それは雲に穴を空けるようなものだ。
■◇■
「な、ぜ……?」
エリザベート・コルキスは思わず声を漏らしてしまう。
疑問を抱くのは何も悪い事ではない。
疑問すら生じない状態こそ真の無知であるが故に。
しかし戦闘において……特に殺し合いのような場においてそれは推奨された行為ではない。
特に、考察すら交えない思考の停止は……普段の最高学府においてもしてはならない事だ。
疑問の理由は単純だった。
だが単純故に、彼女の脳は理解を拒んだ。
「どうして、魔術が―――」
そうだ。エリザベートは魔術を放った。
魔術陣に待機させていた四つの魔術を消費し、血統魔術まで用いた。
手の内を晒す事を嫌って魔術を出し渋った結果、戦いに敗れ血統を途絶えさせた魔術師は何人も存在する。咄嗟の判断でそこまで放出した彼女の判断力は流石最高学府の精鋭と呼ぶに相応しいものだった。
そこに間違いはない。彼女の判断に間違いはなかった。
だが結果は違う。
「魔術が―――消えたの……?」
彼女が放った四つの魔術が……彼女の目の前で消えた。
四つの魔術はゼルマの肉体に到達する事無く、ある地点で消失したのだ。
それは有りえない光景だった。
魔力が足りなかった筈が無い。
いやそもそも、ゼルマは詠唱すらしていない。
何も動かず、何も話さず、何もせずにゼルマは魔術を消したのだ。
どんな魔術の発動にも魔術式を編むという工程は必要不可欠だ。
それが魔術であるのなら、魔術式を編むという過程を省く事は出来ない。
魔術陣とて理屈は同じである。
だがゼルマにその動作は見られなかった。
魔術節による略式詠唱も、古代魔術における詠唱もしていない。
魔道具の起動も感知していない。
彼はただ立っていただけだ。
加えて今、
「―――理由を知りたいか?」
エリザベートの拳はゼルマによって受け止められている。
「―――ッ」
それは当然の流れだった。
部分的にではあるが竜の膂力を手に入れたエリザベートは彼女の四つの魔術と共にゼルマへと襲い掛かった。魔術による攻撃と物理的な攻撃、二つの力を一気呵成に畳み掛けゼルマを屠る為に。
それなりの広さがあるとはいえ今エリザベートとゼルマが居る場所は広大とは言い難い。
闘技場よりも多少狭い程度、会話が十分に成り立つ距離である。
エリザベートの血統魔術、〈竜血よ我が身を燃やせ〉で今回変化したのは彼女の右腕だけだが、魔術の効果によって全身を巡る魔力は活性化し身体能力も幾分か向上している。
それはある意味〈身体強化〉等の魔術に代表される身体能力向上の魔術に似通ったものであり、ゼルマとの距離程度であれば三秒と距離を詰めるのに要しない。
だが、それ故にエリザベートは留まる事が出来なかった。
魔術が消失した事を認識した時点で既にエリザベートの加速は終了しており、そこから停止して軌道を変えるには時間が足りなかったのである。
しかしそれでも問題ない筈だった。
魔術が消失したとはいえ、エリザベートの直接攻撃とて十分な威力を有している攻撃だ。一度目の魔術が消失した事を受けて、直接攻撃も組み合わせたのは適切な判断だった。
なのに、動かない。
(有りえませんわ……今の私を防ぎきるなんて……!)
今のエリザベートの右腕は竜の腕である。
高密度の魔力を纏い、そもそもの肉体の構造から異なっている。
細腕のように見えても剛腕であり、薄い爪であっても岩石を切り裂く腕である。
それをゼルマは受け止めている。
エリザベートがピクリとも腕を動かせない程にがっちりと。
魔術と使った素振りも無く。
「良い攻撃だ。魔術と物理攻撃を合わせたのも咄嗟にしては上出来だろう。だが自分の力を過信し過ぎだ。物理攻撃には物理で迎える……魔術の定石だろう」
「……どうやって私の攻撃を!」
エリザベートが腕に力を込める。
鱗と鱗が擦れる音が鳴る。ギリリと金属同士が擦れるような音だ。
それでも彼女の手はゼルマから逃げる事が出来ない。
「身体強化の魔術も使わずに、どんな手品を用いたのですか!?」
「手品なんて使っていない。使ったのは単なる〈身体強化〉だ」
「馬鹿な事を!貴方は一度も魔術を使っていないではありませ―――ッ!?」
エリザベートが吠える。
確かにゼルマが魔術を用いた素振りは無い。
現に彼女の眼にも何も………本当に?
