03.犬科獣人のロナナと狐科獣人のジャイルズ
花祭り初日。
ロナナは、バオリーと過ごす為に用意していた花祭りの服を着て、ジャイルズと出かけた。
薬草を届けに行く度に、ジャイルズは休みなく話しかけてくる人だったので『一日中一緒にいると疲れるかも』と思っていたが、意外にも彼との時間は心地よかった。
恋人関係ではない友人関係である彼とは気楽に接する事ができた。
お店にいる時のように、軽い言葉をかけられ続ける事がなく、意外と彼は物静かな人だった。
休みなく話しかけられる事がないので、ロナナが疲れる事もない。同じペースで話し、同じペースで街歩きを楽しめた。
一緒にゆっくりと街を見て歩く。
――バオリーとは持てなかった時間だ。
そもそもこうしてバオリーと街を歩いた事もない。
「意外だわ。ジャイルズさんってもっとお喋りだと思ってた。いつもマシンガンのように話すでしょう?」
ロナナの言葉に、ジャイルズが苦笑する。
「僕は本当は口下手なんです。いつもはロナナさんに何とか話しかけたくて、話題をかき集めていたんですよ。今の僕の方が地に近いと思います。……ガッカリしました?」
不安げな表情に変わったジャイルズを見て、ロナナが笑う。
「ガッカリなんてする訳がないわ。ただ一緒にいて楽だし楽しいなって思っただけ」
ロナナの言葉に、ジャイルズは嬉しそうに目を細めた。
「あら?ロナナさん?」
休憩で立ち寄ったカフェで、ロナナは背中から声をかけられた。
――この声はバオリーの妹のアリサだ。
アリサは、こちらのテーブルまでやってきて、眉根を寄せながらロナナに話しかけた。
「ロナナさん、あなた浮気しているの?あんなに素敵なバオリー兄様と付き合ってもらってるっていうのに。本当に兄様に相応しくない人ね。
バオリー兄様、ロナナさんがしつこくて困る、早く別れたいって言ってたわよ。……バオリー兄様には両思いのお嬢様がいるんだから。早く別れてあげてよ」
アリサの言葉に、ロナナの心がスッと冷える。
――そんなの分かっていた事だ。
バオリーはフローレンスお嬢様が好きだ。
いくら忠誠心高い護衛と言っても、お嬢様に恋慕の気持ちが無ければ、あれだけお嬢様に尽くせるはずがない。
『そんな事わざわざ言われなくても分かってる』
ロナナは温度のない目でアリサを見つめた。
「安心して、アリサさん。バオリーとは昨日別れたわ。
……そう。フローレンスお嬢様と両思いだったのね。だから今年の花祭りの約束も直前で断られたのね。
でももう私には関係のない話ね。
彼が幸せになれることを祈ってるわ。アリサさんも、私とはもう無関係な間柄になっちゃったわね」
ロナナはそう話すと、アリサに微笑んだ。
『この子と関わらなくてよくなるのも、別れて良かった事のひとつだわ』
ロナナは静かに息をはいた。
それまで黙ってロナナとアリサのやりとりを見ていたジャイルズが、アリサに笑顔を向けた。
「初めまして。ジャイルズと申します。僕はロナナさんにすごく長い間片思いしてましてね、ようやく昨日花祭りを共に過ごす許可をもらえたんですよ。ロナナさんを手放してくれたあなたのお兄様には感謝しかありません。
そんな彼にも幸せになってほしいですね。お嬢様と護衛の恋なんて素敵じゃありませんか!フローレンスお嬢様には、確か大商会の御子息のロデリック様という婚約者がいますよね。そんな婚約者のロデリック様を捨ててまでの両思いは、ぜび貫いてほしいものです。応援していますよ!」
ジャイルズが大きな声でアリサにエールを送る。
――周りにいるカフェの客達が、ジャイルズの言葉にザワついた。
周りの様子に気づいたアリサが、焦ったようにジャイルズに小声で怒った。
「ちょ、ちょっと、あなた声が大きいわよ。フローレンスお嬢様は有名な方なんだから、そんな事大きな声で言わないで。悪い噂が立ってしまうわ」
「そんな!悪い噂だなんて!麗しい護衛の彼とフローレンスお嬢様の恋は有名ですよ。どこへ行っても二人きりで過ごされるそうじゃないですか。
今日も二人で花祭りに出かけられているのでしょう?今頃きっと愛を交わされているはずですよ」
ジャイルズは一際大きな声で話し、ニッコリとアリサに微笑んだ。
――ロナナが今まで見た中で、一番胡散臭い笑顔だ。
ジャイルズの言葉を、周りの客達はしっかり聞いていたようだ。
