時に経験は千金をも凌駕する。
■◇■
「…………」
暗い部屋に魔術師が一人。
そこは最高学府にある研究室ではなく、ゼルマの自室。
誰の邪魔も入らない。彼の個人空間。
そこに、客人もとい自分自身と言うべき存在がもう一人。
「やあ、気分はどうかな。ゼルマ」
「良い様に見えますか、ラガンドア」
「さてね。実の所、細やかな感情の機微を読み取るのは苦手なのだよ」
「でしょうね」
曖昧な表情で微笑む【伝令】の大賢者、ラガンドア。
ゼルマもラガンドアに感情の機微を読み取って欲しいとは思っていない。
そも、そうした人間の感情を理解しているのなら大賢者は大賢者ではなかっただろう。
もっとも、ゼルマもまた大賢者の一員なのだが。
「然し、君の方からこうして私を呼び出すのは非常に珍しい事だね。この十八年間、唯の一度も無かったというのに。どんな風の吹き回しかな」
ラガンドアがゼルマを見つめながら言う。
彼の言う通り、ゼルマの方から彼を呼んだ事はこれまで無かった。
【伝令】の大賢者である彼の方から定期的に会いに来る事はあれど、ゼルマの方から呼びつけるのは今回が初めての事である。
「世間話は結構です。答えてくださいラガンドア。今回の件、何処からが貴方達の思惑通りだったのですか」
だが、そんな事はどうでも良かった。
重要なのはたった一つだけ。
楽しく世間話をするような仲は、例え自分自身であれど持ち合わせていない。
そんな遊びの無い表情に気が付いたのか、ラガンドアは少しだけ微笑を収める。
大きな特徴の無い顔立ちの彼だが、纏う空気だけは特徴的だ。
だからこそ、ゼルマは心の中で身構える。目の前の人物は紛う事無き大賢者なのだ。
「知っていると思うけれど、それについて私から特別答えられる事は無いよ。それにアレは私達の制御下にあるものではない。星が最高学府の上空を通過したのも、そしてアレが落ちて来たのも全くの偶然さ」
「ですが、その偶然を貴方達は利用した筈です」
ゼルマの言葉にラガンドアは、ほう、と小さく呟く。
そして畳みかける様に、ゼルマは言葉を紡いだ。
「全ては【焔】の魔王と【天賦】の大賢者を引き合わせる為だった。違いますか?」
結論。ゼルマがこれを問い質すためにラガンドアを呼んだ。
【教導】の大賢者であるキセノアルドに問わなかったのは、【伝令】の大賢者であるラガンドアの方が全体の事情に詳しいのではないかと考えたからだ。
しかも、彼は前回出会った際に意味深な忠告もとい予言をゼルマに伝えている。
『もう少しで君の仕事は忙しくなる。けれど、君の光明はそこにこそ有る。よく覚えておく事だ』
大賢者が意味の無い言葉をわざわざ口にするとは考え難い。
ならばこの予言もまた、意味のあるもの。
ラガンドアがゼルマに何かを隠していると考えるのは当然の流れだった。
「『魔王』と遭遇する経験は滅多に出来るものではない。だからヴィザー先生とクリスタルを組ませた。ヴィザ―・アージュバターナーという魔術師を錨にするために。答えてください、ラガンドア」
魔術師の上位互換、魔王。
ゼルマとて実物を見たのは【焔の魔王】が初めてだった。
魔導書や序列論でその存在を知ったとしても現実に見る機会というのは少ない。
魔王の数自体が少なく、生き残れるかどうかも分からないのだから当然だ。
しかし、同時に魔王は最高の研究対象でもある。
古代魔術を解析する事で現代魔術を生みだした様に。手の届かない力を知り、学ぶ事で魔術師の世界は現代まで進歩してきた。
いや、魔術師に限った話ではない。
人間は『未知』を『知識』へと変える事で進む生命である。
魔王とは余りにも巨大な『未知』。魔術歴史部門に魔王科が存在するのも、それだけ魔王という存在が魔術師にとって意味があるからである。
実際、ゼルマもあの僅かな邂逅で多くの事を学んだ。
ゼルマですらそうだったのだ。
【天賦】ならば、それは千金をも凌駕する経験であったに違いない。
そして、一瞬の静寂の後に遂にラガンドアは口を開いた。
