「配牌が国士無双13面待ちなんて勝ち確じゃん!」--そう思っていた時期が私にもありました。全話一気読み版
第1章「アヤ:爪先の鎧と、蜘蛛の糸」
安アパートの天井には、いつも同じシミがある。 雨漏りの跡なのか、カビなのか、あるいはもっと別の何かなのか。昼下がりの淀んだ空気の中、アヤは虚無の瞳で、見飽きた天井のシミの数を数えていた。
昨夜もキャバクラで浴びるように飲まされた酒が、鉛のように胃を荒らしている。ベッドから起き上がる気力もなく、アヤは毛玉だらけのタオルケットを引き寄せ、派手なジェルネイルで彩られた自分の指先を見つめた。 赤とゴールドの、鋭く尖った爪。 それは、夜の街で「ただの金蔓」になり果てないための、せめてもの鎧だった。
「……あと、四千五百万か」
乾いた唇から漏れた呟きは、部屋の冷たい空気に吸い込まれて消えた。
2年前。彼女はまだ「アヤ」ではなく、地方から上京してきたばかりの、平凡な派遣社員だった。 贅沢はできないが、小さなアパートで慎ましく暮らす日々に不満はなかった。あの男――タクミに出会うまでは。
タクミは、アヤの派遣先のIT企業に出入りしていたフリーランスのエンジニアだった。 人懐っこい笑顔と、少し強引な優しさ。東京という街で孤独だった彼女にとって、タクミの存在はあっという間に心の隙間を埋めていった。 「俺、いつか自分の会社を立ち上げたいんだ。誰もが驚くようなサービスを作ってさ」 安居酒屋で熱っぽく夢を語る彼を、アヤは眩しいものを見るような目で見つめていた。私には何もないけれど、彼の夢を支えることならできるかもしれない。それが、いつしかアヤ自身の生きがいになっていた。
出会って半年が経った頃、タクミは言った。 「起業の資金融資の審査が通ったんだ。でも、一つだけ問題があって……連帯保証人が必要なんだ」 彼は申し訳なさそうに眉を下げ、アヤの手を強く握った。 「親には縁を切られてるし、頼めるのはお前しかいない。これが成功したら、結婚しよう。絶対に幸せにするから」 その言葉に、アヤの胸は熱くなった。自分が彼にとっての「特別」なのだと確信した。渡された書類の『極度額:5000万円』という恐ろしい数字も、彼への愛と信頼の前では、ただのインクの染みにしか見えなかった。
それが、地獄への片道切符だとも知らずに。
書類にサインをしてから3ヶ月後。タクミは忽然と姿を消した。 電話は繋がらず、彼のマンションはもぬけの殻だった。パニックになるアヤのアパートにやってきたのは、警察でもタクミでもなく、安物のスーツを着た目の笑っていない男たちだった。
「タクミくん、飛んじゃったみたいなんだよね。で、あんたが連帯保証人ってわけ。わかるでしょ?」 土足で上がり込んできた男が、アヤの顔にあの契約書のコピーを突きつけた。 「利息も合わせて五千数百万。派遣の給料じゃ、一生かかっても無理だよねえ。でも安心して、俺たちが『いい仕事』紹介してあげるから」
逃げる権利などなかった。 借金の債権者であり、裏社会に通じる「事務所のオーナー」に身柄を移された彼女は、その日から『アヤ』という源氏名を与えられ、オーナーが息のかかった違法スレスレの高級キャバクラで働かされることになった。 毎晩のように横柄な客に愛想笑いを浮かべ、無理やり強い酒を煽り、心無い言葉や屈辱を浴びせられる日々。稼いだ金のほとんどは、理不尽な高金利の返済へと消えていく。
最初のうちは毎晩、店の更衣室で泣き崩れ、タクミを恨み、自分の愚かさを呪った。だが、地獄のようだった疲労も屈辱も、半年も経てば麻痺していく。 人間は、心が完全に壊れてしまう前に「感情のスイッチを切る」という防衛本能を持っているのだと、アヤは身をもって知った。
ただ借金の利息を返すためだけに、穴の開いたバケツで水を汲み続けるような日々。 そんなある日、アヤは事務所のオーナーに呼び出された。 革張りのソファで葉巻をくゆらせるオーナーは、アヤの無表情な顔を見てニヤリと笑った。
「お前、よく稼いでくれてるけどよ。このままだと完済する前に身体を壊しちまうぞ。……どうだ、一つ『ゲーム』に参加してみないか?」 「……ゲーム?」 「ああ。今夜、俺の仲間内のVIPルームで特別な麻雀の卓が立つ。4人の女が参加する余興だ。そこでトップを取れたら、お前の借金、俺が全部チャラにしてやるよ」
アヤの心臓が、久しぶりに大きく脈打った。 「チャラ……全部、ですか」 「ああ、約束する。ただし、負ければ……お前の人生は一生、俺たちの『奴隷』として、日の当たらない裏カジノの地下労働に引きずり込んでやる。まあ、どっちに転んでも俺は損しないからな」
悪趣味なデスゲーム。 金持ち連中が、絶望した女たちが潰し合う様を酒の肴にしたいだけなのだ。 麻雀のルールは知っている。タクミと付き合っていた頃、彼の友人たちと卓を囲んだ程度の知識だ。勝てる保証などどこにもない。
だが、アヤは震える手で、赤とゴールドのネイルを強く握りしめた。 (一生、こんな底辺で他人の借金のためにすり減って終わるくらいなら――!)
「……やります」
アヤの声には、数年ぶりに『彼女自身の意志』が宿っていた。 オーナーは満足げに笑い、彼女に黒いレースのドレスを投げ渡した。「綺麗に着飾ってこいよ。見世物なんだからな」と。
――そして現在。 地下深くのコンクリートに囲まれた無機質な部屋。 アヤは、黒いドレスに身を包み「南家」の席に座っていた。 目の前の卓がゆっくりとせり上がり、13枚の牌が配られる。監視カメラの向こうで、自分を虫ケラのように見下ろしているであろう男たちの視線を感じる。
(私は、負けない。こんな理不尽な世界から、絶対にお金をむしり取って這い上がってやる……!)
アヤは静かに息を吸い込み、配牌を理牌した。 そして、自分の手牌に並んだ『異常な配列』を見た瞬間、彼女の目は見開かれた。
萬子、筒子、索子の端牌、そして東南西北白發中の字牌。 ――国士無双、13面待ち。
地獄の底から垂れ下がった、たった一本の純白の蜘蛛の糸を、アヤの赤い爪が強く握りしめた。
第2章「ルリ:籠の鳥と、絶望の箱庭」
ルリの16年の人生は、美しく設えられた鳥籠の中で完結していた。 歴史ある名家に生まれ、愛情深い父の下で、ルリは純粋培養の花のように育てられた。外の世界の汚れを知らず、いつか素敵な殿方と結ばれ、穏やかな家庭を築くのだと無邪気に信じていた。
その幻想が打ち砕かれたのは、16歳の誕生日を迎えてすぐのことだった。
「ルリ……本当に、すまない……!」 書斎で、いつも威厳のあった父が涙を流して頭を下げた。相手は、冷酷な乗っ取り屋として悪名高い51歳の投資家。ライバル会社の卑劣な罠にはめられ、一族の事業が巨額の負債を抱えて破綻寸前に追い込まれたのだという。借金のカタとして、その投資家が突きつけてきた唯一の条件が、美しく育ったルリとの政略結婚だった。
親子ほど……いや、父親よりもさらに年上の男。白髪混じりの頭、たるんだ頬、そしてルリを「極上のコレクション」としてしか見ていない、ギラギラとした欲望にまみれた目。
「お父様が謝ることではありませんわ」 父の涙を見たルリは、家と、そこで働く多くの人々を救うため、自らその生贄になることを受け入れた。
しかし、結婚式当日。ウェディングドレスに身を包み、控室に一人でいたルリの元へ、その男が下卑た笑みを浮かべてやってきた。 「いやぁ、美しい。今日から君は、私の可愛い『所有物』だ。私の言うことには絶対服従してもらうよ。家が潰れたくなければね」 まるでモノを品定めするように全身を舐め回す視線。その瞬間、ルリの中で無理やり押し殺していた恐怖と嫌悪感が限界を突破した。
(こんな男の所有物になるくらいなら……!)
