英雄の資格とは、何かを救う時にこそ試される。
■◇■
「ヴィザー、私達は賢く在らねばならないんだよ」
「それはなぜですか。ちちうえ」
幼少期の記憶。
何処よりも温かく、何よりも温かな記憶。
「それはね。私達の御先祖様が英雄だったからさ」
「えいゆう、ですか?」
「そうとも。とっても賢い英雄さ」
父親が自身の膝の上に幼女を乗せて、本を読み聞かせている。
傍らには小さな燭台が立っていて、柔らかな光で手元を照らしていた。
「それは流れ、吹かれ、固まる。何か分かるかな」
「全て、ですよね。もうおぼえました」
「流石僕の娘だ。ヴィザーは本当に賢いね」
大きな手が幼女の頭を撫でる。
人肌の温もりが、髪を挟んで伝わって来る。
幼女はこの温もりが好きだった。
「この世界に変わらないものなんて無いんだ。ご先祖様はそれを知っていたんだね」
「……かわらないものは、ない」
「そうとも。当たり前の事かもしれない。けれど、とっても大事な事だ」
幼女は父親の言葉を静かに聞いていた。
内容はよく分からない部分もあった。
けれど、この話をする時の父親の表情はいつになく真剣なものだったから、幼女は父親の言葉を真っすぐに飲み込んだ。
「だから彼の血を引く僕達は、その事を誰よりも知っている必要がある。賢いっていうのは物事を多く知っている事だけを言うんじゃない。当たり前の事をしっかりと知っている事を言うんだよ」
「あたりまえの、こと」
ヴィザーの父親は魔術師だったが、名の知れた魔術師では無かった。
無欲で、謙虚で、優しい男だった。
田舎の片隅で魔術に関する書物を執筆して生計を立てる傍らで、近くの学び舎の子供達に簡単な授業をして暮らしていた。
母ともそんな生活の中で出会ったのだと聞かされている。
魔術師でありながら、どこか普通の人間。
そんな父親がヴィザー・アージュバターナーは好きだった。
「そうとも。例えば、誰かを助ける事とかね」
◇
「――――――」
熱い。
灼熱の中に、一人の幼女が立っていた。
辺り一面が火の海。肉が焼け焦げて、鼻を衝く異臭が漂っている。
そして火炎の中心にソレは佇んでいた。
「―――いる?」
最後の記憶は、家族で星を眺めようと庭に出た時だった。
大陸を周遊する箒火星が、村の近くを通ると聞いたからだ。
その後の事を、ヴィザーはよく覚えていない。
ただ至る所から聞こえる絶叫が、彼女を現実に引き戻したのだ。
「いるいるいる?」
炎がヴィザーへと近付いて来る。
身体が動かない。恐怖を感じる事すらできない、圧倒的な絶望。
無抵抗で不確かな、虚無感が彼女に纏わりついて離れない。
残り数歩分。火炎が近付く度に、熱は一層濃くなっていく。
そして火炎が腕の如き部位を伸ばした―――その時。
「……まも、れ」
分厚い水の膜がヴィザーを覆う。
火炎の向こうに見えるのは、焼かれていく何かの姿。
すぐには分からなかった。だが伸ばされた手は、発された声は確かに……。
「に、げ……る……だ」
その何かは全身を炎に包まれたまま、ふらふらと立ち上がる。
何処にそんな力が残っているのだろうか。辛うじて見える火の奥は黒く焦げている。
無事である筈が無い。火が今すぐに消えたとしても、助かる余地は無いかもしれない。
だがそれは余りも鈍い足取りで、火炎へと歩き出す。
自分の命すら省みず、他ならないヴィザーを助けようと歩き出す。
それが当たり前であるかのように、歩き出す。
そして、
「もえる」
「――――――ぁ」
新たに放たれた火炎によって、灰と化した。
圧倒的な火炎に焼かれ、匂いも音も無く何かは灰になった。
全てが焼失し、灰になって消えた。
