力艦上戦闘機として活躍した機体です。強力な2000馬力エンジンと優れた防弾性能を誇り、零戦をはじめとする日本軍機と戦い、高い撃墜スコアを記録しました 】
主なスペック ( 代表的な量産型 F6F-5 )
乗員・1名
全長・10.24m
全幅・13.06m ( 主翼折りたたみ時は4.42m )
全高・3.99m
エンジン・プラット・アンド・ホイットニー R2800-10W「 ダブル・ワスプ 」( 空冷星型18気筒 )
出力・2.000hp ( 水噴射時は2.200hp )
最大速度・605km/h ( 高度5.500m )
巡航速度・270km/h
航続距離・1520km ( 外部燃料タンク非装着時 )
実用上昇限度・11.400m
武装・12.77mmブローニングM2機関銃×6門
最大907kg ( 2.000ポンド ) の爆弾
127mm ( 5インチ ) ロケット弾×6発
非常に頑丈で「 空飛ぶ戦車 」と称されるほどの防弾装甲や防弾ガラスを備えており、搭乗員の生存性を大幅に高めた点が大きな特徴です。
敵は沈み込み、旋回に入る。
「 浅い...... 」
操縦桿を引く、重い、だが、崩れない。
敵機は上昇する、上を取る気だ。
俺は追う、スロットルを押し込む。
加速は一拍遅れる、だが、一度乗れば落ちない。
速度が伸びる。敵がロールし、太陽を背負う、視界が焼ける。
・・・来る。
機体を滑らせる、何かが脇を抜ける。
遅れて、空気が裂ける。さらに遅れて衝撃、被弾。
「 まだ、飛ぶ 」
旋回を維持する、無理に追わない。
内側へ食い込む、距離が縮まる。
敵の動きが、わずかに乱れる。
・・・その瞬間。
【 上に味方機......機種不明 】
一拍遅れて、別の声が割り込む。
【 構うな、前を見ろ 】
キャノピーの向こうで、敵パイロットの視線が上へ流れる。
【 補足・キャノピー キャノピーとは、パイロットが搭乗する操縦席を覆う透明なドーム状のカバー(風防)のことです。外気や風圧、悪天候からパイロットを守りつつ、360度の良好な視界を確保する重要な役割を果たしています 】
何かを見ている。低い、形が違う。
翼の下にーー影。フロート、一瞬、認識が遅れる。
水上機、こんな場所で、頭のどこかで、名前だけが浮かぶ。
・・・Rex。
あり得ない、ヘルキャットの操縦席で、その判断は一瞬遅れたとパイロットは感じているだろう。
その一拍の迷い、俺はその綻びを見逃さなかった。
機首を差し込む、照準に収まる。
引き金を絞る、重い衝撃が連続する。
一発ごとの重さが、機体に返る。
曳光弾が吸い込まれる。
【 補足・曳光弾 ( えいこうだん、英語 : tracer ammunition ) とは、発光剤を詰めることで、弾丸が飛ぶ軌跡を肉眼で確認できるようにした特殊な弾丸です。射手が自分の撃った弾の着弾位置を修正したり、周囲の味方に目標の位置を知らせたりする目的で使用されます 】
一瞬、変化はない。
次の瞬間・・・
敵機の右翼から黒煙、火が走る、機体が揺れる。
崩れる、俺は撃つのをやめた。
敵機、ヘルキャットは海面に突き刺さった。
ドォンッ。
白い飛沫だけが高く舞い上がり、やがて静かな海へ消えていった。
そして鈍い衝撃が遅れて届く、それだけだった。
「 ......終わりか 」
帰投する。
水温は限界に近い、湾が見える。
機体の振動が変わる。芯を外した揺れ、高度を落とす。
接水、衝撃、水が広がる。
フロートが機体を引き戻す、跳ねる。
もう一度、やがて収まる。
エンジンを止める、静寂、キャノピーを開ける。
冷たい空気、整備兵たちが近づいてくる。
小舟、無言のまま移る。
やがて整備兵が言う。
「 ......どうでした 」
俺は一度だけ振り返る、何もない海。
「 飛ぶな 」
整備兵は頷く、岸に上がる。
水上戦闘機・強風が浮かんでいる、何事もなかったように。
「 水温、上がりやすい 」
「 ああ 」
それで終わる。遠くで別のエンジン音、まだ戦いは続いている。
だが・・・
俺、雨傘完爾は、戻ってきた。
あの空に入れた一撃の意味は分からない、確かめる術もない。
ただ、戻ってきてしまった。
それだけが残った・・・
【 終わり 】
本作は、1945年2月16日のジャンポリー作戦で「 強風が一機撃墜を報告した 」という記録をもとに、その無名の搭乗員を創作したフィクションである。




