珍しい鰭酒
挿絵の画像を作成する際には、「AIイラストくん」を使用させて頂きました。
吐く息さえも白くなる程に冷え込んだ、或る冬の日の夕暮れ。
僕はお世話になっている大学の先輩に酒宴に誘われ、彼の下宿を訪れたんだ。
真冬に近い今の時期は、日没時ともなれば随分と気温が下がってしまう。
先輩のアパートのドアの前に立った頃には、体の芯まで冷えてしまったんだ。
「よく来てくれたな、岡本。外は随分と寒かっただろう?」
「寒いなんてもんじゃありませんよ、先輩。木枯らしは吹くし細かい霰は降るしで、ダウンを着ていても背筋が冷えちゃうんですから。」
僕の返事を聞くと、先輩は「それを聞きたかった」とばかりに満足そうに微笑んだんだ。
「そうだろう、岡本?そんな寒い日には、これが一番だ。身体の芯から温まるぞ。」
そう言って先輩が突き出したのは、鍋から引き上げられたばかりのカップ酒だった。
「へえ…有り難う御座います、先輩。燗を付けて下さったんですね。」
熱さを堪えてアルミキャップを剥がせば、米麹と醸造アルコールの芳香がムッと立ち込めて何とも言えなくなる。
そうしてガラスカップの縁に口をつければ、程良く温められた日本酒が食道から胃袋に流れ込んできて身体の芯から熱くなるのだった。
五臓六腑に染み渡るとは、正しくこの事だろう。
「くぅ〜っ、効くぅ~!」
「そうか、ソイツは良かったな。一杯目は安いカップ酒で恐縮だが、これから温めるのは純米の特級酒だから喜んでくれ。しかも二杯目からは凄いぞ。風流にも鰭酒と洒落込むんだからな。」
この男臭い先輩の口から「風流」という言葉を聞けるとは驚いたが、確かに寒さの厳しい真冬の今は鰭酒のシーズン真っ只中だ。
昔から旬の食べ物は縁起が良いと聞くし、鰭酒を御相伴するのも悪くはない。
この時は、そう気楽に考えていたんだ。
焦げ目がつく程に炙られた鰭の香ばしい風味と、燗をつけられた純米酒の奥深い味わい。
この二つを思い浮かべるだけで、思わず頬が緩んでしまう。
間もなく先輩が御馳走してくれる鰭酒が、もう楽しみで仕方なかった。
この時までは。
「鰭酒ですか、それは良いっすね。ところで先輩、何の魚の鰭なんです?河豚ですか?それとも鯛?」
「淀川の上流で釣ったから、恐らくは野鯉だろうな。だけどな、これは単なる野鯉の鰭じゃないんだよ。」
すると先輩はスマホを取り出し、釣り上げた時の自撮り写真を得意気に見せてくれたんだ。
「うっ?!」
だけどスマホを一瞥した次の瞬間、僕は自分の血の気が引くのをハッキリと実感したんだ。
液晶画面の中で嬉々とした笑顔を浮かべる先輩の釣り竿には、確かに一匹の鯉がぶら下がっていた。
しかし、その鯉の顔はあまりにも人間に似過ぎていた。
それは正しく、随分前に流行した人面魚その物だったんだ。
「ちょ…ちょっと、先輩!それって人面魚じゃないですか!」
「どうだ、珍しいだろ?俺も釣った時は驚いたんだ。」
どうやら先輩は、僕が驚いている理由を誤解してしまっているようだ。
単なる物珍しさだけなら、こんな大袈裟に飛び退いたりするものか。
「分かってるんですか、先輩?人面魚ですよ、人面魚!」
「どうしたんだ?そこまでムキになる事はないだろう?俺が釣りをした川は禁漁区じゃなかったし、仮に寄生虫がいたとしても生姜醤油でジックリ煮込んで加熱したから無力化出来てるよ。あの人面魚の煮物を食べてから暫く経っているが、この通り俺はピンピンしている。ましてやコイツは、干物にして炙った鰭だからな。」
驚いた事に先輩は、既に人面魚を煮物にして美味しく頂いてしまった後らしい。
どうやら僕が来る前に、全ては終わっていたみたいだ。
「大丈夫なんですか、先輩?あんなの食べて祟られたりしませんか?念のため、神社かお寺で御祓いして貰った方が…」
「岡本も迷信深い奴だな。人工衛星が宇宙を飛び回る時代に、そんな事を言ってどうする?むしろ御利益があるかも知れんぞ。昔から人魚の肉を食ったら不老不死になれると言うからな。人面魚を食った俺も、そういう力を得られるかもな。」
この分だと、もう何を言っても無駄なようだった。
僕は鰭酒を丁重に御断りすると、先輩の下宿を逃げるように後にした。
そして、これが生きている先輩と会った最後の日になってしまったんだ…
やがて冬休みが明け、僕達はまた大学へ通い始めた。
だけどキャンパス内で先輩の姿を見かける事は無かった。
それも無理はなかった。
先輩は下宿のアパートで首を括り、自ら生命を絶っていたのだから。
大家さんと警察が発見した先輩の首吊り死体は、恐るべき変貌を遂げていたそうだ。
聞いた話によると、全身の皮膚が細かくヒビ割れて、まるで鱗みたいになっていたらしい。
特に顔の変化が著しくて、目玉は飛び出すわエラは張るわで、昔のホラー映画に出てくる半魚人その物になっていたそうだ。
話を聞く限り、どう考えても人面魚の祟りだとしか思えない。
もしも人面魚の鰭酒を飲んでいたら、僕も先輩みたいな目に遭っていたのかも。
それを考えると、怖くて仕方がなかった…