そして何処からか風が吹き、灰すらも崩れて消え去っていく。
当然ながら、灰は何も語らない。
温かな手も、形も無い。
ただ、そこには何も無い。
「いる」
ぐるりと火炎がヴィザーの方を向く。
正確には、向いているかどうかすら分からない。
火炎に顔は無い。だから何となく、ヴィザーは見られているという気がしただけだ。
そして―――
「 いない」
そこでヴィザーの記憶は途絶えている。
◇
「ヴィルスは、君の父は私の教え子だった」
そこは何処かの館の一室だった。
豪奢ではないが、決して貧相でも無い家具と装飾。
目の前の身なりの良い老人が、高い身分である事を示していた。
「優秀な男だった。誰よりも基礎を重んじ、多くの魔術理論を生み出した。正しく、賢き者であった」
老人は心底残念そうに語る。
ヴィザーは目の前の老人を見た事は無かったが、それなりに父と親しい関係であったのだろうと思った。
「今回の事は……非常に残念に思う」
老人がその言葉を口にした時、不思議とヴィザーは理解した。
愛しき家族がもう存在しない事を。
帰るべき家は跡形も無く燃えて無くなった事を。
自分は最早、孤独だという事を。
「ヴィルスの娘よ、名は何と言う」
「……ヴィザー」
「そうか。ではヴィザーよ、一つ提案がある」
老人がヴィザーの眼を見る。
老人とは思えない程、力強い眼差しだった。
「私の養子にならないか」
養子。聞いた事はあったが、自分とは縁遠いものだと思っていたもの。
「勘違いするでないぞ。私は憐憫から提案しているのではない。君には才能がある。今は芽吹いたばかりの、しかし大樹の如き才能がだ」
老人がヴィザーの手を握る。
深い皺の入った、いかにも老人といった手。
しかし、その手は大きく………何より温かい。
「……さいのうなんて」
「ある」
老人が力強く断言する。
「君はあの火炎を三日三晩生き抜いた。君のような子供がだ。魔術を扱う天賦の才が無ければ、到底なし得ない事だ」
ヴィザーに記憶は無かった。
気が付けばこの館の一室で寝かされていた。
後から使用人に受けた説明で、あの日から三日が経過している事を知ったのだ。
そしてそれが、常人には不可能な方法であった事も後から知ったことだった。
「……わかりました」
「そうか。なら私達は喜んで君を迎えよう」
「名前を……」
「そうか。まだ名乗っていなかったな」
ヴィザーはこの時、初めて老人の名前を知った。
ヴィザーの人生において、もう一人の父親の名前を。
「私はガルミ。ガルミ・アズバードだ」
■◇■
不思議と悲壮感は無かった。
――――――火が迫る。
それだけ目前の脅威が圧倒的だったからだろうか。
――――――火が来る。
或いは、それがヴィザーという人間の本性だったからなのか。
――――――火が襲う。
走馬灯というものをヴィザーは初めて経験した。
過去にヴィザーの命が風前の灯火になった時、その時のヴィザーはあまりにも幼く、明確な走馬灯は現れなかった。
思い出すのは父の事、そして養父の事、そして―――。
「――――――」
ヴィザーにとって、教師という道を歩んだのは本当に偶然だった。
魔術師として歩む傍ら、偶然の巡り合わせでそうなっただけだと考えていた。
教師を務める事に対し、大きな拒否感は無かった。自分も最高学府という場所で様々な教師に教わり、助けられてきた。自分もその立場になるだけのこと……そんな風に捉えていた。
だがここに来てヴィザーは、ヴィザーが思う以上に父の影響を受けていた事を知った。
「―――誰かを助けること」
火が、火が、火が。
滅びを呼ぶ焔の雨。
伝説に謳われる、破滅の火。
