竜血よ我が身を燃やせ
「―――誰です!?」
その魔術師は声のした方向を身体を動かす。
彼女の居る場所の隣、尖塔の上にその者は立っていた。
「貴方は……ゼルマ・ノイルラー……!」
今も尚仮面を装着して正体を隠している彼女とは違い、ゼルマは変装の一つもしていない。
少しでも彼を知る者ならば気が付くであろう姿で、言ってしまえば普段着のような姿でゼルマは尖塔の上から彼女を見下ろしていたのだ。
部下達に動揺の波が広がる。
当然である。
この狙撃場所の事を知るのは彼女と彼女の部下だけだ。
目の前の魔術師……ゼルマ・ノイルラーが知る由も無い筈だ。
部下達には見えていなかっただろうが結界の穴の消失も相まって、女はより一層警戒を強めていた。
だが、より強い衝撃が一秒もしない内に彼女達を襲った。
「エリザベート・コルキス。大した魔術師じゃないか」
「―――っ!」
古代魔術部門に属する魔術師が一人。
エリザベート・コルキス。
門主会議にて本家であるレオニストの代理人として出席した魔術師であり、智霊大祭や新星大会の運営としてレオニストから遣わされた魔術師。
彼女は名門コルキス家に産まれ、最高学府で既に名声を得ている。
そんなエリザベートが落ち零れである筈に正体を言い当てられている。
「何を―――」
「隠す意味は無い。良ければお前の周囲に居る部下の名前も言ってやってもいい。だが、お互い時間が惜しいんじゃないか?」
「…………」
エリザベートは智霊大祭の期間中、警戒を緩めた事等無かった。
ウルフストンへの牽制の際にも最新の注意を支払ってきたし、ゼルマにもノアにも直接接触するような真似は決してしなかった。
向かわせた魔術師が全滅したのは予想外ではあったが、ノア・ウルフストンとて六門主の直系である。そう簡単に無力化できるとも考えていなかった。
彼女としてはこれだけの魔術師をある意味使い捨てる事ができるだけの戦力が彼女側にはあるのだと警告できればそれで良かったのだ。
加えて、部下の魔術師が情報を漏らしたとも考えにくい。彼等は皆、エリザベートと同じ立場の魔術師であり裏切るような真似はしないと確信していた。
にも関わらず、目の前のゼルマ・ノイルラーはエリザベートまで辿り着いていた。
更にエリザベートを驚かせたのはゼルマがノアの付き添いとしてやってきたのではなく、ゼルマ一人だけでこの場にやって来ている様子であった事だった。
横目で彼女は時刻を確認する。
魔術師同士の戦闘はそう長く続くものでは無い。
魔術の乱打戦に陥りがちな現代の魔術師同士の決闘方式では特に。
結界の穴が塞がれた以上、成功する可能性は皆無に等しいが零ではない。
狙撃するのであれば、猶予はもう残されていない。
「……何をしに来たのですか?」
誤魔化しは意味が無いと理解したのか、エリザベートは開き直る様に問いかける。
認識阻害の魔術を解除し、少しでも魔力を温存する。
それは次の瞬間にも戦闘が始まる事を見越しての、臨戦態勢。
しかし、彼女の問いにゼルマはすぐには答えなかった。
エリザベートの予想に反して、ゼルマ・ノイルラーは落ち着き払っていた。
そして少しだけ俯いて、ふわりとエリザベート達の目の前へと舞い降りる。
その間は僅か数秒。
ようやくゼルマが口を開く。
◇
「……正直。俺は戦うつもりなんて無かったんだ」
「今更何を言っているのですか。この場に来たという事実、その意味がまさか分からないのですか?」
「俺程度が表舞台で活躍する気も、願望も、未来も別に望んではいなかった。だが……」
ゼルマは回想する。
そこに見えるは大賢者ならぬゼルマを師と仰ぐ少女の姿。