ルリは無我夢中で控室を飛び出し、重いドレスの裾を引きずりながら、式場の廊下を駆け抜けた。 向かった先は、吹き抜けになった高層階のバルコニー。
「いやっ! こっちに来ないで……!」 追ってきた黒服の部下たちを前に、ルリはバルコニーの柵に足をかけた。絶望の鳥籠に閉じ込められるくらいなら、このまま空へ落ちた方がマシだ。 しかし、身を投げ出そうとした瞬間、黒服の大男たちにあっさりと両腕を捕縛され、乱暴に安全な床へ引きずり戻されてしまった。自ら命を絶つ自由すら、彼女には与えられていなかったのだ。
恐怖と絶望で顔を歪め、ボロボロと涙をこぼすルリを見下ろし、追いついた男は加虐心を刺激されたように喉の奥で笑った。
「死んで逃げようとするとは、とんだじゃじゃ馬だ。……いいだろう。ただ力で押さえつけるだけじゃ面白くない。お前のその生意気な命、ゲームのチップにしてやる」
男はルリを冷酷に見下ろした。
「今夜、俺の知人たちが集まる麻雀の卓がある。4人の女が潰し合う見世物だ。この勝負でトップを取れたら、お前の勝ちだ。結婚は白紙に戻し、お前の家の借金も帳消しにしてやろう。だが負ければ……」
男の目が、蛇のように細められた。
「一生、日の当たらない地下室で、俺の奴隷として生きてもらう」
――そして現在。 地下深くの無機質なコンクリートの部屋。ルリは与えられた紺色のワンピース(チャイナボタンのついた、古風で窮屈な服だ)に身を包み、「西家」の席で膝を震わせていた。
対面には、どこか冷めた目をした知的な女性。右隣には、派手なネイルをした水商売風の女性。左隣には、今にも泣き出しそうな少女。 麻雀のルールは、教養の一つとして家庭教師から教わったことがあった。だが、こんな極限状態でまともな思考ができるはずもない。
(どうせ、あの男の掌の上で弄ばれているだけ……私はここで、一生を終えるんだわ)
しかし、配牌を理牌したルリの目に飛び込んできたのは、見たこともない光景だった。 一九字牌が、一枚の被りもなく綺麗に13種類。 『国士無双13面待ち』。
神の悪戯か、それとも悪魔の罠か。 ルリの真っ黒に塗りつぶされていた瞳の奥に、小さな、しかし決して消えない反逆の炎が灯った。
第3章「シオリ:正義の代償と、起家の覚悟」
「教師」という職業は、もっと尊く、希望に満ちたものだと思っていた。 だが、赴任してわずか数ヶ月で、23歳のシオリの理想は無惨に打ち砕かれていた。
黒板には、チョークで書き殴られた『死ね』『キモい』『さっさと辞めろ』というおぞましい文字の群れ。シオリのデスクの上には、今日もコンビニの生ゴミがぶちまけられ、異臭を放っていた。 歴史ある名門女子校。外から見れば清楚で華やかなその学び舎は、一人の生徒――理事長の娘を頂点とした、陰湿で残酷なカースト制度に支配された地獄だった。
始まりは、クラスで孤立していた一人の生徒をシオリが庇ったことだった。 「こんなことは間違っている」と、主犯格である理事長の娘を正面から叱責した。それが引き金だった。ターゲットにされていた生徒は転校という形で逃げ出し、代わりにシオリが、学園中の悪意を一身に受ける避雷針となったのだ。 同僚の教師たちは皆、自分の保身のために目を逸らした。すれ違いざまに聞こえる生徒たちの嘲笑。精神を削り取るような日々の嫌がらせ。
そして昨日、決定的な事件が起きた。 階段を降りようとしたシオリの背中を、何者かが強く突き飛ばしたのだ。 間一髪で手すりを掴み、数段滑り落ちただけで済んだが、もし打ち所が悪ければ命を落としていたかもしれない。顔を上げると、階段の上から理事長の娘とその取り巻きたちが、クスクスと笑いながら見下ろしていた。
(……これはもう、教育の範疇じゃない。犯罪だ)
恐怖よりも、激しい怒りがシオリを突き動かした。 その足で理事長室の重厚な扉を叩き、シオリは真っ直ぐに理事長を睨みつけた。娘の退学処分と、学校の自浄作用を求める直談判。だが、葉巻をくゆらせる初老の理事長は、シオリの必死の訴えを聞いて、腹の底から愉快そうに笑った。
「シオリ先生。君は真面目で、本当に教育熱心だ。だがね、世の中には『権力』というどうしようもない壁がある。私の学園で、私の娘を罰することなど誰にもできんのだよ」
理事長の傲慢な顔に、シオリはギリッと奥歯を噛み締めた。
「……権力があれば、人の命を脅かしても許されると?」
「そうだとも。だが……君がそこまで言うのなら、一つチャンスをやろう」
理事長は葉巻を灰皿に押し付け、目を細めた。
「今夜、私の友人たちが集まるプライベートな麻雀対戦がある。君もそこへ参加したまえ。そこで君が見事トップを取れたなら、約束しよう。娘を退学処分にし、いっそこの学園の理事長の座を君に譲ってやる」
「……ゲーム?」
「ああ。だが負ければ、君には『それ相応の負債』を背負って、裏社会の底辺で一生を終えてもらうことになるがね」
正気の沙汰ではない。大人の、しかも権力者たちが余興として楽しむための見世物だ。 だが、シオリに迷いはなかった。ここで逃げれば、また次の犠牲者が出る。私が、この理不尽な連鎖を断ち切らなければならない。
「……分かりました。その条件、お受けします」
――そして現在。 地下深くの無機質なコンクリートの部屋。 シオリは、自分の意志で「東家(起家)」の席に座っていた。 対面にはどこか虚ろな目をした古風な服の少女。右隣には、どこか諦観したような目をした黒いドレスの女性。左隣には怯えきった様子の若い娘。
(この人たちも……)
シオリは静かに3人を観察し、胸を痛めた。彼女たちの瞳の奥にある怯えは、学園でいじめられ、去っていった生徒たちの目と全く同じだった。 監視カメラの向こうにいる「権力者」たちに理判尽に虐げられ、ここに座らされているのだと、直感で理解できた。
(勝たなければ。私が勝って、あいつらから全てを奪い取る……!)
