43話 『夢と書いてクツウって話』
暗い話はウケが悪いから、天国ぐらい明るい話を書くぞ!
と意気込みながら書きました。
“夢”――その言葉は、私にとっての苦痛の象徴だ。
未来に思いを馳せ、思い描く夢は、何の希望も持つことを許されない私には、ただの拷問に過ぎない。
そこには手を伸ばす意味も、叶う余地も存在しないのだから。
かといって、過去へと引き戻される夢が安らぎを与えるわけでもない。
それは記憶と絡まり合い、逃げ場を塞ぎ、より深く、より確実に私を傷つける――
暗雲が垂れ込め、雨音が絶え間なく屋敷を叩いていた。
時折、空を引き裂くように雷が鳴り響く。
広い屋敷の、その一室――
お粥と味噌汁を乗せたおぼんをもって、私は襖の前に立っていた。
「お母様、大丈夫……?」
私の意志とは関係無く、口が動き言葉を発した。
(あぁ、今日の夢はこれか――)
けれど、その輪郭は昨日の夢よりも大きく、重く、私の前に立ちはだかっている。
当然だ。
今の私は、十年前の姿をしているのだから――
私はいつも夢と共に目を覚ます。
そしてその夢は、決まって幼少期の頃の記憶をなぞる。
両親に拒絶される夢、お気に入りだった玩具が壊れた夢、飼っていた魔獣が轢かれた夢――いくつもの夢の中で、今見ているのは一番最悪な夢。
私が五歳だった頃。“神鬼角無”という存在が無くなった日の夢だ――
「お母様、お腹、痛いんでしょ?」
襖の向こうにいる母へ向けて、私は声をかける。
小さな手に抱えたお盆は、私の腕には少し重たい。
「角無ね、元気になるようにご飯、持ってきたよ」
「……………………」
返事はない。
ただ、雨音と雷鳴だけが、屋敷の奥で静かに響いていた。
角の無い存在である私に、声を返してくれる人などいない。
今では当たり前に分かるその事が、ただ愚かだったこの時の私には分からなかった。
いつ母は声を返してくれるのだろうか。
一人でご飯を作った私を褒めてくれるだろうか。
母からの言葉を今か今かと心音を高鳴らせ、私はひたすらに待っていた。
「…………ゴホッ」
ややあって、襖の奥で母――神鬼魔狐羅の咳音が聞こえた。
肺から漏れ出たような音で、濁音の混ざる嫌な咳だ。
「お母様!」
私は母が心配になり『入ってはいけない』と母に言われていた言いつけを破り、襖を開けた。
その時だった――
「入るなッッ!」
「……っっ!」
何か悍ましい悪魔でも見たかのような母の叫び声。
そして母が投げた何かが私の額へと当たった。
「痛っ……」
それが当たった衝撃で、よろめき、私はおぼんを床に落としてしまった。
湿った水音を響かせ、お粥と味噌汁が麻で出来た床に吐瀉物のように散らばった。
「ぁ……」
既に緩くなった液体が、足袋を気持ち悪く湿らせた。
「ど、どうしよう……お母様のご飯が……」
母に食事すらまともに運べない自分が嫌になる。
額にじんわりと広がる痛みが合わさり、熱くなった瞳に涙が浮かぶ。
けれどそんな私に掛けられる言葉は慈悲でも、慰めの言葉でも無かった――
「この穢らわしい子!入るなと言ったでしょうッッ⁉︎」
九尾である母は、9本ある白く美しい尻尾を逆立て、半狂乱のような状態で母は私を怒鳴りつけた。
母は普段、温厚で慈悲深い人だ。その母を狂わせてしまうほど、それだけ自分が害をなす存在なのだと分かる。
「ご、ごめんなさい!お母様!でも角無、お母様の事が心配で――あぐっ⁉︎」
私の顔面に強い痛みが走った。
私は左手でぶつかった鼻を抑えながら、自分の足元に転がるぶつけられたそれを見た。
それは、まだ私の小さい頃に、よく母が読み聞かせてくれた絵本だった。
「この疫病神ッ!貴方、私にまだ迷惑をかけようと言うの⁉︎」
「ち、違うのお母様!角無は――」
子供のような物言いを恥じ、母は私を叱咤しているのかもしれない。私はそう考え、一人称を変えて体裁だけでも母への印象を変えようとした。
「うるさいッッ!」
けれど釈明しようとする私の言葉は、母の怒声により遮られた。
「私の前でその醜い名を口にしないでッッ!」
名前というのは親からの願いの証なのだと、何かの本で読んだ事がある。
けれど、
角無――私の付けられたこの名前には何の願いも無い。
ただ角の無い鬼としての、客観的事実であり、両親からの烙印でしかないのだ。
