黄昏プール
夏を過ぎた。
僕は縁に立つ。
屋上の風は冷たくて、頬を刺す針のようだった。
何かがあったわけではない。不満はないし、誰かが僕を追い立てているわけでもない。
なのに何故、放課後に屋上に来てフェンスを越えたのか、僕自身もわからない。
ただ、綺麗だった。
夕日がとろりと溶けていく景色を見ていると、自分も一緒に溶けて、流れて、どこかへ行って、新しい何かに生まれ変われるような気がした。
ただ眺めていたかった。
強い風が吹き、深緑色のネクタイが靡く。それを追った先に、何かがいた。
人魚だ――と思ったのは、彼女がプールサイドに立っていたからだ。黒ずんだ水を見ている彼女の小さなシルエットから、目が離せなくなる。
僕はまた衝動的にフェンスを越えていた。
「何してるの」
「……プールを見てるの」
どのクラスの誰かわからない彼女の隣に立つ。
夏を過ぎたプールの底は淀み、枯れ葉や虫の死骸が浮いている。けれど、そこに夕日が映り込んでいるその光景が酷く美しく感じた。
「飛び込むの?」
彼女は僕の言葉をよく噛み砕くように考えた後「そういうつもりはないんだけど」と首を傾げる。彼女自身も自分の行動の理由はよく分からないのだろう。
しばらく沈黙が続く。
冷たい風に、淀んだプール。けれどそこに黄金が輝く。
「綺麗だね」
「……うん」
「でも、飛び込んだらきっと臭いんだろうな」
僕はプールを指さす。
「ね。そう思わない?」
「……うん」
今度は笑った彼女は「屋上にいた?」と尋ねてきた。
「いた。見た?」
「見た。死ぬのかなって」
「違うよ。近くに行きたくて」
「……近く」
「そう。急に、新しい人生が始まるような予感がして、それを掴んでみたくなったんだと思う。よくわからないけど」
「私も」
彼女は静かに頷く。
「たまに、ここじゃないどこかへ行ってみたくなるの。入り口、どこかなって」
「今日はここだった?」
「なんか、行けそうじゃない?」
口調が砕ける。
プールに溶けていく夕日を見つめながら、普段の彼女を想像しようとして、やめた。
「わかる。けど、やっぱり臭いよ」
「やめてよ。それ聞いた時から気になっちゃって仕方ないんだけど」
「駅裏の新しいパン屋、知ってる?」
「知ってる。夕方から開いてるんでしょ?」
「行ってみる?」
僕はプールの上で朽ちていたもの達から目を逸らす。
彼女も、僕を見た。
互いの目の中に何かを探した僕らは、やがて青い逃避願望を捨てた。
黄昏のプールから出て、パン屋へと向かうために。
読んでくださってありがとうございます。
なろラジ2つ目です。