「貴方……いったい何者ですの?」
エリザベートの眼には今も〈魔力感知〉の残滓が残っている。
強化された視界には今も微弱ながら、魔力の流れが映っている。
そして気が付いた。至近距離に来て、ようやく気が付いた。
ゼルマの肉体を覆う、魔術の気配。
それがたった今、脈動するかのように強まった事を。
「―――〈廻る世界の時針〉」
ゼルマは淡々と言う。
「簡単に言えば、魔術を発動させる魔術だ」
それはゼルマ自身が開発した、彼固有の魔術。
彼だけが魔術式を知る、彼だけの固有魔術。
その効果は魔術の起動時に設定した魔術を任意の間隔で定期的に自動発動させるというもの。
簡単に言えば、魔術を発動させる為の魔術である。
「魔術を……?」
「そうだ。この魔術は起動時に設定した魔術を定期的に発動させる魔術。一々魔術式を書く必要もない。〈廻る世界の時針〉を解除するまで、半永久的に同じ魔術が発動され続ける」
魔術が魔術を発動させる。半永久的に定期的に。
あたかも時計が針を動かすかのように。
魔術を自動的に発動する魔術。
それこそは魔術式に魔術式を埋め込む無法の業。
遅延魔術の理論を流用してゼルマ・ノイルラーが作り上げた彼の魔術である。
「俺が今回設定したのは単純な〈身体強化〉だ。だが……」
「――――――」
―――何秒経った?
エリザベートは戦慄する。
その考えに思い至ってしまったが故に。
ゼルマの言う通り〈身体強化〉は最も基本的な魔術の一つだ。身体能力を向上させ、常人には不可能な運動を可能にする。生存に直結するこの魔術は多くの魔術師が最初期に学ぶ魔術でもある。
だが同時に、この魔術を突き詰める魔術師というのは少ない。
何故ならこの魔術は結局の所身体能力の強化に過ぎないからだ。
人間種の肉体の構造上、魔物のような人間離れした運動は難しく、実力のある魔術師ほど身体能力に頼り切った戦いはしないからだ。
〈身体強化〉とは基本であるが故に、完結している魔術だと言えるだろう。
だからこそ、重ね掛けは滅多にされない。
現代魔術であれど魔術節を唱えて魔術式を書くという工程が存在する以上、少なからず意識と魔力を割かなければならない。
遠距離から火力の高い魔術を放つ方が余程効果的だからだ。
それでも―――もし、そんな事をしているのならば?
意識を割かずとも、時間をかけずとも、魔力が重ねられていくのならば。
時間が経過するだけで、〈身体強化〉が発動されていくのならば。
「―――っ!」
「降参、するか?」
ゼルマの手が強く握られ、エリザベートの拳が圧される。
竜の右腕を握り潰さんとするが如き膂力。
荒ぶる竜の力を上から抑え込む純然たる握力が彼女を襲う。
それは先程まで拮抗していた筈の力関係が傾き始めたという証左。
(このままでは―――)
エリザベートの脳裏に過る、とある結末。
しかし、彼女はそんな自分の考えを否定するように笑い飛ばす。
「ふ、大した脅しですわ。でも―――私の魔術がここで終わりだと考えているのなら、とんだ愚か者ですよ」
「へぇ……まだやる気があるとはな?」
「物理には物理で対抗する……良いアドバイスをありがとう!」
エリザベートがゼルマに掴まれていないもう片方の腕で、自身の胸元へと入れる。
ブチ、と音が聞こえた後に取り出された彼女の腕に握られているのは何かの骨のようなもの。
それを彼女は―――投げる。
「来なさい!不死兵共よ!!」
「―――!」
瞬間、ぜルマの掴んでいる腕を打つ衝撃。
鈍器だ殴られたかのような、重たい衝撃がゼルマの腕を襲った。
一瞬、鈍い痛みが走った事によりゼルマは手の力を緩めてしまう。
その一瞬を、エリザベートは見逃さなかった。
後方へと身を反らし、軽快な身のこなしでゼルマに攻撃を加えつつ後方へと距離をとる事に成功する。普通の人間ならば難しい動きだが、今の彼女ならば造作もない。
しかし、ゼルマが意識を向けていたのは逃げる彼女よりも……自身の腕を攻撃した存在達。
「……古代魔術が専門だと聞いていたが……成程、こっちも熟せる人間だったか」
それ等こそはエリザベートの魔術陣待機枠最後の一つ。
竜の死骸という希少素材を用い、加工し、彼女の血を垂らして製造された魔像の一種。
普通の骨死体とは一線を画す、戦う為に作られた存在……竜牙兵である。
それが、計一〇体。
「まさか、貴方相手にコレを使わされるなんて思っていませんでしたが……形勢逆転ですわ」
「…………」
竜牙兵は単なる魔像ではない。
普通の骨死体よりも遥かに頑強であり、遥かに強固な不死兵である。