強い決意と共に、自動卓からせり上がった13枚の牌を引き寄せる。 起家であるシオリの手牌。それを理牌した瞬間、シオリの思考はピタリと停止した。
一、九、東、南、西、北、白、發、中……。 見間違いではない。13種類の么九牌が、1枚の重なりもなく整然と並んでいる。 麻雀というゲームにおいて、天文学的な確率でしか起こり得ない絶対的な配牌。
『国士無双13面待ち』。
第一ツモでどの么九牌を引こうと、ダブル役満が確定する魔法の剣。 数学教師であるシオリの脳裏に、これが意味する恐ろしい確率と、微かな違和感がよぎる。 だがその時、彼女はまだ知る由もなかった。
この完璧すぎる手牌が、権力者たちが用意した「悪意の処刑装置」の引き金であることに。
第4章「マナ:虚飾の夢と、背水の陣」
テレビの中で歌って踊るアイドルは、いつもキラキラと笑っていた。 だからマナも、東京に行けばあんな風に輝けるのだと本気で信じていた。自分の若さと笑顔だけを武器に、何者かになれるのだと。
「絶対にテレビに出て、お父さんとお母さんを安心させるから!」
1年前、田舎の小さな無人駅。反対する両親の声を背中で振り切り、マナは逃げるように上京行きの電車に乗った。見送りに来てくれた地元の友人たちには、「大きな事務所にスカウトされた」と誇らしげに語っていた。
だが、東京という街は、無知な少女の純粋な夢を喰い物にする巨大な怪物だった。
マナが所属した「芸能プロダクション」は、看板だけの悪徳事務所だった。 ボイストレーニングもダンスレッスンも一切ない。与えられる仕事といえば、薄暗い雑居ビルでの露出の激しい水着撮影会か、社長が連れてくる初老の「スポンサー」たちとの飲み会だけだった。
『これも顔を売るための大事な営業だ。期待してるぞ、マナ』
社長の甘言に乗せられ、安い居酒屋でお酌をし、太ももを撫で回される日々。マナは愛想笑いを浮かべながら、心が少しずつすり減っていくのを感じていた。
そして決定的な出来事が起きた。ある夜、接待の席で泥酔したスポンサーから、ホテルへ行くよう強要されたのだ。 恐怖で泣きながら逃げ帰った翌日、事務所の社長は人が変わったようにマナを怒鳴りつけた。
「お前、自分の立場わかってんのか! あのお方がどれだけ金を出してくれてると思ってんだ! 機嫌を損ねた違約金、どうやって払うつもりだ!」
突きつけられたのは、到底支払えるはずもない額の「損害賠償請求書」。 マナはアパートを追い出され、キャリーケース一つで東京の冷たいアスファルトに放り出された。 スマホの連絡帳を開いても、頼れる人間は誰もいない。親には「絶対に成功するまで帰らない」と大見得を切ってしまった。今の惨めな自分を見せるくらいなら、死んだほうがマシだった。
「……もう、どうしたらいいの……」
深夜の高架下。マナはボロボロになったピンク色のフリルドレスの裾を握りしめ、冷たいコンクリートにうずくまって泣き崩れた。キラキラ輝いていたはずのハート型のネイルは、いくつか剥がれ落ちて無惨な姿になっていた。 いよいよホームレスになるしかない。そう絶望の底に沈んでいたマナの前に、一台の黒い高級車が停まった。
降りてきたのは、マナを地獄に突き落とした事務所の社長だった。
「こんなところで野宿か? 哀れだな、マナ」
社長は冷たい目で見下ろしながら、タバコに火をつけた。
「だが、お前は運がいい。俺の太客が『面白い余興』を求めててな。今夜、特別な麻雀の卓が立つ。そこでお前が勝てば……違約金はチャラ。さらに、メジャーレーベルからの歌手デビューと、超有名監督の映画主演を確約してやる」
マナは弾かれたように顔を上げた。 メジャーデビュー。映画主演。それは、マナが夢見ていた輝かしい未来そのものだった。
「……負けたら、どうなるんですか?」
震える声で尋ねると、社長はニヤリと笑ってマナの顎を靴の爪先で持ち上げた。
「俺の知り合いの、海外の『特別な撮影所』に送る。まあ、生きて日本の土は踏めないだろうな」
選択肢などなかった。 ここで断れば、ただ東京の闇に飲まれて消えるだけ。ならば、悪魔との契約に縋ってでも、マナは「本物のアイドル」になりたかった。
――そして現在。 地下深くの無機質なコンクリートの部屋。 マナは「北家」の席に座り、ガタガタと震える手を必死に押さえつけていた。 正面に座るドレスの女性も、右隣の凛とした女性も、左隣の古風な服を着た、どこか虚ろな目の少女も、皆どこか普通ではない空気を纏っている。全員が、人生の崖っぷちに立たされているのだと肌で感じた。
(怖い……。でも、勝つしかない。勝って、お父さんとお母さんに私のステージを見せるんだ……!)
祈るような気持ちで、マナは配牌を理牌した。 麻雀は、上京する前に地元のゲームセンターで少し遊んだことがある程度だ。役の作り方も怪しい。 だが、そんな初心者であるマナの目にも、自分の手牌が「異常な状態」であることは一瞬で理解できた。
萬子、筒子、索子の1と9、そして東、南、西、北、白、發、中。 端っこの牌と字牌が、一枚ずつ綺麗に並んでいる。足りないものは何一つない。 ただ一枚、どれでもいいから同じ牌を引くだけで完成する、最強の役満。
『国士無双13面待ち』。
(嘘……私、勝てる……! デビューできる!!)
絶望の淵に立たされた少女の手に舞い降りた、奇跡の配牌。 マナは、それが自分たちを嘲笑うために用意された「呪いの手牌」だとは夢にも思わず、ただ希望の光を見つめ、ごくりと唾を飲み込んだ。
第5章「対局開始:盤上のメキシカン・スタンドオフ」
「それでは、ゲームを始めようか」
天井に設置されたスピーカーから、ノイズ混じりのくぐもった男の声が響いた。 続いて、冷酷な『絶対のルール』が読み上げられる。
『ルールは極めてシンプルだ。ゲームは東風戦を一回。誰かがアガリを宣言した時点で即終了となる。勝者はただ一人。その者の『すべて』の望みを叶えよう。……ただし、誰もアガれずに流局(引き分け)となった場合、お前たちは全員敗者となり、永遠に地獄を這いずることになる』
それを合図に、部屋の中央に鎮座する全自動麻雀卓が、低く重たいモーター音を立てて稼働を始める。中央のサイコロが跳ね、四人の前にそれぞれ二段に積まれた牌の山――壁牌がせり上がった。
東家(起家)はシオリ。南家はアヤ。西家はルリ。北家はマナ。
四人の女たちは、震える手で自らの配牌を理牌し――そして、全員が息を呑んだ。
(……信じられない。こんな確率、あり得るはずがない) シオリは、自分の手牌に整然と並んだ十三種類の么九牌(一九字牌)を見つめ、冷静なはずの思考がショートするのを感じていた。 『国士無双13面待ち』。 第一ツモで么九牌の何を引こうと、あるいは誰が捨てようと、その瞬間にアガリとなる絶対無敵の配牌。教師である彼女の数学的知識が、これが天文学的な奇跡であることを告げている。
(勝てる。この勝負に勝って、あの学園から悪意を根絶やしにする……!)
「私の、ツモ」
シオリの静かな声が、コンクリートの部屋に響いた。 右手を伸ばし、山の端から第一ツモを引き寄せる。指先に触れた感触で、それが字牌ではないと分かった。 引いてきたのは『四索』。 シオリは小さく息を吐き、そのまま四索を河に捨てた。
続く南家、アヤのツモ。 (ここで終わらせる。私の借金も、あの底辺の生活も!) アヤは派手なネイルの指で牌を引く。しかし、引いてきたのは『七萬』。彼女は舌打ちを堪え、それをツモ切りした。
西家、ルリのツモ。 (お父様……私、自分の力で自由を勝ち取ります……っ) 祈るように両手を胸元で握り締めながら引いた牌は『三筒』。ツモ切り。
北家、マナのツモ。 (これで映画に……テレビに出られるんだ……!) すがるように引いた牌は『六索』。ツモ切り。
全員が第一巡目を終え、卓の中央には中張牌(数牌の2〜8)が四枚転がった。
「くくっ……ひはははは!」
別室のモニターの前では、ワイングラスを手にした主催者の男たちが、腹を抱えて笑い転げていた。
「見ろよあの女たちの顔! 全員、自分が圧倒的に有利だと思ってやがる!」
「当たり前だ、配牌で国士13面待ちなんてテンパイが入っていれば、誰だって『もらった』と思うさ。……自分が、絶対にアガれない呪いにかかっているとも知らずにな」
男たちは、画面越しの無知な獲物たちをねぶるように見つめ、下劣な笑い声を響かせた。
卓上の異変は、三巡目を過ぎたあたりから徐々に輪郭を持ち始めた。
シオリのツモは『二筒』。アヤのツモは『五萬』。ルリのツモは『八索』。マナのツモは『三萬』。 五巡目。 六巡目。 七巡目。
部屋の中には、牌を引いては捨てる乾いた音と、全自動卓の微かな駆動音だけが響いている。 誰も、ポンやチーといった鳴きの声を上げない。 そして何より――四人の河には、ただの一枚も『端牌』や『字牌』が捨てられていなかった。
(……おかしい)
八巡目のツモ『四萬』を捨てながら、数学教師であるシオリの背筋に、冷たい汗が伝った。 麻雀において、序盤に不要な字牌や端牌が捨てられるのは定石中の定石だ。しかし、この卓では2〜8の数字しか場に出ていない。まるで、四人全員が極端なチャンタ(端牌と字牌を絡めた役)や国士無双を狙っているかのような、あまりにも不自然な捨て牌の偏り。
シオリの鋭い視線が、他の三人の顔をなめるように動く。 アヤは苛立ちを隠せない様子で貧乏ゆすりを始めている。ルリは顔面を蒼白にし、マナは泣き出しそうな顔で自分の手牌と山を交互に見つめている。 彼女たちの目は、間違いなく『たった一枚のアガリ牌』を血眼になって探す、テンパイ者の目だった。
(全員が、テンパイしている? だから誰も手牌の端牌を崩さない?)