「ふふふ。それに気が付いたから、君は走ったのかい?」
「……俺の質問に答えてください」
「【司書】に申請し、魔術で結界を乗り越えてまで現地へと向かったのかい?」
「…………」
淡々と、ラガンドアは言葉を紡ぐ。
「【焔の魔王】の残滓に止めを刺したのも君だね」
それは、単なる事実確認。
彼等にとっては、なんてことの無い作業。
「……見ていたんですね」
「勿論。何処からでも私達は見ているさ。ああそれと、安心すると良いよ。君の姿はどの記録にも残っていない。君の隠蔽工作は正常に機能している。公式的には、あの残滓は自然消滅した事になっているよ。不審には思われているかもしれないけれどね」
再び微笑みを浮かべるラガンドア。
嘘偽りなく、ゼルマの動きは把握されているのだろう。
「然し、実に見事な一撃だったね。基本に忠実で、とても潔い真似事だった」
「…………」
「君の魔術回路は特別製だからね。うん、あの娘との逢瀬も無為では無いみたいだ。また一つ成長したね、ゼルマ」
真似事。ラガンドアの言葉に、ゼルマは返す言葉を持たない。
それは紛れもない事実だったからだ。
最後の最後、【焔の魔王】の残滓を消滅させた一撃。
一瞬の光輝。ゼルマの放った光の魔術によって魔王の魔力は霧散した。
だがそれは、ゼルマ自身だけの力で編まれた魔術では無い。
彼の弟子であるフェイム・アザシュ・ラ・グロリア。ゼルマがあの時に放った魔術は、彼女が最も愛用する〈光剣〉を真似て発動されたものである。
ゼルマの魔術回路は文字通りの特別製だ。
大賢者の作り出した【人造魔術回路】。普段は制限がかけられているが、その基本性能までも発揮できない訳ではない。
【人造魔術回路】の基本性能の一つ、全属性への適性。出力や効率に制限はあれど、現状のゼルマでもその性能は失われていない。だからこそ、ゼルマでも〈光剣〉を発動できたのだ。
「俺は、」
「何も説明をする必要は無いよゼルマ。私は君を咎めている訳ではない。寧ろ、私は君の成長を喜ばしく思っている。だからこそ、キセノアルドも転移を見逃したのだろうしね。重要なのは、君がそういう方向性に進んでいるという事なんだからね」
ラガンドアが言っているのは、最高学府に張られた空間転移を感知する防衛結界の事である。
最高学府内の空間転移はこの結界によって感知され、学園長キセノアルド・シラバスへと伝わる仕組みになっているのだ。これは最高学府内全域に適用されるので例外は無い。
そしてゼルマは今回、外壁を乗り越えるために空間転移魔術を使用した。ゼルマ自身には発動できないので【図書館】を通じた【魔術陣】貸与での発動である。
本来ならばゼルマもまたこの結界に感知され、キセノアルドへと伝わり然るべき対応が行われる筈なのだが今回は違っていた。ゼルマは問題なく外壁を抜けて外へ出た。他ならぬキセノアルドがゼルマを黙認したからである。
勿論、同じ大賢者であるキセノアルドならば黙認するだろうという思いがゼルマに無かった訳ではない。また、この状況ならば罪に問われる事も無いという考えもあった。
だがそれが、大賢者の思惑通りなのだとすれば……。
「……俺の役割は【天賦】の大賢者の観察と保護です。魔王と相対した状況を放置する事は出来ない。だから現地へ向かった。それだけです」
「やれやれ、説明は不要だと言っているのに君は本当に律儀だね。いや、だからこそなのかな?兎も角分かったよ。今は君の言葉を飲み込んでおく事にしよう」
そうだ。忘れている訳では無い。
【末裔】の大賢者であるゼルマ・ノイルラーの役割は【天賦】の大賢者であるクリスタル・シファーの観察と保護である。何よりも優先べき、ゼルマが世界に産まれた理由である。
だが、もうそれだけでは無い。
それも確かな事だ。
何故ならばゼルマはそう選択した。
ラガンドアに言わずとも、ゼルマがそう理解している。
無論、ラガンドアとてゼルマの言葉をそのまま受け取ってはいない。