彼女が込めた魔力が持続する限りは動き続け、多少の損傷であれば回復する。
一体一体が今のエリザベート並みの力を有する存在達。
間違いなくエリザベート・コルキスのもう一つの切り札だ。
「さぁ、行きますわよ―――!」
エリザベートは竜牙兵に念を送って命令を下す。
下した命令は当然、『ゼルマ・ノイルラーを攻撃しろ』。
時間が彼の味方である以上、数の暴力で圧倒する策という訳だ。
エリザベートの命令を受け、竜牙兵が統率のとれた動きで攻撃を仕掛ける。
剣を持つ個体が突撃し、弓を引く個体が射撃する。
〈身体強化〉によって手の付けられなくなるまでに、彼を倒す為に。
ゼルマの腕が、振り下ろされた剣を受け止めている。
音からすると、服の中に何かしら防具を付けているのだろう。
だが間髪入れず、襲い掛かるもう一つの剣。
背後からは弓が迫り、ゼルマは身体を翻して避けるが剣を胴に入る。
しかし、すんでの所でゼルマは剣を手で受け止め、直撃を避けていた。
「貴重な素材を使っているらしい……本職にも劣らない性能じゃないか」
「黙りなさい!!」
「出し惜しみしてったて事は、そういう事なんだろ」
そうだ。
強力なエリザベートの竜牙兵だが、全てが万能ではない。
その能力は物理に偏重しているし、なにより使い回せない。
竜牙兵の素材は貴重な竜の骨と、繋ぎの役割を担う幾つかの素材、そして彼女自身の血液だ。
竜牙兵に込めた魔力とは起動の為の魔術、〈竜牙よ、我が身を護れ〉と彼女の血液の事だ。故に製造時に込めた血液を消費しきれば、竜牙兵は停止してしまう。
起動する為の魔術は再装填すればいいが、触媒はそうもいかないのである。
血液を消費しきった竜牙兵はそのまま崩壊してしまい、素材を回収する事はできない。
強力であるが、使い切りの魔像。それが竜牙兵なのだ。
故に、こうしている今も竜牙兵の稼働時間は少なくなっている。
させる命令にもよるが、戦闘時の稼働限界はおよそ五分。
一度の戦闘で考えれば十分な時間だが、費用から考えれば余りにも効率が悪い代物だ。
それでも彼女は使った。
彼女の心情が、信条がこれ以上の敗北を許さなかったからだ。
彼女の目的の為にも、命令を必ず遂行しなければならないのだ。
だからこそ、彼女は確信する。
(いける!このまま―――)
「〈終末宣告〉」
瞬間。
竜牙兵は崩れ、
彼女を護る不死の兵士達は、
物言わぬ死体と化した。
「え――――――?」
何度目だろうか。
彼女は自身の眼を疑った。
人間は理解を越えたものを目にした時、思考が停止するものだ。
最高学府の魔術師にとって最も許されない思考停止。
それでも彼女は―――想像できなかった。
何秒か。
時間等、意味があったのか。
それは余りにも瞬間的だった。
例えるのならば、瞬きをした瞬間に木々が生い茂る森林から荒涼とした荒野へと移動したかのような、そんな感覚だった。
「なに、が」
「何も?さっきも見たじゃないか」
「さっ……き?」
そこでようやく、エリザベートの思考は検索を再開する。
そうだ。見た事があったではないか。
それは、最も最初の記憶である。
エリザベートが放った魔術、燃え盛る竜を模した火焔を放つ魔術である〈竜炎よ、我が敵を喰らえ〉を打ち消した光景に酷似しているのだ。
だが、だからこそ。
魔術の名前が分かった今、彼女が抱いた感想は―――
「こんな魔術……知らない…………」
「そうだろうな。古い魔術だ」
「そんな……違う……これは……」
そうだ。彼女はこの魔術を知っている。
昔、手に取った古い物語を集めた本。
そこにあった、とある王の名前。
それこそが……
「満足か?」
「っぅ!」
エリザベートの意識を引き戻したのは、他ならぬゼルマの言葉だった。
否定したい感情を強靭な理性で、抑えて彼女は答える。
「…………大人しく、降参するとでも?」
「ならどうするんだ?アレは使い切りなんだろう」
「…………さぁ?まさか、私を抑えただけで襲撃が止められるとでも?」
最早、彼女が勝てる見込みは無いに等しい。
部下達が戻って来る事は無いだろう。戻って来たとしても、目の前の魔術師に勝てる筈も無い。
賭けるとすれば、闘技場の地下に居る仲間が―――
「――――――!」
エリザベートは駆け出す。
偶然か、ゼルマの背後にそれを見たからだ。
ゼルマも咄嗟の事だったのか、駆け出すエリザベートを追いかけない。
その意図を測る事は出来ないが、エリザベートは無意識に、反射的に駆け出した。
(何で?どうして?でも、今は―――!!!!)