だが、ヴィザーは狼狽えない、後退りしない、逃げたりしない。
ヴィザー・アージュバターナーは英雄の末裔であり、偉大な父の子なのだから。
ヴィザーには守るべきものがある。
それは最高学府そのものであり、内に住まう人々であり、数多の学徒であり、最愛の人。
ヴィザー・アージュバターナーを救った、彼女にとっての英雄。
自分を救う為に、自分を犠牲にした彼女にとっての灯。
故に。
「―――〈三態自在酒杯〉」
彼女は魔力を注ぐ。
彼女はその名を呼ぶ。
託された名だ。受け継いだ名だ。
誰よりも誇らしい名だ。
生み出される巨大な水壁。津波と見紛う程の水の大壁。
最高学府を覆う外壁をも覆う程の、巨大な防壁。
それらが次々降り注ぐ火の雨を―――受け止める。
燃え盛る焔が莫大な熱を以て一瞬で水壁を消し飛ばす。
立ち昇る蒸気の白煙。鳴り響く轟音。
それでも水の壁は無くならず、絶え間なく注がれる魔力によってすぐさま修繕されていく。
蒸発して空気中に逃げた水分を操り、瞬間的に補充しているのだ。
しかしそれでも足りない。
未だに火の雨は空に残っている。
無数の火が撃ち出され続けている。
いずれ修繕も間に合わなくなるだろう。
だからこそ、ヴィザーは魔力を惜しまない。
「〈水流強化〉〈魔力賦活〉〈魔力過動〉」
強化魔術を重ね掛け、ヴィザーは魔術の制御を手放さない。
強化魔術によって水壁は厚みを増し、水量を増し、より巨大な波となって聳え立つ。
火が降る度に波がその全てを受け止め、掻き消していく。
限界はとうに超越している。
魔術回路が裂けていく痛みがヴィザーを襲う。
血管が負荷に耐え切れず千切れ、血の涙が頬を伝う。
魔力の過剰な消費は後に障害を残す可能性もある。
ともすれば以前と同じように魔術を行使できなくなる可能性もある。
だが、それでも。
「―――ッ!!」
ヴィザーは魔力を注ぎ続ける。
それは自負だ。
自分という存在の、ヴィザー・アージュバターナーという存在への自負。
故にヴィザーは退かない。
護ると決めたものがあるから、今度こそ自分が救うと決めたのだから。
そうして―――
◇
満天の星空の如く出現した火は、既に空には無かった。
【焔の魔王】の魔法によって出現した全てが降り注ぎ、一度の終わりを迎えたからだ。
では最高学府はどうなったのか。
文明を破壊する火を受けて、最高学府は廃墟と化したのか。
違う。最高学府の外壁は健在であった。
都市型結界には傷一つ無く、周囲には一人の死体も無い。
まるで何事も無かったかのように、全ては静謐だった。
ヴィザー・アージュバターナーが全てを護りきった証拠であった。
「――――――」
満身創痍。身体は無傷なれど、内部はそうではない。
過剰に魔力を消費した彼女の魔術回路はズタボロの状態であり、最早魔力を通す事すら出来ない。
体力も底をつき、立っていられるのが不思議な程だ。
だがそれでも【焔の魔王】は健在である。
「すすむ」
当然だ。あくまでヴィザーは攻撃を防いだだけ。
【焔の魔王】へは攻撃できていない。
「は―――」
そして、遂にヴィザーの身体が崩れ落ちたその時。
「お疲れ、ヴィザー」
地面に落ちる寸前で彼女の身体は抱きかかえられた。
ヴィザーはその声の主が誰か知っていた。
その手の温もりを知っていた。
「シ………ジュウ」
辛うじて開かれた目に映るのは、彼女の幼馴染であり恋人でもあるシジュウだった。
彼は誰よりも優しく微笑んで、力の抜けたヴィザーの身体を抱いていた。
「すま、ない……シジュウ」
「ありがとう。でも、もう喋らない方が良い」
ヴィザーの言葉をシジュウは優しく返す。
