第6話 清水琴音という女
……やってしまった。いや、ここはポジティブにやってやったと云うべきだろうか。
私に対して謎の興味関心を示してきた鈴木美玲さん。どういうわけか私に好意を抱き、告白までしてきやがった国分咲綾さん。中学以来の腐れ縁であり、なんだかんだ私のことを一番よく理解してくれている谷口瑠花。
三者三様の形で私に想いを馳せてくれた3人の同級生たち。そんな彼女たちのことを、私はつい今朝方はっきりと突き放してやったのだった。ただ、私は別に瑠花たちのことが嫌いでそんなことをしたわけではない。むしろその逆。それなりに好感を抱いているからこそ、私は彼女たちが差し伸べた手を振りほどいたのである。
自分でいうのも情けない話だが、私は3人の女の子から向けられた想いを受け止められるだけの器量や気概を持ち合わせていない。かといって3人の中から誰か1人を選ぶなんて権利が私にあるはずもなく、もし仮に選んでしまった場合は選ばれなかった他の2人を傷つける事態になりかねない。いや、私に選ばれないから傷つくというのは少々自意識過剰かもしれないが…。
それでも私はその可能性が僅かでもある行動をどうしても取ることができなかった。だからこそ私はあの場で第4の選択を。3人全員を突き放すという行動をとったのだ。私目線でいえば瑠花との腐れ縁や鈴木さんたちとの間に芽生え始めていた繋がりを失いかねない行為ではあったが、一人でいることになれている私には別に大した問題じゃない。そんな些末なことよりも、自分のせいで誰かが傷つくなんて状況の方が私にはよっぽど耐えられなかった。
だからこそ、ここはやはりやってやったと言って然るべきだろう。自らの孤独と引き換えに、私は瑠花や鈴木さんたちを傷つけずに済んだのだ。もっとも、彼女たちにしてみれば自分が選ばれなかったという結果に変わりなく、全員を等しく傷つけてしまったという可能性がないわけでもないが…。それについては自分以外の人が選ばれている光景を見なくて済んだ分、傷はそれほど深くなかったはずだと考えるほかない。
まあどちらにしろ、やってしまったことをくよくよ考えていても仕方ないだろう。そんなことより私は今後の身の振り方を。目の前に直面している問題について考えなければ。
「…はあ。どうして私がこんな目に合わないといけないんだか…。」
思わず漏れてしまった愚痴は誰の耳にも届かない。ま、そういう場所を選んでこの場に来たのだからそれも当たり前か。私がいるのは校内にある古い体育倉庫の裏側。近いうちに取り壊されることが決まっており、周辺に近寄る人などすらほとんどいない。仮に人が通りかかったところで体育倉庫の裏側を覗く奇特な奴など皆無であろう。
さて、それではなぜ私がこんなかくれんぼみたいな真似をしているかと聞かれれば、何のことはない。鈴木さんや瑠花たちと同じ空間にいるという状況が気まずく思えてならなかったからだ。あんなふうに他人の想いを踏みにじっておきながら、そのことを全く意に返さないかのように振る舞うなんて私には到底できない。授業の時などは仕方なしにしても、昼休みなどの自由時間ではできる限り鈴木さんたちと距離を置いておきたいというのが今の私の本音であった。
そういうわけで昼休みをどこで過ごすのか問題に直面したというわけだが、学校という施設は私が考えていた以上に一人でいられる場所というのが少なかった。帰宅部である私にはクラス以外の教室や部室などで過ごすという選択肢はなく、漫画とかでありがちな屋上などは当然立ち入り禁止。ボッチ飯の定番であるトイレの個室も頭を過ったが、用を足す場所で昼食をとるというのが私にはハードルが高すぎて早々に断念した。
そんなこんなで最終的に行きついたのがこの場所。先に述べた通りこの体育倉庫は近いうちに壊されてしまうし、雨の日は使えないなど数多くの問題を抱えてはいる。早々に代替の場所を見つけるか、鈴木さんたちとの間に作ってしまったわだかまりを解消していく必要があるのは明白だろう。だが、別にそれは今すぐでなくともいいはずだ。唐突に変わり始めた日常を振り返る時間くらい。沸き上がる罪悪感を鎮める時間くらい。焦燥に暮れる心を癒す時間くらいはまだあるだろうさ。
なんて具合に暢気に構えていたのだが……。
「…やっと見つけたよ、八島さん。」
正直に白状すると、私はこうなる可能性を最初からからある程度予見していた。いや、本当は少しだけ期待していたんだ。中学時代から私との腐れ縁を保ち続けてくれた瑠花が。私に対して強い興味を示してくれた鈴木さんが。私のことを好きだと言ってくれた国分さんが。一人でいたいと言う見え透いた虚勢を看破し、私のことを探してだしてくれるんじゃないかってさ。まったく、我ながら気持ち悪いくらいのかまってちゃんぶりでつくづく自分が嫌になる。
まあそれはそれとして、瑠花たちではなくあんたが現れるとは思ってもみなかったよ。……なあ、清水さん。
「……いったい何の用?」