栄光を約束され、栄華を身に纏う存在でありながら彼女は真っすぐにゼルマを見ていた。
裏切り、後悔、或いは―――羨望。
彼女の美しき瞳は大賢者に向けられるものであってゼルマに向けられるものではない。そんなことは最初から理解している。
彼女の言葉も、彼女の祈りも、全てはゼルマへと向けられたものではない。
だが、ゼルマは思い出す。
彼女の言葉を。彼女の背負った余りにも重く、大きな未来を。
ただ一人未来に抗い続ける運命に囚われてしまった、一人の少女を。
魔術師を始めること。それは魔術を道を歩むことを心の底に置くことだ。
魔術を基盤として生きること。それこそが魔術師を始めるということだ。
では魔術師の一人前とは何か。
ある者は魔導士になることだと言う。
ある者は師を越えることだと言う。
ある者は独り立ちをすることだと言う。
ある者は魔術師を終えることだと言う。
どれにも一理あり、どれもが異なる。十人十色、百人百様、千差万別の在り方たち。
ゼルマとて、一つの答えを見つけることは出来ていない。
その答えを見つける時は、それこそゼルマが一人前の魔術師になった時なのだろう。
例え、その時がゼルマの意思が存在する限りは訪れないとしても。
だが、一つだけ。一つだけゼルマは確かだと感じることがある。
魔術師の道程は余りにも険しく、大きな艱難辛苦を伴うものだ。
時に絶望が心を蝕み、時に悲嘆が身体を支配する。
道半ばで魔術師として歩くことを止めてしまう者も多い。
そんな道程を歩む先達として、幼き身でその道程を歩むことを決めざるを得なかった少女に対してできることは何か。
「俺があいつの先輩であるのなら、俺にはあいつを護る義務があるって事だ」
あの時、フェイムの見るものをゼルマが感じ取った時。
魔術を好きだと、真っすぐな瞳でゼルマを見つめたあの時。
せめて、彼女が自身をそう呼ぶ間だけは―――。
「くだらないお遊びはここまでだ―――今すぐ投降しろ。此処で帰って、巣で大人しく過ごすというのなら見逃してやってもいい」
ゼルマが宣言する。
それは最終通告。目の前の行為を、これ以上の干渉を止めるという宣言。
「……投降ですって?馬鹿なことを。ここまで来たのです。止めるなんて、そんな真似はもう出来ませんわ。貴方の方こそ、今すぐに投降するというのならこれ以上痛い思いをする事はありませんわよ?」
エリザベートはゼルマの言葉を一笑に伏す。
それも当然だ。
エリザベート・コルキスとゼルマ・ノイルラー。
二人の魔術師を比べた時に、どちらが勝利するのか。
百人に聞けば百人がエリザベートと答えるだろう。
「いっその事、貴方もウルフストンを捨てて此方に来るのはどうです?私の部下として……悪いようにはしませんわ。勿論、ウルフストンよりも高い報酬を約束しましょう」
それでもエリザベートが警戒を止めないのは、彼女の魔術師としての直感が警鐘を鳴らし続けているからだ。
ノア・ウルフストンの元に送り込んだ刺客は彼女の部下の中でも実力者だったが、ゼルマの元へと送った魔術師も勝るとも劣らない実力者であった。
数こそ大きな差があったものの、彼等まで撃退される事は予想外だったのだ。
「どうです。これが最後通牒ですわよ?」
「つまり、俺の言葉に従う気は無いんだな?」
「当然ですわ」
だが、ここに来てエリザベートは大きな勘違いをしてしまっていたのだ。
「そうか。―――ならいい」
魔力が、迸る。
ゼルマの身から漏れ出す魔力の奔流が、まるで一迅の風のように周囲に吹き荒ぶ。
纏っている外套が、握られた長杖が、用意してきた護符達が、数々の魔道具が、魔力を流し込まれ反応する。