だが当時の私は、ただカナというその女の子らしくて可愛らしい名前をただ闇雲に気に入っていた愚かな子供に過ぎなかった。
そして無邪気にその名前を口にする私を、父も母も、心底憎くて、愚かで、堪らなかった事だろう。
「貴方の角が無いせいで、どれだけ私が苦しめられたかが貴方に分かるッ⁉︎」
苦しそうに咳をしながらも、母は続ける。
「神性の高い種族からは決して人間など産まれない――神に等しい力を持つあの人と、九尾である私の子であれば確実に強い鬼の子が産まれるはずだった。だというのに――」
母の奥歯がギリリと軋んだ。
「だというのに産まれてきたただの人間である貴方のせいで私通を疑われ、あの人――それにお義母様やお義父様からは白い目で見られ、酷い日は地下牢に入れられて何ヶ月も食事を与えられることも無かった!貴方も知っているでしょう⁉︎」
母のその言葉に、私はゆっくりと頷いた。
今は私だけが住んでいる屋敷の離れ――そこには一年前まで母も一緒に住んでいた。
角の無い私は忌子とされ一族から引き離され、そして母も私通を行った罪人として私と共に隔離されていた。
そしてそんな母が、時折父に呼び出され、本殿へと出向く事があった。
それが良くない事であったのは、やつれ、疲弊し帰ってきた母の顔を見れば一目瞭然だった。
「寒くて……寂しくて……とても辛かったわ……!全部貴方のせいで!」
「ごめんなさい……お母様……」
私は母の言葉に、ただそうやって謝る事しか出来なかった。
頭の悪い私には、それ以外何も思いつく事が出来なかった。
「でもようやく……ようやくこの辛い苦しみから解放される。私はこの子を産んで、もう一度神鬼家の一員へ戻るの」
母は嬉しそうな声でそう言うと、自身の膨らんだ腹を愛おしそうに撫でた。
そう――1年前、母は父の二人目の子を宿した。
父は神として他の伴侶を持っていたが、神の鬼である父の血に耐えられような種族はそうおらず、何度もその子種は流れていた。
だから私が産まれてから四年ぶりに子を宿した母は甚く親族から喜ばれ、私がいた離れから本殿へと移る事が許されたのだ。
「だから邪魔をしないで……」
母の狐目がきつく私を睨む。
「貴方がいるとお腹の子に、その無能が伝染るのよッ!」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「分かったのなら早く外に――うっ」
突如、母は苦しそうに急に胸元を掴むと、生物が放つ特有の不快な音を発し、嘔吐した。
「うぐっ……おえぇぇええッッ」
びちゃびちゃと不快な音が響く。
叫んだせいで喉が切れたのか、その吐瀉物には赤い血液が混ざっていた。
「魔狐羅ッッ!何があったッッ⁉︎」
野太い声に振り返ると、父――神鬼玄武が額に玉のような汗をかき襖を開け入ってきた。
「貴様……何故ここに――」
およそ一年ぶりに見る父の顔。
私はその事に喜びを感じた。
だが、
「どけッッ!」
「きゃあっっ⁉︎」
剛腕な父の腕に弾き飛ばされ、私は襖を破り中庭へと降り落とされた。
衝撃で土埃が舞うと、雨に濡れた土が口に容赦無く入ってくる。
「何を呆けている!早く医者に診せろッ!」
父はけたたましい怒声ですぐに駆け付けた執事達を怒鳴りつけた。
慌てて執事達が母の体を抱き上げると、すぐさま屋敷の外へと運び出した。
「お、お母様……ケホッ……」
口に入った土のせいで喉が詰まり、声が上手く出せない。
目に涙を浮かべながら、去り行く母の事を私は案じていた。
「また貴様の仕業か――」
背後から聞こえた冷たい声に、自然と体がこわばる。
「ぁ……」
振り返るとそこには、私を見下し立ち尽くす父の姿があった。
二メートルを超える巨体を持つ父に見下ろされ、私は声に詰まる。
「ぁ……ぅ……あぅうざま(お父様)……」
恐怖と苦しさとで上手く回らない舌で私は父の事を呼ぶ。
「この穢らわしい愚者がッ!」
「ひぐっ……⁉︎」
父は私の着ている着物の襟を掴むと、片手で持ち上げた。
首元が絞まり、呼吸もままならない私に父は容赦無く怒鳴り続ける。
「真狐羅の腹の子が死ねば唯一の子である自分が正当な後継者に戻れるとでも考え、腹の子を呪い殺しに来たか⁉︎心底意地の汚い愚者がッ!」
「ち、ちがいまず……か、かな……ぅあ……」
