お上も余る
おそらく、禁止令がでる程ささげものが集まったのは、捧げることによって捧げた者がより豊かになったからでしょう。
神示に「お上は幸でうもれるのぢゃ、余る程与へて見なされ、お上も余るのぢゃ」とありますが、余る程与えた状況が徴税しない状態とも採れます。
徴税しないから余るのです。
例えば、魚を獲って食べ切れないものは干物等の保存食にする必要がありますが、自身ら(家族)の手間暇が掛かります。
それをお上にささげれば手間暇は掛かりませんし、同様にして他の者から捧げられたものを分けてもらえるでしょう。
これは前話の「この神に供へられたものは、何によらん私することならんぞ、まゐりた臣民にそれぞれ分けて喜ばして呉れよ」にも繋がります。
民は、公にささげる事によって自身がより豊かになるのであれば、喜んで捧げます。
それは「負の連鎖」ならぬ「正の連鎖」、「幸せの連鎖」で、そうなれば徴税する必要がありません。
逆に徴税を行い、年貢の様に凶作であっても一定量を必ず納めさせては”飢え死にか一揆か”になりかねません。
それでは「公」の意味がありません。それをさせない為の「公」なのです。
故に「公(治める者)」は自給自足するのです。糧に困る者あれば、それを助けるのが「公」です。
「足らぬものなくなるぞ。余ることなくなって、満たされるのが まことの富ぢゃ。清富ぢゃ」
これは神示の一文ですが、清く富む「清富」の状況をつくるのが「公」本来の役目といえます。