〈視力強化〉〈魔力感知〉を使うまでも無く、見えたのだ。
それは、結界に空いた大きな穴。
本来打ち込む筈だった場所に空いた、大穴が彼女の眼に映った。
彼女が力を振り絞る。多くの魔術で消耗してはいるが、問題は無い。
彼女が今感じている疲労は魔力の消耗では無く、精神に由来するものだ。
故に、彼女に見えた希望が力を与えてくれる。
「―――〈火炎矢〉!!!!!!」
火炎の矢が、彼女手から放たれる。
本来打つ筈だった古代魔術に比べ、余りにも弱弱しい一撃である。
何故か追撃しないゼルマだが、のんびり詠唱をしている暇は無い。
この程度では目的を遂げる事は出来ないだろう。
それでも、可能性は生まれている。
今の彼女は、それに賭けずにはいられない。
正に一発逆転。
「当たれぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!」
みっともなく、彼女は叫ぶ。
自尊心をかなぐり捨てて、それでも彼女は希望に賭ける。
彼女を支配している目的と、彼女の中に在る恐怖が彼女を突き動かす。
それでも、
「――――――あ」
希望は廻らない。
「閉じ た」
結界が、閉じる。
火炎の矢が通り抜けようとしたその時に、結界が閉じる。
しかも火炎の矢は、結界に当たる事もなく、直前に消え失せて。
―――どうして?
最早言葉にも出ない疑問が、彼女の中にぽつりと生じてしまう。
「微かに見えた希望の味はどうだった?」
「まさか、貴方…………」
エリザベートが振り返ると、そこには何事も無かったかのように、闘技場の方を眺めているゼルマの姿があった。
追撃してこないと思っていたが、違った。
彼はずっと、傍に立っていたのだ。
傍に立ち、足掻くエリザベートを横から眺めていたのだ。
「闘技場は既に制圧している。命令通りだ。後で褒美をやらないとな」
「…………貴方は、何者なんですの」
「ゼルマ・ノイルラー。大賢者の末裔だ」
「違う!!!!そんな事が……そんな事が聞きたいんじゃないですわ!!!」
ノイルラーの名前はエリザベートとて知っている。
彼女はこの一件にゼルマが絡んでいるという事を知る前から、ゼルマ・ノイルラーという魔術師の事は知っていた。
彼女は自身の境遇を、大賢者の末裔であるゼルマと重ねていたのだ。
だからこそ実力を知って、自身の派閥へと勧誘もした。
だが、これはそれ以前の問題だ。
彼女の知る落ち零れのノイルラーは、このような魔術師ではない。
「それ以外に何か言う必要があるのか?敵のお前に」
「―――ッ!」
それもそうだ。
平気で話しているが、そもそもゼルマとエリザベートは敵同士である。
派閥が違い、目的が違う。
普通和やかに話すなんて事は有りえない。
そもそも殺されていてもおかしくないのだ。
「それで、どうする?諦めて全てを話すなら、ここで終わりにしてやってもいい」
「…………何の事です?」
「恍けるな。お前の上に居る人間の事に、気が付いていないとでも思うのか?これは、あくまでも確認作業だ。お前が話さないというのなら、こっちはそれでも問題ない。これは、情けだ」
「……………………」
エリザベート何も言わず。黙る。
話せないのか、話さないのか。
兎も角、彼女はこれ以上口を開かないつもりのようだ。
その意思は固いと、ゼルマも判断する。
「…………そうか。なら。よく見ていろ」
ゼルマが一歩だけ、前に出る。
落ちる寸前、空の下。
青天が、彼等を見下ろしている。
「さっきお前が使った魔術。あれは過去の魔術師が用いた魔術を再現したものだな?」
「…………」
ゼルマが人差し指を空へと向ける。
その指の先には、大きな雲があった。
「大した再現度だったが、まだ足りない。そもそも原型から手を加えすぎて、劣化している」
「…………何が、言いたいのですか」
「見てろ」
ゼルマの視線が、エリザベートの視線が、空へと集まる。
大きな雲が青天に寝そべるように、静かに、緩やかに流れている。
それを―――
「〈万世穿つは王が五指〉」
―――ゼルマは、撃ち抜く。
「―――――――――」
指先から放たれたのは、赤き色を纏い、熱を帯びた剣。
光と共に顕現したそれは、目にも止まらぬ速さで射出され……
「これが、ゾーオスの指だ」
エリザベートはその場で固まる。
悟ったのだ。
この瞬間、エリザベートの恐怖は無くなった。
今まで抱いていた感情が、彼女を構成する全てが変わった。
最早、何もかも考えなくて良くなったのだ。
「…………降伏…………します」
「うん。それで良いんだよ」
空には、ぽっかりと大きな穴が空いた雲が流れていた。
■◇■