「口答えをするなッッ!」
「きゃあ――ッ⁉︎」
2メートル以上ある高さから、私の小さな体はぬかるんだ地面へと再び叩きつけられた。
「貴様のせいでどれだけこの家の者達が迷惑をかけられたと思っている‼︎部外者の貴様の為に、どれだけの人々が苦しんだと思っているんだ!」
父は癇癪を起こし怒号を浴びせた。
鬼の能力が放つ瘴気が辺りに咲く花々を枯らし、そびえ立つ木々が音を立ててあり得ない角度へと折り曲がっていく。
「やめて……ッ!やめてぐだざぃ……ッッ!」
庭に咲く花々は、母が大切に育てていた花だった。
母と一緒にいた数年――屋敷の雑務で呼び出されただけだったが、私と母はそこで花を植え、まるで自分達がそこにいた証とでもいうように、大切に育ててきた。
もうこれ以上それらを壊さないように、私は土泥に額を埋め込み、父に頭を下げた。
「ごぇんなさい……。どぅか……お許しくだざい……ご当主様」
「口をつぐめと言っただろうッ!たわけッ!」
だが父はそんな私にも容赦無い言葉を吐きかける。
「貴様のような角の無い愚者、その邪気が言霊に乗り、私に伝染りでもしたらどうするつもりだ!」
「ッ…………」
言葉を発すれば殴られる。
私は謝罪する事すら許されなかった。
それは知能を持ち、言葉で文明を築いてきた人間や怪人に対しての、最大の侮辱だった。
父にとって――いや、母にしても祖母や祖父、それに屋敷の使用人達からしても、私という存在など、ただの“呪い”でしかなかったのだ。
「忌々しい愚者が――命を奪わないでやるだけ、ありがたいと思え。貴様のその“角無”という烙印の意味をゆめゆめ忘れぬようにしろ」
「ぅ……うぅ……」
「二度とこの本殿に足を踏み入れるな、愚かな人間風情が――」
最後に父はそう吐き捨てると、私に背を向け、襖の奥へと消えていった。
「……………………」
ざーざー、と雨の音が虚しく屋敷の庭へ響いていた。
私が悪いのだろうか。
「………………………………」
汚く濁った泥の水溜りには、顔に泥をつけたただの見窄らしい子供が写っていた。
私は何をしたというのだろうか。
産まれた時から、普通に生きてきたはずだ。父や母に逆らった事はない。
屋敷の使用人達にも、下界の人々にも。誰かに卑下されるようなことなどしてはいない。
私は、誰にも迷惑をかけないよう、生きてきた。
ただ角が無かった。それだけだというのに……。それだけで、生きている事すら赦されないというのか。
いや、違う――角がある事が私の存在を許される条件なんだ。
角がある事で、人並みに息をし、歌い、笑い、悲しむ事を許される。
今までの前提が間違っていたんだ。
「角を、生やさないと――」
庭を見渡すと、腰掛ける為に置いてある丸石が目に入った。
角があれば私は罪を赦してもらえる。
角があれば私は怪人として、神鬼家の跡取りとして生きる事を赦される。
角があれば、私は父と母と、そしてこれから産まれてくるだろうもう一人の家族と一緒に過ごせる。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
今から自分がやろうとしている事を想像すると、自然と呼吸が荒くなる。
けれどやるしかない。
こうするより他に、私が生きる手立ては無いのだから――
「――――ッッ!」
私は意を決し、額を石へと打ち付けた。
焼けるような衝撃が頭蓋骨へと響いた。
だが私は歯を食いしばり、もう一度額を石へと叩き付けた。
私の角はきっと無いのではない。骨の内側に埋まっているだけなんだ――愚かな私は、そう考え何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も頭を打ち付けた。
取り出すんだ、角を――
見つけ出すんだ、生きる為の証を――
頭蓋骨がひび割れ、眼球を貫き、私の視界は徐々に赤く染まっていく。
それでも私は頭を叩きつけた。
角が見つかるその時まで――
「…………」
「……………………」
どれくらい時間が経ったのだろうか。
次に目を覚ました時、私の眼前に広がるのはどこまでも白い、病院の天井だった。
「愚かだな。このまま死ねれば幸せだったものを……」
まだ霞む視界の中で、父はそれだけ言うと私のいる病室から出て行った。