ヒソヒソと楽しそうに小声で噂する声が聞こえる。
犬科の私は耳がいい。
きっとそれは同じ犬科のアリサにも聞こえているはず。
「やっぱり噂は本当だったのね。お嬢様と護衛の恋なんて素敵だわ…」
「いや、駄目だろう。あの護衛は仕えるお嬢様に手を出したのか?」
「あの有名なロデリック様を捨てるなんて…!本気なのね」
「ロデリック様のご実家の商会って、あの世界的に有名なラングドン商会だろう?正気なのか?」
ヒソヒソと噂話は広がっていく。
『どう収拾をつけるつもりなのよ』
ロナナがそっとジャイルズに視線を送ると、パチンとウインクされた。
――そうじゃない。
ロナナはジャイルズの手を取って立ち上がる。
「もう十分休憩したわ。残りのお店を回りましょう」
ジャイルズは掴まれた手に驚いた顔を見せたが、すぐに嬉しそうな顔になる。
「そうですね。そろそろ店を出ましょうか」
そうして聞こえてくる噂話に顔色を失くしたアリサを置いて、私たちは店を出た。
お店を離れて人通りが少ない場所まで出ると、ロナナはジャイルズの手を掴んだままだという事に気づき、慌てて手を離した。
「もう!大きな噂になって、フローレンスお嬢様の家のコルネット商会に目をつけられたらどうするのよ!あなたのお店が潰れちゃうわよ」
ロナナがむうっと怒った顔を見せると、ジャイルズが笑った。
「だってあんな失礼な言葉、言わせっぱなしに出来る訳ないでしょう?私の大事なロナナさんに言っていい言葉ではないですからね」
――「大事な」って。
そんな言葉をサラッと言わないでほしい。
ロナナはウッカリときめいてしまった。
「それに、僕はもうすぐこの国を出る予定ですからね。コルネット商会に今の店を潰されても、痛くも痒くもないですよ」
ジャイルズの言葉に、ロナナの胸がドクンと跳ねる。
「え?国を出るの…?」
「はい。もともとこの国に長居をする予定は無かったんですよ。いい加減自分の国に帰って、実家の店を手伝わないと。……帰らなきゃいけないと思いながらも、ロナナさんが薬草を届けてくれる毎日を手放せなくて。妹のレティには、「早く告白して振られてこい」と言われ続けてきたのですよ。酷い妹でしょう?」
ハハハとジャイルズが苦笑する。
そんなジャイルズを黙ったまま見つめるロナナに、ジャイルズは真面目な顔をした。
「僕はそろそろ自国に戻らなくちゃいけないんです。ロナナさん、一緒に来てくれませんか?……勿論すぐに恋人になれる訳じゃない事は分かっていますし、僕がロナナさんを国に誘うのは、僕の想いだけではないのです。ロナナさんの薬草を選ぶ目を高く見ているのですよ。
一度僕の国に来てみて、やっぱり戻ろうと思ったら、またこの国に戻ってもいいですから。……だから僕にチャンスをもらえませんか」
ジャイルズの真剣な目に、ロナナは今までの恋と将来の事を考える。
バオリーに交際を申し込まれて、彼と付き合って一年ちょっと経ったが、月に一度お茶を飲めるかどうかの付き合いだった。
それでも初めての恋に浮かれていたし、バオリーの事は好きだったが、あまりにお嬢様最優先の彼に次第に心は冷めていった。
『きっとバオリーも私に交際を申し込んだはいいけど、何か私に違和感を覚えたのだろう。優しい彼からは別れを切り出せなかったんだわ』
そう思っている。
バオリーという恋人が一年以上いたけど、ロナナにはまだ恋人という存在がよく分からない。
ジャイルズとは今日一日一緒に出かけただけだが、彼との時間は存外心地よかった。
「いつ帰る事を言い出すだろう」と不安なお茶の時間を過ごす事も無かった。
ジャイルズの方が一緒にいて安心できた。
この先彼に恋をするかは今はまだ分からないが、彼の事は今、とても好ましく思える。
バオリーとフローレンスお嬢様の噂に悩まされるこの国より、ジャイルズの国で新しい生活を始めてみてもいいかもしれない。
ロナナはそう思った。
「私はジャイルズさんを好ましく思うけど、恋愛的な好きかどうかは分からないの。だから友達として、仕事仲間として誘ってくれるのなら、一緒について行ってみようかしら。…あ、もちろん私は今みたいに自立した生活を送るつもりよ」
ロナナの言葉に、ジャイルズはパッと顔を明るくする。
「もちろん友達としても仕事仲間としてもお誘いしたいです。自立するという言葉もロナナさんらしいですね。格安のアパート物件を持つ友人がいるので、住む場所にも困らないはずですよ」
