文明とは智慧の灯火である。
■◇■
『序列論』。
それは遥かなる過去から今尚改訂され、刊行され続ける一冊の本の名である。
特に『忘れるな』より始まる一節は、『序列論』自体を読んだ事が無くとも知る者は多い。
この本が大賢者の魔導書に並ぶ程に多くの人間に読まれてきた事は最早疑いようの無い事実だ。
だが、それ故にとある魔術師は『序列論』を批判した。
「『序列論』が人間にとってどれだけ必要不可欠な物か、最早論ずる迄も無い」
「我々は忘却する。所詮、人の命は儚きものであるが故に」
「川が流れるが如く、命脈は絶えず、然して同じものは無い」
「そうして月は欠け、花は散り、草木は枯れる。栄枯盛衰、万物流転、全ては流れていく。しかし文字は歳月を越えて文化に根付く」
「根付きしものは、高く聳え我等を助ける」
「『序列論』とは、弱き我等の拠り所たる大樹に違いは無い」
「然し、鬱蒼と茂る木々の間隙に木漏れ日があるという事は、これ即ち大樹の傍にこそ陰が潜むという事に他ならない」
「日があれば陰もまた存在する。表裏一体、当然の理だ」
「心得よ。序列に並ぶ十二の枝は確かに目を見張る。然し世界樹に枝が十二であろう筈も無い」
「枝葉は有限なれど、無数に分かれ、大樹を一層旺然とさせる」
「忘れるな」
「序列とは即ち、目に見える形でしか無い事を」
序列科科長―――ペリエ・アリル・ウルフストン。
■◇■
最高学府南西部外郭。
高く聳え立つ外壁。その付近にて二人の魔術師が歩いていた。
一人は水晶の如き空気を纏う少女、クリスタル・シファー。
一人は中性的な装いをした男装の麗人、ヴィザー・アージュバターナー。
両者共に、最高学府が誇る天賦の才を有する若き魔術師だ。そんな魔術師達が、最高学府の外を歩いている。
「今日はよろしくお願いします」
「ああ、よろしく頼む」
クリスタルの挨拶にヴィザーは普段と変わらぬ様子で返事を行う。
だがその視線はすぐにクリスタルから外れ、青空を見つめている。
時刻はもうすぐ昼時。空はまだまだ美しき青を湛えている。まるで大海の如き澄み渡る青だ。
「私達の担当区域はここら周辺だ。壁の付近だから魔物避けは効いているとはいえ、ここはもう最高学府の外だ。決して油断はするなよ」
「心得ています」
「そうか、なら良い」
天空から視線を離す事無く、ヴィザーは教師らしくクリスタルに注意喚起する。
クリスタルからすれば当然の事ではあったが、当たり前の事でも態々注意をするあたりに彼女の教師としての面倒見の良さが表れていた。
しかしこれが仮にゼルマなら彼女の今の行動に違和感を覚えたに違いない。その覚える筈の小さな違和感に、ヴィザーとは殆ど初対面に近いクリスタルは気が付かなかった。
二人はゆっくりと歩く。
具体的な道順が指定されている訳ではない。
ヴィザーの言うように、二人が担当するのは現在地の周辺範囲内だ。
今は壁から少しずつ離れるように歩いている状態だ。
そうして、クリスタルが壁の方向、つまりは最高学府の方を向いて呟く。
「少し残念な気もしますね。折角なら壁内の方が良かったのですが」
「学園長から既に聞いているとは思うが、特待生は全員外郭に配置される事になっているからな。君達の安全の為にも仕方の無い事だ。それとも行動を共にするのが私では不満だったかね」
「不満はありません。ですが、こんな機会は滅多にありませんから。見られるなら是非とも近くで、と」
「……こんな事は起こらないに越した事は無い。好奇心旺盛なのは魔術師として素晴らしい資質だが、人間としては少し慎みを覚えた方が良いかもしれないな」
「そうですね。勿論私も無事故に終わる事を願っています。……中に友人がいますからね」
最高学府は広大だ。そしてその範囲は堅牢な防御によって守られている。
高く聳え立つ壁、そして最高学府を覆う都市型結界。
最高学府を守護する二種類の『壁』である。
