「公」の意義
【お嬢様 悪治物語】はあくまで五十界が舞台の、架空とされるお話です。
公とは民(個人)あってこそ、「公」があります。
公とは個人から成る民を代表するもので、民(個人)を助けるのが本来の意義です。
「個の弥栄は、全体の弥栄である。個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する」
これは神示の一文ですが、個人が繁栄すれば社会は益々栄えるのが道理です。
そういう意味においても、戦争は決してしてはならないものです。
例えば、自然災害においては自然現象が加害者で、人は全て被害者です。
それが戦争になると、個人として戦いたくなくても、徴兵されれば加害者にさせられてしまいます。
それは国があるためです。
国は、民を代表する「公」としてなくてはならないものですが、交戦状態になれば話は別です、
また、攻撃されている国の人々もそうですが、戦争を仕掛けた国の人々(民)も被害者です。
そして、交戦国が何らかの資源国(エネルギーや穀物等々)であれば、戦争による物価高等による影響を受ける他国の人々も被害者です。
これは戦争が、交戦権として国家間の紛争を認められているからです。
認められている事により、戦争を望む者以外でも加害者にさせられてしまいますし、何年も続いてしまいます、
本来は、戦争を望む者以外は被害者のはずです。
また、こうならない為の「公」なのですが、戦争の場合は「公」が主導してしまいます……
最後は纏めきれなかった感じがありますが、本作はとりあえずこれで終わりです。
皆様も「公」の意義について考えて頂ければ幸いです。
また、私もよく分かってはいないのですが(ᐢ ᵕ ᐢ)、関連がありそうな神示の一文を紹介します。
「与へよ、与へよ、与へよ、与へる政治と申してあろうが。
戦争か平和かと人民申してゐるなれど、道はその二つでないぞ、
三が道と、くどう申してあろう。
水の外道の武器と火の外道の武器の他に、新しき武器気づかんのか。
神示よく読めば示してあるのであるぞ」
「いくさは善にもあり、悪にもあり、右には右の、左には左の、上には上の、下には下の、中には中の、外には外のいくさあるぞ。
新しき御代が到来しても いくさはなくならん。いくさも歩みぞ。弥栄ぞ。
ぢゃと申して今のような外道のいくさでないぞ。
人殺し、生命殺すようないくさは外道。やればやる程はげしくなるぞ。
正道のいくさは人を生かすいくさ、やればやるほど進むのぢゃ。
今の人民いくさと申せば、人の殺し合ひと早合点するが、それは外道のいくさ。
天国へのいくさもあるぞ。幽界へのいくさもあるぞ。
人民の云ふ今のいくさ、今の武器は、人殺す外道の道、それではならんのう。
外道なくして下されよ。外道はないのであるから、外道 抱き参らせて、正道に引き入れて下されよ。
新しき霊界は神人共でつくり出されるのざ。
それは大いなる喜びであるからぞ。神のみ旨であるからぞ。
新しき世はあけてゐるぞ。夜明ければヤミはなくなるぞ。
新しきカタはこの中からぞ。日本からぞ。日本よくならねば世界はよくならん。
外道の武器すてよ。外道の武器生かして、活かして、いのちを生かす弥栄の武器とせよ。かへられるでないか」
ありがとうございます。
本話の前書き的な位置づけで、反戦もの の作品が以下のリンクになります。
よろしかったら、ぜひご覧下さい。