この期に及んでこんな白々しいセリフを吐くことしか出来ない自分が本当に嫌いだ。何の用かだと?そんなん一々問いかけるまでもなくわかりきってるじゃないか。件の現場に彼女はいなかったが、何があったのかは鈴木さんや国分さんあたりから聞いたに違いない。そして、それについての話をするために昼休みが始まってすぐに教室から姿を消した私のことを探して回っていた。今の状況を鑑みれば、それ以外の可能性など全く皆無といって良いだろう。
「実は八島さんに見せたいものがあるんだけど…。」
そら来た……ってあれ?『話したいことがある』じゃなくて『見せたいものがある』って言ったか?てっきり今朝の出来事について問いただされたり、不貞腐れてないで一緒にお昼を食べようと諭されるんじゃないかと予想していたが…。まさかとは思うが、百万ドルの夜景を君に見せたいとかトリッキーな口説き台詞を言うつもりじゃあないだろうな。……って、さすがにそれは妄言が過ぎるか。
「昼休みが終わるまでまだ30分以上はあるし、とりあえずはここから移動しましょう。…当然ついてきてくれるよね?」
何が当然だ、この馬鹿。…いや、まあその…。ついて行きはするけどさ……。但し勘違いするなよ。これは隠れていた私を見つけたことに対する心ばかりの報酬みたいなもんだ。それに、清水さんの言う見せたいものって言うのにも若干興味がある。この場であんたに連れ従うのはただそれだけの理由だ。そのことをよく覚えておいてくれよ、清水さん。
―。
つい先ほどまで清水さんの『見せたいもの』が何なのか全く見当ついていなかった私だが、彼女に連れられて来た場所に着いた瞬間にそれが何なのかを即座に察する。
ここは実習棟の2階に存在する美術室。美術部に所属しているか実習科目で美術の授業を選択する以外ほとんどの生徒には縁がなく、かく言う私も入学以来一度も訪れたことのない教室の一つだ。この場所…。そして清水さんの美術部員という肩書を踏まえれば彼女が見せたいものが何なのかよほどの馬鹿でもない限り即座に思い至るであろう。
「ちょっと待ってて。すぐに持ってくるから。」
そう言うと清水さんは私のことを一人残して美術準備室へと引っ込んでしまう。人を連れてきておいていきなり置き去りかと文句を言ってやりたくなるが、まあそれも仕方がないことなのだろうと私は自分に言い聞かせる。私の予測が正しければ彼女が見せたいものは自分が制作した作品。つまりは絵だ。先に述べた通りこの教室は授業でも使われているため、恐らく部活で制作した作品はすべて準備室に保管しているのだろう。そんな場所に素人の私がホイホイついて行って大事な作品に万が一のことがあればと考えれば、一人でだだっ広い教室に取り残されている方が何倍もマシだ。それに、絵を一つ持ってくるくらいそこまで時間はかからないだろうしな。
「待たせてごめんね。棚の奥の方にしまっていたから取り出すのに時間がかかっちゃった。ああ、見せたいものってのはこの絵のことね。どうかな?自分では割とよく描けたと思っているんだけど」
軽い調子の謝罪を挟みつつ、大きなキャンバスを大事そうに抱えながら準備室から戻って来た清水さん。待ったといっても極々短い時間だったし、謝罪の言葉など別に必要ないとは思ったが、それは敢えて口にしないでおく。清水さんも本気で申し訳ないと思っているわけではなく、単なる社交辞令的なセリフだったろうしな。そんなことより問題なのは彼女が抱えている絵の方だ。
「……な、何これ。」
人の描いた絵を見て第一声が『何これ』なんて失礼極まりないとわかってはいるが、それ以外の感想がまったく出てこなかったのだから仕方がない。実際、いきなりこれを見せられたら誰だって私と同じ感想を抱くことだろう。清水さんが持つキャンバスに描かれているのは所謂人物画。
……と言うか、この『私』だったのだから。
「あれ、わりと特徴捉えられていると思ったんだけどわかんなかった?いや、単に私の画力が足りないってだけか。まあ私も八島さんの魅力を十分に表現できてないなって思ってたし、まだまだ精進が必要ってことだね。」
…すまん、突っ込みを入れる気力がないのでちょっと黙ってくれないか。まあ一応フォローしておくと、清水さんの画力は贔屓目なしに一級品だと私は思うよ。顔のパートとかもよく特徴を捉えられているし、さすがにコンクールで何度も入選しているだけのことはあるなと素直に感心する。だからこそ私は問いたい。その画力をもって描き上げたのがなぜこの私なのか。そして、キャンバスに描かれた私がどうして満面の笑みを浮かべているのかを…。
「…なんで私が八島さんをモデルに絵を描いたか。キャンバス上のあなたが笑っているのはなぜなのか。気になるって顔をしてるね?」
なるほど、エスパーか。