シオリの脳内で、恐るべき計算式が組み上がっていく。 麻雀牌は全部で136枚。そのうち、国士無双に必要な么九牌(一九字牌)は13種類×4枚で、合計『52枚』。
(もし……もし、この三人も、私と同じ手牌だとしたら……?)
シオリの思考が、一つの残酷な真実に到達した。 配牌の時点で、一人あたり13枚。それが四人。 13枚×4人 = 52枚。
――このゲームが始まった瞬間、世界に存在する52枚の么九牌は、すべて四人の手牌の中に吸収されている。
(山の中に、アガリ牌なんて一枚も残っていない……っ!)
シオリは愕然とし、卓の中央にある王牌(ドラ表示牌の山)を見つめた。 今、自分たちが必死に引いているあの山は、2から8の数字しか入っていない『死の山』なのだ。どんなに祈っても、誰一人として永遠にアガることはできない。
では、どうなるのか。 誰もアガれず、山が尽きれば「流局」となる。 冒頭で告げられたルール。勝者なしの引き分けは、つまり「全員の敗北」を意味する。このままツモ切りを続ければ、四人全員が元の地獄へ引きずり戻されるのだ。
ならば、待ちを変えるか? 自分が助かるために、手牌の中にある『白』や『一萬』などの么九牌を捨て、別の役を狙うのか?
(……だめだ。それをやれば、死ぬ)
シオリは自分の手牌にある純白の『白』を見つめ、絶望に唇を噛んだ。 もし今、自分がこの手牌から么九牌を一枚でも場に捨てたら。 その瞬間、同じく国士無双13面待ちで張っている他の三人全員から「ロン」の声がかかる。 ダブル役満のトリプルロン。致死量の点数を奪われ、たった一人で億単位の負債を背負わされ、見せしめとして社会の裏側に沈められる。
(これはゲームじゃない。最初から誰も助からないように作られた、悪意の処刑装置だ)
自分が助かるために手牌を崩せば、三人から喰い殺される。 かといってこのまま沈黙を保てば、四人全員が地獄へ戻される。 互いに銃口を突きつけ合い、誰かが引き金を引く(牌を捨てる)のを待つだけの、盤上のメキシカン・スタンドオフ。
十一巡目。 「ねえ……あんたたち、まさか……」 ついにアヤが異変に気づき、震える声で顔を上げた。ルリも、マナも、シオリの顔を絶望的な目で見つめ返している。
彼女たちも気づいたのだ。 自分たちが今、決して出ることのない幻の牌を待ちながら、地獄の釜の底で踊らされているだけだということに。
監視カメラの赤いランプが、四人の絶望をせせら笑うかのように、無機質に点滅を続けていた。
第6章「裏側:悪趣味な観劇者たち」
コンクリートむき出しの地下室からエレベーターで五階層上がった先にある、最上階のVIPルーム。 そこは、下の階の冷え切った空気とは無縁の、豪奢で退廃的な空間だった。 床には毛足の長いペルシャ絨毯が敷き詰められ、キューバ産の最高級葉巻の煙と、一本数十万円は下らないヴィンテージワインの芳醇な香りが入り混じっている。
部屋の壁一面を占める巨大なマルチモニターには、地下室で麻雀卓を囲む四人の女たちの顔が、様々なアングルから鮮明に映し出されていた。
「ひははは! 見ろよ、あの生意気な教師の顔! どうやら自分の置かれた状況に気づいたらしいぞ」
本革のソファに深く腰掛け、ワイングラスを揺らしながら嘲笑したのは、シオリをこの場に送り込んだ名門女子校の理事長だった。普段の教育者としての威厳ある仮面は完全に剥がれ落ち、下劣な本性が顔に張り付いている。
「いやぁ、最高ですね。特注でプログラムを組ませた『イカサマ全自動卓』、数千万かかりましたが、この絶望の顔を見られるなら安いもんです」
そう言って下卑た笑いを漏らしたのは、マナを騙した悪徳芸能プロダクションの社長だ。 今回のデスゲームは、彼らがこの日のために用意した極上の見世物だった。全自動麻雀卓の内部プログラムをハッキングし、配牌の時点で四人全員に『国士無双13面待ち』が配られるよう、あらかじめ牌の並びが完全に操作されていたのだ。
「配牌の時点で、52枚の么九牌はすべて手牌の中。山には中張牌しか残っていない。絶対にアガれないし、一枚でも手牌を崩せば他の三人からトリプルロンで喰い殺される……。まさに完璧な『毒の箱庭』だな」
アヤを借金漬けにしている事務所のオーナーが、葉巻の煙をゆっくりと吐き出しながら同意した。
「さて、誰が最初に狂うかな。俺はあの元アイドルか、アヤが耐えきれずに発狂して手牌を崩す方に賭けるぜ。もし誰かが当たり牌を打ち出せば、トリプルロンで放銃した女は莫大な点数を一人で被る。一生かけてもしゃぶり尽くせる特大の負債だ」
「……おい、待てよ」
ふと、芸能プロダクションの社長が、グラスのワインを揺らしながら疑問を口にした。
「トリプルロンになったら、残りの三人が同点でトップになるってことだろ? もしあの女たちの誰かが、自暴自棄になってわざと当たり牌を打ち出したらどうなる? トップになった三人は『すべての望み』を叶える権利を得ちまう。俺たちにとって致命的なダメージになるんじゃないか?」
その言葉に、ルリの『夫』である51歳の投資家が、鼻で冷たく嗤った。
「あり得ませんね」
「ほう?」
「人間の本質は『極限の自己愛』です。自分が確実に地獄へ落ちると分かっていて、見ず知らずの他人のために泥を被るような聖人など、この世に存在しません。誰もが自分が助かりたい、自分だけは無傷でいたいと願っている。だからこそ、自分が死ぬと分かっている牌など絶対に切れないのです」
「……違いねえ」
アヤのオーナーが下品に笑い声を上げた。
「結局、人間なんて自分が一番大事なんだよ。あの教師だってそうだろ? 偉そうなこと言ってても、いざ自分の身が危なくなったら貝みたいに黙り込んでやがる」
「ええ。ですから私は、流局(引き分け)に賭けましょう」
投資家はモニターに映るルリの青ざめた顔を、蛇が獲物を狙うようなねっとりとした目で見つめていた。
「誰も他人のために身を切ることができず、疑心暗鬼のまま全員が敗者となってゲームセット。希望を与えられた直後に、再び泥沼へ突き落とされる……その瞬間のルリの顔が楽しみで仕方ない。式場のバルコニーから飛び降りようとしたあの生意気な小娘も、今夜からは地下室のベッドで大人しく私の調教を受けることになるでしょう」
初老の男の歪んだ欲望に、他の三人も同調するように笑い声を上げた。
彼らにとって、女たちは人間ではなかった。 金、権力、暴力。自分たちが持つ絶対的な力を見せつけ、弱者が希望を持ってもがき、最後には絶望に染まって折れる様を鑑賞するための『おもちゃ』でしかなかった。
「あの女の『誰かを救いたい』という青臭い正義感には反吐が出る。学校でいじめられている生徒を助けようとした結果がこれだ。結局、大人のルールに従えない無能は、こうして社会の底辺で潰される運命にあるのだよ」
理事長が、画面の中のシオリの静かな動きを見て嘲笑う。
「まあ見ていましょう。もうすぐ海底……山が尽きます。彼女たちの残酷なショーもいよいよフィナーレだ」
投資家の男が立ち上がり、グラスを高く掲げた。 それに合わせて、他の三人も面白半分にグラスを合わせる。
「「「美しい絶望と、我らの絶対的な勝利に乾杯!」」」
カチン、とクリスタルガラスの澄んだ音がVIPルームに響き渡る。
モニターの中では、いよいよゲームが最終局面に差し掛かっていた。 東家であるシオリの手が、ゆっくりと山へ伸びる。
権力者たちは誰も疑っていなかった。 自分たちが作った盤石なルールの中で、虫ケラたちが反逆の牙を剥くことなどあり得ないと。
「さあ、見せてみろ。お前たちの惨めな結末を」
男たちは極上の笑みを浮かべ、モニターの向こうの処刑台へ、食い入るように身を乗り出した。
第7章「思惑:絶対のルールと盤上の生贄」