だが【伝令】の大賢者として、彼は表向きそう受け取ったと言っているだけだ。
感情の機微が分からずとも、思考の動きまでもが読み取れない事はないのだから。
「さて、話は以上かな?何か伝えておくべき事は無いかい?」
「……ええ。これ以上この件について聞いたとしても無駄なんですよね?」
「ああ。私から答えられる事は無いよ」
「なら話は終わりです。ありがとうございます」
本当はあの予言についても尋ねたい所だったが、この調子なら何かを教えてくれる事も無いだろうとゼルマは判断した。
「では私もそろそろ最高学府を出ようかな。呼ばれているからね」
「呼ばれている、ですか」
ラガンドアの言葉に、不意に反応を示してしまう。
呼ばれているとは勿論他の大賢者に、という事だ。
「気になるかい?」
「いえ。それに、どうせ教えられないんですよね?」
「いいや。向かう場所位なら問題ないよ。君も私達だからね」
「……なら一応尋ねておきます」
正直気にならないというのは嘘になる。
ゼルマは自分以外の大賢者について詳しくない。
【天賦】、【教導】、【伝令】。ゼルマが出会った事のある大賢者は三人だが、実際にはもっと多くの大賢者が世界に存在する筈なのだ。
なので、教えて貰えるならば聞いておいて損は無いと考えたのだが……ラガンドアからの言葉は予想外のものだった。
「私がこれから向かう場所はね、魔境だよ」
それは名前ではなく、地名。
てっきり他の大賢者について知る機会だと考えていたゼルマにとっては意外な言葉だったが、それ以上に重要な事がある。
ラガンドアは呼ばれたと言っていたのだ。
「それは―――」
「それじゃあねゼルマ。また会おう」
「……ええ」
これ以上は聞ける雰囲気ではないとゼルマは引き下がる。
そうしてラガンドアは玄関扉に手をかけ、
「あ、そうだ」
と、何かを思い出した様にゼルマの方を振り返る。
今頃から何を言うのかと身構えるゼルマ。
ラガンドアの表情は最初と何も変わらない、微笑みだけ。
感情の読み取れない、特徴の無い顔に微笑がある。
そしてたった一言。
「魔儀大祭、君の活躍を楽しみにしているよ」
■◇■
「…………」
その少女は最高学府の中を歩いていた。
中央通りほど人通りの多くない通りではあるが、少女が通れば多くの者が振り返った。
当然だ。それだけ少女の姿は目立っている。
特徴的な髪色と服装。何より、纏う雰囲気からして他の者とは異なっている。
溢れ出る高貴さが、人々の視線を集めている。
「…………」
だが、少女はそんな人々の視線もどこ吹く風。
その眼には僅かな憂鬱を帯びていた。
あの日に何が起こったのか、少女も知らない訳では無い。
そもそも作戦に参加するにあたって事前説明は受けている。
その脅威の事も、起こり得る現実の事も。
結局自分の所にそれは起こらなかった。
外れ籤を引いてしまったのは、あの天才と英雄の末裔だ。
自分が直接その脅威を認識した訳ではない。
そして今、最高学府は無事に存続している。
脅威を退け、何事も無かったかのように回ろうとしている。
だが少女は思い出してしまう。考えてしまう。
故郷を滅ぼす絶望的な未来の事を。
英雄の末裔、ヴィザー・アージュバターナーは今も目を覚ましていない。
彼の魔王と戦った結果、重傷を負ったのだ。
魔王を相手には、ヴィザーという天才ですらそうなったという客観的事実。
であれば、国を亡ぼす程の何かとは何なのか。
それは【焔の魔王】ですらも超えるものなのか。
(――――――)
最高学府が無事だったのは少女にとっても喜ばしい事だ。
それは間違いない。だが考えてしまう。
【焔の魔王】を相手にしても最高学府は無事だった。
では未来に来る脅威は【焔の魔王】をも超えるものではないのか、と。
纏まらない思考なのは少女も理解していた。
だからこそ、こうして散歩をしている。
ふらふらと歩いて来たせいで、普段訪れない場所まで来てしまった。
そんな時、少女は。
「ん?」
■◇■