特に都市型結界は学園長キセノアルド・シラバスを主として張られた世界最高峰の結界魔術。
大陸中に誇る、結界魔術の至上魔術である。
最高学府に張られた都市型結界には多種多様魔術式が無数に組み合わされており、様々な効果を内外に齎す事ができる。単なる結界とは規模も性能も桁違いなのだ。
外部に作用する魔物避けの効果もその内の一つ。この効果により、最高学府から一定範囲には魔物が近づく事は滅多に無い。
他にも多少の破損ならば自己修復する機能や、魔物を迎撃する機能、空間転移を感知する機能も備えている。余りにも結界の機能が多機能かつ複雑である為に、最高学府には結界管理局という組織が存在する程だ。
故に、本来危険なのは壁の内側よりも外側の方の筈である。
壁と結界によって守られた最高学府は、大国の王都と比べても勝るとも劣らない防衛力を備えている。
にもかかわらず、安全の為にと特待生は外郭に配置された。
安全を考慮するならば、内側に配置されるべきだというのにだ。
理由は理解出来る。
特待生は最高学府の宝。学園長から直接認められた天才の集まり。
特待生一人の価値は、単なる金銭とは比較にもならない。
この作戦に参加させられている時点で同じだいう考えの者も居るだろうが、それでも少しでも安全な場所に配置される方が良いに決まっている。
故に、安全を謳うのであれば特待生は壁の内側に配置されるべきだ。だが現実にヴィザーとクリスタルが居る場所は学府の外である。
しかも彼女達が居るのは壁から少し離れた場所、魔物避けの効果が発揮されるギリギリの場所だ。
大きく見れば壁の付近と言える場所ではあるが、当然壁から離れる程に危険は増していく。
都市型結界の魔物避け効果も薄まり、まばらではあれど魔物とも遭遇するようになる。
これ等が示す事実は、一つしかない。
そして誰もがその理由を知っている。
少なくとも、この二人の魔術師は強く認識している。
「……眩しいな」
ヴィザーは青き空を静かに眺めながら、そう呟いた。
その視線が、クリスタルには空よりも何処かもっと遠い場所を見ているように感じられた。
■◇■
「うおー楽しみだな!結構人も集まってるしよ」
「別に最高学府の何処で見ても変わらないと思うが……少しでも高い場所を、と思うのは共通なのだろうな。私もその一人だが」
「折角なら少しでも近い所で見たいじゃんか」
最高学府に点在する塔、その内の一つ。
塔の屋上階には既に十数人の先客が居た。周囲を観察すれば、動揺に他の塔の屋上にも人影が見える。
普段ならば態々塔の屋上まで上る人間はこれ程多くない。塔の高さは様々だが、階段を上るという行為は一定の労力を要するからだ。
では何故、彼等は塔の屋上に居るのか。
目的は共通している。
最高学府を訪れる箒火星。
その箒火星が最高学府の上を通過すると予想された日が今日なのだ。
「これを見逃せば次にいつ機会があるか分からないからな。そう思っても仕方ないさ」
「だよな。ジジイになってるかもしれないしよ」
「そもそも一生の内に直に見られる事自体が幸運だからな」
「お前は人種の二生分くらい生きるから確率は二倍だな」
「それが正に今という訳だ」
箒火星は大陸を周遊している。そしてそれは均一ではない。
広大な大陸で箒火星を直接見る機会は非常に低い。
一〇〇年を優に超える寿命を持つエルフですら、その一生の内で見る機会が無いまま人生を終える者も居るくらいだ。
「しっかし、ちょいと残念だったよな」
「何がだ?かなり良い場所を確保できたじゃないか」
元々適当な場所で見るつもりだったエリン達を連れ出し、塔まで上らせたのはフリッツの提案だった。特に断る理由もなかったので、その提案に乗って態々塔を上って来たのだ。
「いやよ、箒火星って要は滅茶苦茶でかい火の玉なんだろ?なら夜に来てくれた方が綺麗に見えたんだろうなって思ってよ」