肯定も、否定もしない感謝の言葉。その優しさが苦しくなる程に懐かしい。
それはヴィザーが二度と甘えないと誓った、彼の優しさだったから。
「私が、お前を護ると………誓った、のに」
「……大丈夫だよ、ヴィザー。私なら大丈夫。寧ろ、皆を護ってくれてありがとう。やっぱり君は本当に凄い人だね」
シジュウの言葉がヴィザーに届く。
ああ、いつだってそうだった。
シジュウという人間は、いつだって自分を救う。
無力感を和らげ、孤独を亡き者にしてくれる。
だからこそ、ヴィザーは知っていた。
「……君が次に目を覚ました時、全ては終わっているだろう」
この後に、彼が何をするのかを。
「だから幸せな眠りに……今は就いて」
「だが、シジュウ……!」
「〈安眠〉」
「っ……」
対象を眠らせる魔術を受けて、ヴィザーの意識が急激に遠のいていく。
生物に直接働きかける魔術は本来、対象の魔力に影響を受けてしまい、余程の力量差が無い限りは効果を発揮しない。この〈安眠〉も普通は怪我人や病人を眠らせる為の魔術だ。
だが本来のヴィザーなら通用しない筈のその魔術も、今のヴィザーにはあっさりと効果を齎した。
「君達、ヴィザーを安全な所へ運んで」
「で、ですが………!」
「大丈夫。それに、私は一人の方が良いんだ。それに、どうにかする方法もちゃんとある」
「―――っ!承知いたしました……」
「ありがとう」
魔術師達はシジュウの事を知らなかった。
教師としても見た事が無かった。学徒としても見た事が無かった。
だがシジュウの服装を見て、正確には胸に付けられた紋章を見て彼等はそれ以上何かを言う事は無かった。その紋章には、それだけの力があった。
それからの魔術師達の行動は速かった。
複数の魔術をヴィザーに付与し、肉体を保護した後に彼女を運んで退却していった。
外壁まで一直線。それなりの距離だが、あれだけの魔術師が付き添っていればヴィザーが危険に晒されるという事はないだろう。
そうして誰も居なくなった後、シジュウは【焔の魔王】へと向き直る。
何故か攻撃してこなかった魔王。
だがそれは決して敵対状態で無くなったという意味ではない。
今は単に、新たに表れたシジュウを吟味していただけだ。
その証拠に【焔の魔王】は大きくなっている。
肉体を構成する火炎は一回り大きくなり、熱量を増している。
火が燃え広がる様に、魔王の脅威もまた大きくなっていた。
「私はね、怒っているんだ」
「くるくるくるすすむ?」
「人生で一番怒っているんだ」
火炎に照らされて、シジュウの胸の紋章が輝く。
それは魔術師の家系を表す紋章だった。
その紋章は―――『杖を咥えた鳥』。
「ヴィザーは私の灯なんだ。だから―――」
魔術師の家系にとって家紋は珍しい文化ではない。
歴史が長い家系程、家紋は浸透した文化である。
故に最も重要なのは、それが何を表す紋章なのかという事だ。
「遂に来たか」
何処かの空間で、最高学府の長は言った。
「この魔力―――そんなまさか!?」
何処かの外郭で、若き天才魔術師が叫んだ。
「……それがお前の選択なのだな」
何処かの場所で、六門主の長老が呟いた。
『杖を咥えた鳥』の紋章は最高学府において最も知られた家紋の一つである。
何故ならばその紋章は、とある六門主を示すものだからだ。
それこそは最高学府において最も大きな部門を率いる家系であり。
それこそは最高学府において最も万能なる力を有する家系である。
その家系の名はアズバード。
現代魔術部門を治める門主。
そして、その紋章を飾るシジュウの真名こそが―――
「―――お前を排除する」
カルラ・アズバード。
アズバードの元後継者である。
■◇■