それはまるで、一つの魔道具の様に。
ゼルマ自身が、淡い輝きを身に纏う。それこそ、魔術の発露。エリザベート・コルキスという魔術師に対する宣戦布告に他ならない。
「正直、力ずくというのは分かりやすくて助かるからな」
「―――ッ!まさか、貴方が!!??」
そこで、エリザベートは気が付いた。
元々聡明である彼女はすぐに理解した。
それが余りにも遅い気付きであったとしても、彼女は理解した。
自身の筋書きとの相違の原因が目の前に立つ魔術師であるということを。そして、フェイム・アザシュ・ラ・グロリアの背後に居た真の黒幕こそがこの魔術師であったということを。
ノア・ウルフストンではなく、彼こそが最も警戒すべき相手であったのだという事を。
「くッ!」
エリザベートが魔術を放つ。
予め魔術陣に待機させていた魔術を使用し、無詠唱で魔術を発現させる。
現れた魔術は焔で出来た巨大な顎だった。強大な竜の力、その一端を再現せんと編まれた魔術。
竜の顎は真っすぐにゼルマへと向かう。燃え盛る炎が竜の唸り声の如き音を響かせ、獲物を食い殺す為に大きく口を開けて進む。
しかし顎は獲物を喰らうことは無かった。
燃え盛る炎の牙は空中で停止し、恰も透明な壁に埋もれたかのように動きを止める。
「―――ッ」
異常だった。異常でしかなかった。
エリザベートの放った魔術は彼女の有する魔術の中でも攻撃力に優れるものだった。
だからこそ魔術陣の待機枠の一つを割いて待機状態にしていた。
魔術陣は待機させていた魔術を瞬時に発動する技術だが、その待機枠には個人差が存在する。待機させる魔術の吟味は魔術陣を使う魔術師にとって一生の悩みとも言えるだろう。
しかし、彼女の魔術は目的を果たせていない。
伝説の炎竜を模した筈の顎は、何も燃やしても、食らえてもいない。
小動物を片手で止めるように、竜の顎は止められていた。
そして、数秒。完全に停止した魔術が搔き消される。込められた魔力が無残にも霧散し、竜の顎は影も形も無くなってしまう。
それが目の前のゼルマ・ノイルラーの魔術によるものだと彼女が悟るのに、そう時間は要しなかった。
「逃げなさい!!」
「―――ッ!?で、ですが!」
「見て分からないの!?足手纏いよ!」
「っ!」
流石と言うべきだろうか。目の前の存在が、自分の想像する『何か』以上の……或いは自分の想像する『何か』ではないことに気が付いたエリザベートの反応は速かった。
瞬時に周囲に居た部下へ逃走を命令する。
部下達は残ろうとするが、そんな余裕は無い。
部下達も理解していたのだ。
常に強く理知的な自分達の上司が声を荒げる程の相手。
更には目の前で魔術が霧散するという光景を見せられ、嫌が応にも察してしまう。
奇しくもそれなりの実力を有しているが故に、ゼルマは放つ『何か』を察してしまったのだ。
「震わす咆哮よ、燃やす炎牙よ!」
部下達が逃走を促してすぐ、エリザベートは詠唱を開始する。
魔力が滾る。空気が震える。熱気が生ずる。
詠唱と共に空気中に漏れ出る濃密な熱気。それは魔術として形を成す前にも関わらず世界に影響を及ぼすだけの火の力の表れである。
古代魔術部門に属する魔術師であるエリザベートにとって、古代魔術は親しみ深いものだ。
「形を崩すは赤の力、敵を滅ぼすは大口。我が手は鱗持つ躯に近づく!」
それは先程発動した魔術に近しい性質を持つ魔術だ。
しかし、威力は比較にもならない。
発動に要する魔力量の多さから、エリザベートの魔術陣では待機させらない魔術。
それこそはコルキス家の血統魔術。