張り詰めた糸のような沈黙の中、無意味な中張牌(2〜8の数牌)だけが次々と河に並べられていく。
膠着状態の卓上で、四人の女たちは皆、同じようにゲーム開始直前に告げられた『ルール』を頭の中で反芻していた。
『流局(引き分け)となった場合、全員を敗者とみなす』 そして、最も重要な契約条件。 『――勝った者が『全て』の望みを叶え、敗者は永遠に地獄を這いずる』
この言葉を、四人はそれぞれの解釈で受け取っていた。
アヤは「借金の帳消し」を。
ルリは「政略結婚の白紙撤回」を。
シオリは「理事長親子の追放」を。
マナは「メジャーデビューと映画主演」を。
主催者である男たちは、彼女たちをこの卓に座らせるため、それぞれが一番欲している個別の「餌」を提示していた。だから四人は皆、「自分がアガれば、約束された自分の願いが叶う」と思い込んでいたのだ。
だが、誓約書に記された正式なルールは、ただ一言**『勝った者が全ての望みを叶える』**という、上限のない白紙小切手のような絶対ルールだった。
なぜ、権力者たちはこれほどまでにリスクの大きい、無制限のルールを許容したのか。 答えは簡単だ。彼らは**「絶対に誰も勝てない」と確信していたから**である。
配牌の時点で、四人全員が「国士無双13面待ち」のテンパイ。 麻雀のシステム上、この時点で山の中にはアガリ牌である么九牌(一九字牌)は1枚も残っていない。自力でツモってアガることは、物理的に100%不可能なのだ。
残されたアガリの手段はただ一つ。「誰かが手牌から么九牌を捨てること」のみ。 しかし、それを捨てた瞬間、待っているのは他三人からの『トリプルロン(三家和)』だ。 捨てた者は、ダブル役満3回分というとてつもない失点をたった一人で被り、再起不能の致死量を支払うことになる。
男たちは、人間の「身勝手さ」と「恐怖」を完璧に計算していた。 (誰もが自分が助かりたい。自分が勝って地獄から抜け出したい。だからこそ、自分が確実に死ぬと分かっている牌を、自ら進んで捨てるバカなどこの世に存在しない)と。
誰も当たり牌を出せないまま、ただ無意味な中張牌(2〜8の数牌)を引き、捨てるだけの不毛な時間が過ぎていく。 やがて山が尽き、無情にも「流局」が宣告される。 全員が敗者となり、絶望に泣き叫びながら、再び自分たちの慰みモノとして地下へ引きずり戻されていく。 それこそが、男たちが思い描いた極上のエンディングだった。
「勝者が全ての望みを叶える」という絶対のルールは、決して勝者の出ないこの箱庭において、敗者の絶望をより深くするための『最高に悪趣味なジョーク』でしかなかったのだ。
――だが、権力者たちのその傲慢な「思惑」は、たった一人の女の存在によって、根底から崩れ去ろうとしていた。
12巡目。 東家(起家)であるシオリは、自分の手牌と、三人の河を見つめながら、静かに思考を巡らせていた。
(アヤさん、ルリさん、マナさん……) シオリは、対面と左右に座る三人の顔を見た。 怯え、絶望し、それでも「生きたい」と願う、傷だらけの目。彼女たちは皆、自分と同じように上の部屋にいる男たちの理不尽な暴力に踏みにじられた被害者だ。
(このまま流局すれば、私たちは全員敗者になる。……でも、もし私がここでこの『白』を捨てたら?)
シオリの脳内で、先ほどから皆が反芻しているあの言葉がリフレインする。
――『勝った者が全ての望みを叶える』。
(そうか。あの男たちは、人間が極限状態で『自己犠牲』を選ぶ可能性を、完全に除外しているんだ)
教師として、生徒たちに教えてきたことがある。 ルールというものは、人を縛る鎖にもなるが、正しく使えば人を守る盾にも、悪を討つ剣にもなるのだと。
「勝った者が全ての望みを叶える」。
もしこの言葉が絶対の契約であるならば、それは主催者側にとっての致命的なバグ(抜け穴)になり得る。
(私が親の席で放銃すれば、あの子たち三人は『同点のトップ』になる。勝者となった三人が、あのルールを盾にして『望み』を突きつければ……!)
シオリは小さく息を吸い込んだ。 自分がここで当たり牌を打ち出せば、間違いなく親被りを含めた天文学的な負債を一人で背負うことになる。自分がどうなるかは分からない。最悪の地獄が待っているだろう。 だが、あの学園で、いじめに苦しむ生徒たちを見殺しにしてしまった後悔に比べれば、こんな痛みは取るに足らなかった。
(大人が作った理不尽なルールは、大人が責任を持って壊してあげるわ)
シオリの瞳から、恐怖も、迷いも消え去った。 残ったのは、残忍な権力者たちに対する冷酷なまでの怒りと、目の前で怯える三人の少女たちを絶対に守り抜くという、教育者としての起家(親)の覚悟だけだった。
山が残り少なくなる中、シオリの白魚のような指が、自らの手牌の端にある純白の牌に、静かに触れた。
第8章「転機:純白の引き金」
海底――すなわち、山に残された最後の牌が近づいていた。
無機質なコンクリートの部屋には、全自動卓の微かなモーター音と、乾いた牌の音、そして四人の女たちの荒い息遣いだけが充満していた。 卓上には相変わらず、2から8の数牌だけが異様な山を築いている。
十七巡目。 南家のアヤが、震える指で引いた『七索』を河に叩きつけるように捨てた。彼女の派手なネイルは、あまりの力みで今にも剥がれそうだった。 西家のルリは、古風なワンピースの胸元を固く握りしめながら、涙目で『二萬』をツモ切りする。 北家のマナに至っては、もう声にならない嗚咽を漏らしながら、機械的に『五筒』を捨てていた。
(このまま流局すれば「勝者なし」。私たちは全員、元の地獄へ戻される)
東家(起家)であるシオリは、自分の番が回ってくるのを見つめながら、静かに息を吸い込んだ。 彼女には、この先の残酷な結末が痛いほど計算できていた。別室にいるであろう主催者の男たちは、自分たちが疑心暗鬼に陥り、絶望のままゲームセットを迎える様を特等席で楽しんでいるに違いない。
シオリはゆっくりと顔を上げ、他の三人を見た。 多額の借金に縛られ、尊厳をすり減らしてきたアヤ。 51歳の男に買われ、バルコニーから身を投げてでも逃げようとしたルリ。 大人の欲望に弄ばれ、夢を真っ黒に塗りつぶされたマナ。
彼女たちは皆、シオリが学校で救えなかった生徒たちと同じ、助けを求めるような、傷だらけで怯えきった目をしていた。
「……ねえ、あなたたち」
静寂の中、シオリの凛とした声が響いた。 ピクッと、三人の肩が大きく跳ねる。皆、極限の緊張状態で一触即発の空気に呑まれていた。
「このゲームのルール、覚えている?」
シオリは、まるで教室で生徒に語りかけるような、穏やかで通る声で言った。
「『勝った者が、すべての望みを叶える』。そうだったわね」
アヤが怪訝そうに眉をひそめる。
「……それがどうしたって言うのよ。どうせ誰もアガれない。アガリ牌なんて、最初から山に一枚もないんでしょ……!?」
アヤもまた、この盤面の異常なカラクリに気づいていた。彼女の声には、行き場のない怒りと絶望が滲んでいた。
「ええ、その通りよ」
シオリはあっさりと肯定し、そして、天井の隅で明滅する監視カメラへ向かって、フッと冷たい笑みを向けた。
「でも、私は教師だから。あなたたちに教えなきゃいけないわね。大人が作った『理不尽なルール』の、正しい壊し方を」
次の瞬間。 シオリは自分の完璧な手牌の中から、端にある一枚の牌を、ためらいなく強く摘み上げた。 それは、誰もが手放せなかった、そして誰もが血眼になって求めていた、致命的な么九牌。
「……えっ?」
アヤが息を呑んだ。その牌が意味する「結果」に気づき、血の気が引いていく。
「だめ、それを出したら……!」
ルリが悲鳴のような声を上げた。マナは状況が飲み込めず、ただ目を丸くしている。
「いいから――私からアガりなさい!!」
パァーン!!