「本当に?それは安心できるわ。ありがとう、ジャイルズさん」
嬉しそうに笑うロナナに、ジャイルズも笑顔を返した。
そうと決まればすぐに出発だとばかりに、翌日の早朝には国を出る事になった。
花祭りの期間は家で過ごす者が多いので、船に乗る客は少ない。今なら格安で船の便を押さえられると聞いて、ロナナはすぐの出発を選んだ。
船の上で海を眺めるロナナに、優しい眼差しを送るジャイルズをレティが半眼で見つめる。
「お兄ちゃん。花祭りの期間でも、朝一番の便でも、船賃なんて変わるわけないでしょう?……あーあ、ロナナさんも可哀想に。こんなお兄ちゃんの言葉に騙されちゃって」
レティの言葉に、ジャイルズはチラリと妹を見る。
確かに花祭りの期間だからといって船賃が安くなる事はない。朝一番という時間の便も船賃は同じだ。
「今日の朝一番の便なら、花祭りサービスで船のチケットが半額みたいですよ」
そう言ってジャイルズが三人分まとめて買ったチケットから、一人の船賃料の半額分だけをロナナから受け取った。
船賃などいくらでもジャイルズが持ちたいところだったが、「友人」に一方的にお金を出してもらうことをヨシとしないロナナは、ジャイルズが船賃を支払う事を拒んだのだ。
とてもロナナらしいと思うし、そういうところも好ましく思う。
「しょうがないでしょう?あの犬男に嗅ぎつけられでもしたら、せっかくのチャンスを逃してしまうかもしれませんからね。
あんな仕事最優先でロナナさんを蔑ろにする男なんて、一緒にいても不幸なだけです。これで良かったんですよ。
それにあんな意地悪な妹が付いてくるなんて不良債権過ぎるでしょう?」
そう話すとジャイルズは、「余計な事をロナナさんに言っては駄目ですよ」とレティに釘を刺す。
ジャイルズは一刻も早くバオリーの住む街を出たかった。
バオリーをロナナに会わせる訳にはいかなかったのだ。
『あの犬男は多分ロナナが好きだ』
ジャイルズはそう確信している。
ジャイルズがロナナに近づこうとした一年前に、バオリーはジャイルズの動きを嗅ぎつけて、先にロナナに交際を申し込んでしまった。
ジャイルズはその事にとても悔しい思いをさせられていた。
しかし悔しいと思いながらも、ロナナのいるこの国を離れることが出来ず、ついついロナナに構ってしまっていた。
ロナナが、狐科である自分を怪しんでいる事は分かっていたが、そういうところも可愛いと思ってしまう。
それにバオリーが、仕事を優先し過ぎてロナナを蔑ろにしている事も見えてきた。
「忠誠心の塊の犬も苦労するわな」
元恋人のバオリーを嘲るようにジャイルズは笑う。
自分だったら大切なものが優先だ。バオリーのように忠誠心に気を取られて、大事な物を手放す隙を与えたりしない。
だいたいあの我儘なフローレンスを婚約者にする奇特な奴は、ラングドン商会のロデリックくらいのもんだろう。
フローレンスは見た目だけは良いから、ロデリックはアクセサリー感覚でフローレンスを飾っておきたいだけじゃないかとジャイルズは見ている。
ロデリックの家のラングドン商会は、世界に名を轟かせるほどの大きな商会だから、フローレンスの家のコルネット商会としては必ず繋ぎ留めたい縁だろう。
だから忠誠心の強いあの犬男を、いつでもピッタリと護衛に付けて、金の卵である娘に護衛という見張りを立てているとジャイルズは推察していた。
頭の固い犬科の獣人が、護衛対象の娘と間違いを犯す事自体があり得ないのだ。
そんなバオリーは、優しいロナナなら後で話せば許してくれると軽く見て、いつでも仕事優先で何のフォローもしなかったんだろう。
「どうせ花祭りが終わり、護衛の休暇をもらってから挽回すればいいとか思ってたんだろう?」
ふふんとジャイルズはバオリーを鼻で笑う。
ジャイルズの実家は自国では有名な商会で、ラングドン商会にも劣らない。
多くの不動産も持っているし、ロナナの住む場所も自分の目の届く場所にするつもりだ。
やっと掴んだチャンスだ。
警戒心の強い慎重なロナナには、ゆっくり近づいて行くしかないが、これからは一緒に過ごす時間がたっぷり持てるし、焦る事はない。
「海の上は風が強いから冷えますよ」
ジャイルズは、楽しそうに海を眺めるロナナに微笑んで、用意していたロナナのためのストールを手渡した。