…ってなるかこの馬鹿。こんなものを見せられた者の心情なんてそれ以外に存在しないだろうが。そんな言い当ててやったぜみたいなドヤ顔をされても別に褒めてやらんぞ。というか、普通に気味が悪いから申し開きがあるならさっさと語ってくれ。でないとあんたとは今後一切口をきいてやらんぞ。
「実は私ね。今年の初め頃から少しスランプ気味だったんだ。描きたいものが全然浮かんでこなくて。リハビリがてら適当に筆を走らせてもちっとも楽しくなくて。絵を描くの、やめちゃおうかなって考えるくらい気持ちが落ち込んでいたんだ。けど、新年度が始まってすぐに私は出会った。心から描きたいと思える最高の被写体と。」
なるほどなるほど。芸術的センス皆無の私にはいまいち共感できかねる話だが、突発的なスランプで作品作りに身が入らなくなるなんてことはわりとよく聞く話だ。ひどい場合はそこから立ち直ることができず、そのまま道を閉ざしてしまうなんてこともあるそうだしな。清水さんがその例に倣うことがなくて本当に良かった。もし機会があれば清水さんを救った最高の被写体とやらを私にも拝ませてほしいね。拝んだところであんまり御利益はなさそうだけど…。
「…私が出会った最高の被写体。それがあなただよ、八島さん。」
…いや、話の流れ的にわかっていたけどさ。国分さんと言い、最近の女子高生は感性がおかしなことになっているんじゃないか。自分でいうのもなんだが私は欠片ほどの魅力もないスクールカースト最底辺の単なるモブキャラだぞ。バスケ部のエース様に好意を抱かれたり、非凡な芸術家様に最高の被写体などと称される価値なんて私には微塵も存在しない。そのことは自分自身が一番よくわかっているんだ。だからさ。もうこれ以上私みたいな道端の雑草をからかうのはよしてくれないか。
「あなたの存在を知ってから…。あなたとクラスメイトになってから私はすぐにこの絵を描き始めた。彫刻のように綺麗で。人形みたいに可愛くて。孤高と呼ぶべき凛とした雰囲気を放っていて。それでいてどこか物寂しげな哀愁を漂わせていて。そんなあなたの魅力を表現しようと私は夢中になってこの絵を描き続けた。絵を描くことの楽しさを、私はあなたを描くことで少しづつ取り戻すことができたんだよ。」
そうか、そいつはよかったな。図らずも清水さんの役に立てたみたいで私も嬉しいよ。おかげさまで私のあんたに対する好感度パラメーターはストップ安だ。
「けど、私は描き上げた絵を見直して強い違和感を覚えた…。」
まあそれはそうだろうさ。綺麗だの可愛いだのという戯言は一旦置いておくとして、この絵から凛とした雰囲気とか物寂し気な哀愁とやらを感じとるのは流石に無理がある。なぜなら、この絵の私は冷たさや哀愁とはまるで正反対の表情を浮かべているのだから。
「私はこんな風に笑ったりしない…。絵のモデルにするには百歩譲って構わないけど、どうせならもう少し忠実に描いてほしいものだね。」
私は敢えて不機嫌な態度を前面に押し出しながらそう言い放つ。無断で絵のモデルにされていたこと自体がかなり不愉快だし、事実とはまるで異なる表情で描かれていることも遺憾の念に尽きないのが正直なところだ。ただ、今ほど述べた文句以上のことを彼女にぶつけるのは流石に筋が通らないだろう。清水さんも別に悪気があったわけではないだろうし、個人的創作活動の範囲内であれば何を描こうと彼女の自由だしな。
「……私はこんな風に笑わない…か。それは嘘だね。」
……何を言っているのかちっとも理解できないな。嘘も何も私が高校入学以来…。いや、少なくともあんたとクラスメイトになってから一度でもこの絵のように笑ったことがあるか?こんな表情を浮かべる私をあんたは目にしたことがあるのか?ないだろう?なぜならそんな事実はどこにも存在しないんだから。
「この絵は一度完成した後に描き直したんだよ。教室の隅でつまらなそうに虚空を見つめている表情から、毎日を楽しそうに生きる笑顔の表情にね。」
…意味が分からない。……悪趣味だ。………どうしてそんなことをした。
話の展開的にそうした言葉のいずれかを…。或いはそのすべてを清水さんにぶつけてやるのが自然な流れなのだろうか。しかし、私は文句を垂れるどころか声の一つも発することができなかった。清水さんが何を言おうとしているのか。どうしてこの絵の私が笑っているのか。なんとなく…。いや、確信をもって理解したがために…。
「……そう。この絵は今の八島さんじゃなくて過去の八島さん。中学時代…。人の輪の中心でいつも笑っていた頃のあなただよ。」
…息が苦しい。頭が痛い。耳鳴りがする。視界がぐにゃりと歪んでいく。
……頼むよ、清水さん。これ以上はやめてくれ。あんたが言いたいことは十分わかった。…観念するよ。私が悪かった…。だからもう言葉を発さないで。責めないで。指摘しないで。お願いだからもうそっとしておいてよ……。
「あなたはずっと嘘を付いる……。私たちに対してじゃなく、自分自身に対して……。そうだよね?……希美ちゃん。」
その言葉が脳内を駆け巡った瞬間。目の前が真っ暗に染まり、私の意識はプツンと途絶えた。