コンクリートの部屋に、ひときわ高く、澄んだ音が響き渡った。 シオリが力強く河に叩きつけたのは、何の装飾もない、純白の字牌。
『白』。
瞬間、時が止まったかのような錯覚が部屋を包んだ。 シオリの意図を完全に理解したアヤの目から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。 この女は、見ず知らずの自分たちを救うために、親である自分がすべての負債を背負い込み、一人で地獄へ落ちるつもりなのだ。自分たち三人を、「同点のトップ」にするために。
「……っ!!」
アヤは泣き顔のまま、しかし確かな怒りと反逆の意志を込めて、自分の手牌を勢いよく倒した。
「……ロン!!」
アヤの叫びに呼応するように、ルリが震える両手で祈るように、手牌を開く。
「ロ、ロン……ッ!」
最後に、マナが両手で顔を覆い、こぼれる涙を拭いながら叫んだ。
「ロンです……っ!!」
「「「国士無双(13面待ち)!!」」」
トリプルロン。 三人同時のダブル役満。麻雀というゲームにおいて、これ以上ないほどの最大火力が、起家であるシオリの放った『白』に突き刺さった。
コンクリートの地下室に、三人の勝利の宣言がこだまする。 親であるシオリへの合計請求点数は、19万2千点。 それは、一人の人間の人生を完全に破壊し尽くす、致死量の数字だった。
シオリは手牌を伏せたまま、倒された三つの美しい『国士無双』を見つめ、どこかホッとしたように微笑んだ。
盤上の中央に置かれた純白の『白』は、彼女たち三人のこれから始まる、誰にも汚されない新しい未来を暗示するように、地下室の冷たい光を静かに反射していた。
第9章「反撃:絶対ルールの牙」
「な、なんだと……!?」
最上階のVIPルーム。モニターに映し出された信じがたい光景に、名門女子校の理事長が持っていたクリスタルグラスが床に落ち、無惨に砕け散った。 先ほどまでの下劣な笑い声は完全に消え失せ、部屋には死者のような沈黙が降りていた。
「三家和……だと? ばかな、なぜあの女は当たり牌だと分かっていながら『白』を打った!? 自分が数億の負債を抱えることになるんだぞ!」
悪徳芸能プロダクションの社長が、額に脂汗を浮かべてモニターにすがりつく。
「くそっ、あの教師、自ら生贄になりやがった!」
アヤの事務所のオーナーが葉巻を灰皿に叩きつけた。
「だが、結果的に敗者はあの女一人に決まった! 放銃した親の総支払いは19万2千点。残りの三人が同点でトップということになる。……おい、どうする!? 三人の望みを全部叶えるのか!?」
「落ち着きなさい」
怒号が飛び交う中、51歳の投資家だけが、忌々しげにネクタイを緩めながら冷たく言い放った。
「たかだか小娘三人の願いです。アヤの借金をチャラにし、マナに三流映画の役を与え、ルリの政略結婚を白紙に戻してやればいい。どうせ痛くも痒くもない。それよりも、私たちにこれほどの煮え湯を飲ませたあの教師には、徹底的に『教育』をしてやる必要がありますね……」
男たちは互いに顔を見合わせ、邪悪に口角を上げた。 そうだ。痛手でも何でもない。むしろ、反逆を企てたあの小賢しい教師を永遠に地下室へ閉じ込め、その絶望の顔を眺めるという最高の余興が残っている。
理事長がマイクのスイッチを入れ、地下室へ向けてスピーカー越しに語りかけた。
『……見事だ。よもや自己犠牲というバグを見せつけられるとは思わなかったよ。シオリ先生、君はこれで正真正銘、私たちの所有物だ』
地下室に、ノイズ混じりの傲慢な声が響き渡る。
『アガった三人よ、約束通りお前たちの望みを叶えてやろう! 借金の帳消しでも、政略結婚の白紙撤回でも、好きなように言え。ただし、そこにいる敗者の教師だけは――』
「ええ、私の望みを言わせてもらうわ」
男の言葉を遮ったのは、南家のアヤだった。 彼女は席から立ち上がり、天井の監視カメラ――その向こうにいる自分を食い物にしたオーナーたちを、殺意すら籠った鋭い目で見据えた。
「私の望みは……**『敗者であるシオリの負債をすべてチャラにし、彼女をここから無傷で解放すること』**よ!」
『――なっ!?』 VIPルームのスピーカーから、息を呑む音が漏れた。 「お、お前、自分の借金はどうする気だ!?」
「私の分は、この子が叶えてくれるわよ」
アヤが視線を送ると、西家のルリが静かに立ち上がった。 あどけない16歳の令嬢。つい数時間前まで、51歳の男の毒牙から逃れるためにバルコニーから身を投げようとしていた少女は、今はもう震えていなかった。 ルリは古風なワンピースの胸元にスッと手を当て、カメラの向こうにいる『権力者たち』へ向けて、毅然と言い放った。
「私の望みは……**『私たち四人を苦しめたあなたたち全員の全財産を没収し、社会的に完全に抹殺すること』**です!」
『き、貴様ぁっ!!』 モニター越しに、51歳の投資家の激昂する声が響く。 『ふざけるな! お前のような小娘が、私に向かって何を――!』
「最後は、私ですっ!!」
北家のマナが、椅子を蹴るようにして立ち上がった。 田舎から出てきたばかりの、大人の悪意に怯えていたはずの少女は、涙でぐしゃぐしゃになった顔に、今までで一番輝くアイドルのような笑顔を浮かべて叫んだ。
「私の望みは……**『これからの私たち四人の人生を、あなたたちみたいなクズに絶対に邪魔されない、最高の笑顔で生きていくこと』**です!!」
三人の宣言が、地下室に響き渡る。 それぞれがバラバラの『一つの望み』を口にするのではなく、三人で一つの『完璧な防壁と槍』を作り上げたのだ。
シオリを守り、加害者を罰し、自分たちの未来を確約する。
VIPルームはパニックに陥っていた。
『ば、ばかな! そんな望みが通るわけがないだろう! 誰がそんなバカげた要求を――』
「ルールはルールよ、おじさんたち?」
アヤが、自分の鋭い赤いネイルをカメラに向け、鼻で笑った。
「『勝った者が”すべて”の望みを叶える』。絶対のルールなんでしょ? 自分たちで作った誓約書じゃない。まさか、三人分の役満のツケを払えないなんて、ダサいこと言わないわよね?」
痛いところを突かれ、男たちは押し黙った。 彼らは裏社会でも「契約」を絶対とする世界で生きている。自分たちが録音し、誓約させたルールを自分たちで破れば、それこそ彼ら自身の組織内での立場が消滅する。
何より、自分たちが「絶対に誰も勝てない」とタカをくくって設定した『すべてを叶える』という無制限のルールが、ここにきて完全に自分たちの首を絞める絞首刑の縄に変わってしまったのだ。
「あ、あああ……俺の金が……!」
芸能プロダクションの社長が頭を抱えて崩れ落ちた。 モニターの向こうから聞こえてくる男たちの醜い阿鼻叫喚を聞きながら、コンクリートの部屋に、初めて女たちの笑い声が響いた。
アヤが笑い、マナが飛び跳ねて喜び、ルリが安堵の涙をこぼす。 そして、その中心に座る起家のシオリは、驚きで目を丸くしていたが、やがて呆れたように、そして心底嬉しそうに微笑み、三人の頭を順番に優しく撫でた。
「……本当に、あなたたちは悪い生徒ね」
盤上の『白』は、彼女たちのこれから始まる、誰にも汚されない純白の未来を暗示するように、静かに、そして誇り高く光を反射していた。
第10章「反故:暴かれた大人の本性」
「……く、ふふ。あっははははは!」