「ふむ……確かにそうかもしれないな。だがそれでも十分過ぎる輝きを放つと本には書いてあった。それに空の青さと炎の輝きはまた違った色合いだ。見えないという事はないと思うぞ」
「それはそれで不思議だな?」
「箒火星の光が所謂魔力光だからだと言われているな」
魔力光とは濃密な魔力が放つ光の事だ。
現象としては未知の部分が多く、はっきりしているのは自然現象による発光とは異なる仕組みで動いているという事程度。
発生条件が不明瞭である事や、研究の為の魔道具開発が遅れている等の理由から、最高学府であっても研究が思うように進んでいないのが現状なのだ。
だがそれでも魔力光という現象自体は広く知られたものだ。非魔術師であっても見た事がある者は多いだろう。環境によっては魔術が介在せずとも魔力光は発生するのだから。
「ほーん。……あっ!!あれじゃね!?」
フリッツが指さした方向に見える赤い点。
それは青空の中にあって、唯一の真紅。
夕焼けとも異なる、火焔の色彩が少しずつ大きさを増していた。
「―――美しいな」
エリンが呟く。
フリッツもゼルマも静かにその光景を眺めていた。
箒火星の名前の通り、天空を火炎は流れていく。
青空に生じる、赤の軌跡。
幻想的な、自然の奇跡。
「……これを見たのなら、仕方ないのかもしれないな」
誰に向けたかも分からないゼルマの言葉。
過去の人間達は何を思ったのだろう。
燃え盛る星が頭上を通り過ぎ、焔の残滓が美しく浮かぶ。
一度見たら忘れられない。超常なる現象。
だが―――
「ん……なんか」
それは生き残った者に限る話だ。
当然の事ながら。
言葉を伝えられるのは生者のみなのだから。
「―――落ちてね?」
瞬間。轟音と共に真紅が爆ぜた。
方角は南西。
火が来る。
■◇■
爆発と共に、尋常ならざる熱波が周囲を襲う。
「―――逃げろッ!!!!」
ヴィザ―が叫ぶ。普段の彼女とは似ても似つかない大声。
常に冷静沈着な彼女が発する、激情を反映した叫び声。
ヴィザー・アージュバターナーが示した全身全霊の危険信号。
対象は当然、この場に居るもう一人の魔術師。
教師として護るべき教え子、クリスタル・シファー。
だがもう遅い。
既に、ソレは降臨している。
「 いる」
ソレは宙より落ちて地に至る、燃え盛る星。
大陸中を巡り、眩く、怪しく輝きを放つ凶星。
時に人は自然現象だという。
時に人は精霊の享楽という。
時に人は天の凶兆だという。
嗚呼、どれも嘘ではない。誰も嘘ではない。
嗚呼、嘘では無いが故に。
嗚呼、嘘だと叫ぶ。
「いるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいる」
空気が震える。熱が伝播し、存在はより濃密に顕在となる。
燃え盛る焔。揺らぎ、瞬き、鈍い朱色の輝きを放っている。
空間が恐怖しているのか。それとも有りえざる熱が、幻でも生んでいるのか。
壊れた機械の様に音を垂れ流すソレが起き上がる。
「なんともまぁ……因果なものだな」
火炎が緩やかに一歩を踏み出す。
人型の様に見えるが、決してそれは人ではない。
両腕両足が揃っていようとも、それは決して人ではない。
全身に纏う魔力が、絶えず燃料となって燃え盛る。
一歩踏み出す毎に熱が増す。
一歩踏み出す毎に地面が融ける。
ヴィザーとの距離はまだ遠い。
だがそれでも理解できる。
これがそうだと。
刮目せよ。
これこそは、到達点が一つ。
世界に見放された存在。
あってはならない異常存在。
人類の叡智であり、最もありふれた脅威。
「なぁ」
意思持つ業火。文明を灰燼に帰す者。
箒火星と呼ばれた自然現象の正体。
かつて栄華誇りし都市を一晩にして廃墟に変えた、狂霊。
魔術師の上位互換。
「―――【焔の魔王】」
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