それはかつて燃え盛る竜より血を啜ったとコルキスの祖より伝わる炎熱の魔術である。
魔力が赤き円を象り、中心に力が具現する。
エリザベートが円に右手を通せば、円を潜った先にて彼女の腕は変貌していた。
彼女の腕に生えた真紅の鱗、鋭く伸びた石英の如き白爪。
それは正しく伝承に謳われる竜の似姿。
「〈竜血よ我が身を燃やせ〉!!」
魔術によって変貌した彼女の手は最早人種のそれではない。
岩石すらも容易く切り裂く火竜の腕である。
「ハァァァァァァッッッ!!!!」
〈竜血よ我が身を燃やせ〉。
それはコルキス家の血統魔術。
かつて火竜の血を全身に浴び、魔力を授かったとされるコルキスの祖先より伝わる魔術である。
その効果は肉体の一部を竜のそれへと変貌させるもの。
変化する部位を一部に限定する事で、彼女は魔術師としての理性を保ったまま竜の暴力を振るうことができる。
加えて、エリザベートは魔術陣に待機させていた攻撃魔術を全て開放する。
現れる四つの異なる魔術たち。
一つは燃え盛る槍であり。一つは焔の刀身を有し。
一つは荒ぶる蒼き雷であり。一つは鋭利なる旋風であった。
普段は状況に合わせて使い分ける魔術を惜しげもなく開放する。
魔術陣とは使い捨ての道具ではない。魔術を待機させておくという技術だ。
待機枠が許す限り、彼女は魔術を再び待機させる事ができるがそれには相応の手間と時間を要する。少なくとも戦闘中に気軽には行えない。
彼女の魔術陣の待機枠は凡そ七つ分。
待機させる魔術の魔術式にもよるが、それがエリザベートの限界である。
その内攻撃に使える魔術は六つ。
内一つは使用条件が存在するので、実質五つだ。
最初に使用した一つを除き、残りは四つ。
それを今、彼女は使うべきだと判断したのだ。
ゼルマに『何か』をさせる隙間すら与えない為に。
魔術が迫る。魔術が飛ぶ。魔術が唸る。
四つの魔術が四つの方法でゼルマを襲う。
それに追随するように、火竜の腕を携えてエリザベートがゼルマへ飛び掛かる。
普段の優雅さとは乖離した光景。
その行動へと彼女を至らせたであろう、彼女の心に生じた一つの思い、考え。
焦燥か、怒りか、恐怖か。それが何かはゼルマには分からない。
読心の魔術を用いれば、或いはそうした技術に卓越したものならば彼女の考えを知ることもできたかもしれない。
だが少なくともゼルマ自身にそうした魔術は無く、技術も備わっていない。
しかしそれでいい。そんなことは関係ないからだ。
エリザベートが何を思ってこんなことを行ったのか。
エリザベートの人生、背景、思考、性格……それらは全て些事でしかない。
知りたいとも思わない。
ゼルマにとってはこうなったという結果が行動の全てだ。
ゼルマは、ゼルマ・ノイルラーは決定した。
魔術師として彼は決定を下した。
自らの手で、自らの後輩を護るという決断を。
魔術が迫る。どれも速度に長けた魔術である。
これ程の近距離、到底ゼルマの実力では迎撃など間に合わない。
エリザベートの魔術と爪は一秒もせぬ内にゼルマの肉体を穿つだろう。
魔術がゼルマを焼き、切り刻むだろう。
魔術を防いだとしても高熱を宿す竜の腕がゼルマを切り裂くだろう。
彼女の最初の魔術から九秒。
彼女の変貌から五秒秒。
そして魔術がゼルマを壊すまで残り一秒。
計、約十五秒の短き決戦。
瞼を閉じて再び開ければ決着が着いているだろう。
だが、問題は一切存在していない。
僅か十五秒。六十秒の四分の一。
決着は到着しない。
――――――カチ
「―――なッ!!!???」
ゼルマの魔術は三度目の発動を迎えるのだから。
■◇■