VIPルームを支配していた阿鼻叫喚のパニックを切り裂いたのは、腹の底から湧き上がるような、低く不気味な笑い声だった。 頭を抱えていた芸能プロダクションの社長も、顔面蒼白になっていた理事長も、ピタリと動きを止めて声の主を振り返る。
笑っていたのは、ルリの政略結婚の相手である51歳の投資家だった。 彼は先ほどまでの激昂が嘘のように、冷ややかで残酷な光を瞳に宿し、ソファに深く座り直した。
「何をそんなに慌てているのですか、あなた方は」
投資家は、テーブルに置かれた最高級のシガーカッターを弄りながら、モニターの中の少女たちを虫ケラのように見下ろした。
「彼女たちの言う通り、確かに我々は『ルール』を設定した。そして彼女たちはゲームに勝った。それは事実だ」
「だったら! 俺たちの財産が……っ!」
「馬鹿を言いなさい」
投資家の氷のような一瞥に、事務所のオーナーが息を呑む。
「ここは地図にも載っていない、私の所有する地下施設ですよ? 彼女たちがいくら声高に『ルールだ』『契約だ』と叫んだところで、それを執行する警察も、裁判官も、ここには存在しない。……我々が首を縦に振らなければ、ただの小娘たちの寝言に過ぎないのですよ」
その言葉に、他の三人の男たちの顔に、さあっと醜悪な安堵の色が広がっていった。 そうだ。ここは自分たちのテリトリーだ。 ルールは自分たちが作った。ならば、自分たちの都合で破り捨てればいいだけの話ではないか。
「ひ、ひははは……! 違いねえ。あいつらは、俺たちが生殺与奪を握ってる『家畜』だった!」
「録音データなど消せばいい。約束など、最初から無かったことにすればいいのだ」
男たちは再び醜い権力者の顔を取り戻し、邪悪に笑みを浮かべた。 どんなに素晴らしい知略も、奇跡の役満も、圧倒的な『暴力』の前には無意味だということを、あの生意気な女たちに教えてやらなければならない。
投資家が、ゆっくりとマイクのスイッチを入れた。
『――素晴らしいチームワークだったよ、諸君』
地下室のコンクリートに、再び男の声が響き渡った。 抱き合って喜んでいた四人の女たちの動きが止まる。その声には、敗北感など微塵も含まれていなかったからだ。
『だがね、一つ根本的な勘違いをしているようだ。契約というものは、対等な人間の間でしか結ばれない。お前たちのような『所有物』の望みを、我々が真面目に聞いてやるとでも思ったのかね?』
アヤの顔から血の気が引いた。
「……あんた、ルールを破る気!?」
カメラを睨みつけるアヤの声が震える。
『ルール? そんなものは、我々が楽しむためのスパイスに過ぎない』 スピーカー越しの声は、どこまでも冷酷だった。 『ゲームは終わりだ。お前たちは知りすぎたし、反抗的すぎた。……処理しろ』
その言葉が響いた瞬間。 地下室の重厚な鉄の扉から、鈍い電子音が鳴った。
『ガチャン!!』
分厚い扉が外側から乱暴に開け放たれ、黒いスーツを着た大柄な男たちが五、六人、なだれ込んできた。その手には、鈍く光るスタンガンと、拘束用の太い結束バンドが握られている。
「きゃあっ!?」
マナが悲鳴を上げ、ルリが恐怖で顔を覆う。
「嘘でしょ……あんたたち、それでも人間なのっ!?」
アヤが近くにあったパイプ椅子を掴み上げて男たちを威嚇するが、黒服たちは全く動じることなく、無言で包囲網を狭めてくる。
絶対的な『暴力』という名の現実が、四人を飲み込もうとしていた。 盤上の奇跡など、社会の裏側に巣食う悪意の前では、ただの紙切れ同然だったのだ。
「アヤさん、下がって!!」
シオリが前に躍り出た。 華奢な体で、アヤと、その後ろで震えるルリとマナを庇うように両手を広げる。
「先生……っ!」
「いいから、私の後ろに!」
シオリの目には、死への恐怖があった。しかし、それ以上に、自分を信じて背中を預けてくれた三人の少女たちを守れなかったことへの、血を吐くような悔しさが滲んでいた。 どれだけ正しくても、どれだけ勇気を振り絞っても、この世界は大人の理不尽な力で簡単にねじ伏せられてしまうのか。
「あの生意気な教師の腕をへし折れ。他の三人は薬で眠らせて、地下の監禁室へ運べ」
スピーカーから、投資家の無慈悲な命令が下される。 黒服の一人が、バチバチと紫色の火花を散らすスタンガンを構え、シオリの細い肩へと手を伸ばした。
シオリはギュッと目を閉じ、襲い来る痛みに耐える覚悟を決めた。 ルリとマナが悲鳴を上げ、アヤが「やめろぉっ!!」と絶叫する。
権力者たちの醜いエゴが、四人の純白の希望を完全に黒く塗り潰したのだった。
第11章「逆転:盤外のスペクタクル」
バチバチと紫色の火花を散らすスタンガンが、シオリの肩に触れる寸前。
『――ピピッ! ピピピピッ!!』
地下室のスピーカーから、耳を劈くような高い電子音が鳴り響いた。 黒服の男たちが「なんだ!?」と動きを止める。 その電子音は地下室から発せられたものではなかった。マイクがオンになったままの、最上階のVIPルームで鳴り響いた「システム警告音」を拾っていたのだ。
VIPルームでは、壁一面の巨大モニターが突如としてノイズに包まれていた。 「おい、どうした!? 映像が……!」 理事長が慌ててリモコンを操作するが、モニターは言うことを聞かない。やがてノイズが晴れると、そこには全く別の画面が映し出されていた。
それは、見慣れた『動画配信サイト』の画面だった。
『――素晴らしいチームワークだったよ、諸君』 『だがね、一つ根本的な勘違いをしているようだ。契約というものは、対等な人間の間でしか結ばれない。お前たちのような『所有物』の望みを、我々が真面目に聞いてやるとでも思ったのかね?』 『ゲームは終わりだ。お前たちは知りすぎたし、反抗的すぎた。……処理しろ』
画面の中では、つい数十秒前に投資家が言い放った冷酷な言葉が、リプレイのように再生されていた。 いや、リプレイではない。画面の右下には赤文字で**『LIVE』**と表示されている。 そして、その横にある「同時接続者数」のカウンターは、異常な勢いで跳ね上がり続けていた。
【同接:385,021人】
「な……なんだ、これは……っ!?」
51歳の投資家の顔から、初めて余裕が完全に消え失せた。
画面の右側を、滝のような勢いで視聴者のコメントがスクロールしていく。
『え、これガチの犯罪?』
『麻雀でデスゲームとか映画の撮影かと思ったけど、マジじゃん』
『この声、〇〇女学院の理事長だろ!! 娘のいじめ揉み消してるって暴露されてるぞ!』
『芸能事務所の〇〇社長もいる! アイドル志望の子に枕営業強要して違約金請求とかクズすぎ』
『イカサマ麻雀卓で借金漬けとか、警察動けよ!』
『今、この投資家の会社の株、夜間取引でストップ安になってるwww』
「ひっ……! あ、ああ……!!」
芸能プロダクションの社長が、自分のスマートフォンを取り出して悲鳴を上げた。着信履歴が、会社の役員や株主、そしてメディアからの電話で完全に埋め尽くされている。
「お、俺たちがハッキングされたのか!? どうしてこの部屋の音声と映像が、全世界に生配信されてるんだ!?」
事務所のオーナーがパニックになり、モニターを叩き割らんばかりの勢いで立ち上がった。
『……ハッキングなんて、そんな難しいことはしていませんよ』
VIPルームに、凛とした声が響いた。 モニターの端に小さく映し出された地下室の映像。そこで、シオリが黒服の前に立ち塞がったまま、ゆっくりと自分の胸元――ブラウスの第一ボタンに指を当てていた。
『学校という場所で、大人の卑劣な揉み消しと戦うには、「証拠」を残すのが一番ですから。……超小型のウェアラブルカメラ。私のスマートフォンと連動して、クラウド経由で生配信を続けるように設定してあります』
「き、貴様ぁぁっ!!」
理事長が絶叫した。
シオリは冷たく言い放った。
『地図に載っていない地下施設だと言いましたね? ええ、そうでしょう。でも、あなたたちの悪意は今、全世界の何十万人という証人によって共有されました。……あなたたちが自分たちの権力を誇示するためにベラベラと喋ってくれた「自白」も、すべてね』
シオリが起家の席に座る前に仕掛けていた、盤外のスペクタクル。 彼女は、自分が負けて地下に沈められる最悪のケースも想定し、自分の命と引き換えにこの男たちの悪事を社会に暴露する「自爆スイッチ」を最初から起動していたのだ。
だが、あの奇跡の配牌と、三人の少女たちが彼女を守ろうと立ち上がってくれたことで、この生配信は「悲劇の暴露」から「痛快な逆転劇」へと意味を変えた。
地下室の黒服たちも、自分たちの顔が全世界に生配信されていることに気づき、スタンガンを下ろして後ずさりを始めていた。こんな証拠が残る状況で暴行を加えれば、自分たちもただでは済まない。
『ルールだ、契約だと声高に叫んだのは、あなたたちから「ルールを反故にする言葉」を引き出すためです。あなたたちの本性を、社会に完全に晒すために』
シオリは、監視カメラを――いや、その向こうで震え上がっている権力者たちを、氷のような視線で射抜いた。
『ゲームセットよ。あなたたちの社会的な命は、たった今、完全に終わったわ』
直後、VIPルームの重厚な扉の向こうから、けたたましいサイレンの音と、多数の足音が近づいてくるのが聞こえた。
「警察だ! 開けなさい!!」
バンバンと扉を叩く激しい音に、四人の男たちは腰を抜かし、その場に崩れ落ちた。
地下室では、アヤが「……やった」と呟き、その場にへたり込んだ。 ルリとマナも、糸が切れたように泣き崩れながら抱き合っている。 シオリは、大きく、本当に大きく息を吐き出すと、三人の元へしゃがみ込み、その肩を強く、優しく抱きしめた。
自動麻雀卓の上では、シオリが放った純白の『白』を囲むように、三つの『国士無双』が美しく並んだまま、静かにゲームの終わりを告げていた。
第12章「国士無双」
あの日から、半年が過ぎた。
初夏の暖かな陽光が差し込む、都内のオープンテラスのカフェ。
地下のコンクリートの冷たさとは無縁の、風通しの良いその場所で、四つのグラスが軽やかな音を立てて合わさった。
「乾杯!」
四人の女性たちの顔には、もうあの日のような暗い影は微塵もなかった。
あの生配信の後、事態は劇的に動いた。
全世界にリアルタイムで拡散された「権力者たちの自白」と「違法な地下施設の映像」は、瞬く間に社会現象となり、警察も即座に動かざるを得なかった。
51歳の投資家、理事長、そして二人の悪徳社長。彼らは監禁や脅迫、さらには過去の余罪まで芋づる式に暴かれ、社会的な地位も財産もすべて失い、冷たい檻の中へ落ちていった。
「新しい仕事、どう? アヤさん」
シオリが、目の前でアイスティーを飲むアヤに微笑みかけた。
「うん、やっと普通の昼間の事務職に慣れてきたところ。お給料は高くないけど……夜に自分のベッドで安心して眠れるって、本当に幸せなことだね」
アヤはそう言って笑った。彼女の指先を彩っていたあの戦闘用の派手なジェルネイルはもうなく、今は桜色の控えめなマニキュアが上品に光っている。
「私も、来週からやっと普通の高校に通えることになりました!」
ルリが、ショートケーキを頬張りながら嬉しそうに報告した。あの日、彼女を縛り付けていた古風で窮屈なワンピースはもう着ていない。あの狂った政略結婚は完全に白紙となり、今は遠縁の優しい親戚の元で、16歳の少女としての「当たり前の青春」を取り戻し始めている。
「私なんて、今はファミレスでアルバイトしながら、ボイトレに通ってるんです。あのクソ事務所とは違って、今の先生はすっごく厳しくて……でも、毎日が本当に楽しい!」
マナの笑顔は、テレビの中の作られたアイドルよりもずっと眩しく、等身大の輝きに満ちていた。
そしてシオリもまた、あの腐敗した学園を去り、今は別の公立学校で再び教壇に立っていた。正義が必ず報われるとは限らないが、少なくとも彼女の信じた教育の光は、決して間違っていなかったのだ。
「……ねえ、シオリ先生」
ふと、アヤがカップを置いて、真剣な眼差しを向けた。
「私、最近になって『国士無双』っていう言葉の本当の意味を調べてみたの」
ルリとマナも、キョトンとしてアヤの話に耳を傾ける。
「麻雀の役の名前だけど、元々は中国の歴史書に出てくる言葉なんだって。意味は……『国の中で、その人に代わるような者は二度と現れないほど、優れていて他と並ぶ者のない人物』」
アヤはそこで言葉を区切り、シオリを真っ直ぐに見つめた。
「あの極限状態の中で、自分の身を挺して私たちを救ってくれた先生は……私たちにとって、まさにその『国士無双』だったよ。先生がいなかったら、私たちは今頃どうなっていたか分からない」
ルリもマナも、深く頷いた。
シオリがいなければ、自分たちは疑心暗鬼に陥り、永遠にアガることのできない毒の箱庭で全滅していたはずだ。あそこで『白』を打てる人間など、この世で彼女しかいなかった。
しかし、シオリは少しだけ照れくさそうに目を伏せた後、ゆっくりと首を横に振った。
「……アヤさん、ありがとう。でも、それは少し違うわ」
「え?」
「麻雀の国士無双っていう役はね、1から9の端牌と、すべての方角と種類の字牌……バラバラの13種類の牌が、一つでも欠けたら絶対に完成しないの」
シオリは、三人の顔を順番に見つめ、あの地下室で見せた時と同じ、凛とした、けれどとても温かい微笑みを浮かべた。
「あの時、私が『白』を打った後……もしあなたたち三人のうち、誰か一人でも『自分だけが助かればいい』と保身に走って宣言をしなかったら、あの奇跡のトリプルロンは生まれなかった。あなたたちが、自分の恐怖に打ち勝って、私と一緒に戦うことを選んでくれたから、私たちは勝てたのよ」
シオリの言葉に、三人の少女たちの胸が熱くなる。
「一見するとバラバラで、何の繋がりもなかった私たち。でも、誰か一人でも欠けていたら、あの地獄を壊すことはできなかった。……だからね」
シオリは、春の風に揺れる木漏れ日を見上げながら言った。
「私たち全員が、たった一つしかない、かけがえのない『国士無双』なのよ」
その言葉に、アヤはこらえきれずに涙ぐみながら笑い、ルリとマナも顔を見合わせて満面の笑みを浮かべた。
大人の作った理不尽な籠に閉じ込められ、絶望の底にいた四人。 しかし彼女たちは、盤上の生贄になることを拒み、自らの手で純白の未来を掴み取った。
これから先の人生、彼女たちが再び同じ麻雀卓を囲むことは、きっともう二度とないだろう。
けれど、あの日あの地下室で、互いの魂を繋ぎ合わせて放った『純白の十三面待ち』の記憶は、生涯消えることのないお守りとして、国士無双たる彼女たちの胸の中で、いつまでも誇り高く輝き続けるのだ。
(了)