「コ、コ……は…………」
痛む体を堪えながら、首だけを動かして私は状況を確認した。
私の身体中には点滴といくつもの回復の念が込められた呪札が貼られていた。
「ツ、ノ……ハ…………」
呂律の上手く回らない舌でそう言うと、私は自分の姿を見る為に、横に置いてある姿鏡の方へと首を動かした。
私の頭の中に埋まっていた角は、あれだけ衝撃を与えれば取り出せる事が出来ただろう。
辛い時間だった。けれどこれでようやく終わったんだ。
期待に胸が躍る。
心臓の音がうるさいくらいだった。
私はかろうじて動く首を横へと傾け、姿鏡を見た。
「ァ…………」
現実というのは、あまりにも無常だった。
鏡に映っていたのは、身体中に札を貼られ、潰れた額にから血を流す化物だった。
「アァ……ウァァ…………」
骨の内側に、角が埋まっている訳では無かった。
そんな事は分かっていたはずなのに、ただ本当に自分が無能なだけという現実……。
決して家族と過ごす事の出来ない絶望が、生きる事を赦されない絶望が、私の中に込み上げてきた。
「ゥアァアアァァァァアアアッッ!」
私は爪で引っ掻き、何度も札を取り除こうと
「ぅぐッ……⁉︎」
爪が傷口を抉った衝撃で、私は思わずうずくまった。
「――――」
「……⁉︎」
突然、近くの病室から赤子の産声が聞こえた。
「赤チャ……ん……?」
ただの赤子の声では無い。何か引っ掛かりのある感触だった。
私は痛みを忘れ、その声に導かれるように病室を出ると泣き声のする方へとゆっくり歩いて行く。
「――――」
再び、その赤子の声が響いたその瞬間、世界の理が変わった気がした。
泣き声は細く、かすれているはずなのに、天井も壁も越えて広がり、
世界そのものが一拍、呼吸を忘れたように静まり返る。
鼓膜ではなく、存在の核を叩く音。
私はすぐに実感した。
この世界の新たな神が産まれたのだと。
「ココ……だ……」
神鬼と書かれた病室――両親に気づかれぬよう、私は息を殺し、赤子のいるその病室の扉を、ほんのわずかに押し開けた。
軋む音が出ないよう、指先に力を込める。
それでも心臓の鼓動だけが、やけに大きく耳に響いていた。
「――――」
漏れ出た光に、思わず目を細める。
病室は、ひどく明るかった。
清浄で、温かく、祝福に満ちた光。その中央で、母はベッドに身を預け、赤子を抱いている。その傍らには父の姿があった。
二人は、私に気づくことなく、ただその小さな命だけを見つめている。
「見事だ。この子は、いずれ神の座に至るに足る資質を持っている」
「ええ。貴方の在り方を礎に、立派な神へと至るでしょう」
祝福の言葉が、静かに交わされる。
父も、母も――笑っていた。私が、一度も見たことのない表情で。
胸の奥が、ひどく冷える。
「オと、うサマ……おカアさ、マ……」
もう誰も私を見てはくれない。
もう誰も私の言葉を聞いてはくれない。
もう誰も私の存在を覚えてはくれない。
「カナハ……ココ、二……イ、ルヨ……」
父の、母の、笑う姿を見たのは産まれて初めての事だった――私が、あの二人から笑うというものを奪っていたのだ。
私は、虐げられた被害者なんかじゃない。父と母の人生を壊した、加害者だ。罪人だ。
そして、罪人であるならば――その罪は、償わなければならない。
だから惨めでも、命を絶つことはできない。
それは父と母に、そして生まれたばかりの、新しい家族にまで、
余計な迷惑をかけてしまうから。
だから私は、生きる。
角を持たないことで、父上と母上に迷惑をかけたのなら、
これ以上、何一つ迷惑をかけないように。
例え一緒に笑う事が出来なくても、
例え私の存在が見られなくても、
例え私の名前を呼ばれなくても――
ただ、私は生き続ける。
それが、私に許された唯一の償いなのだと。
私はこの時、誰にも聞かれることのない誓いを、静かに心の奥へ沈めた。
xxx
「へぇ……流石、ココからの景色は綺麗だな」
天界循環線のバスは、音もなく雲の道を進んでいた。
車体の外では車輪が回っているはずなのに、揺れはほとんど感じられない。窓の外に広がるのは、地上の空とは質の違う、奥行きを持った白と金の世界だった。
雲はただの水蒸気ではない。層ごとに色合いが異なり、下層は乳白色、中層は淡い蒼、上層は星屑を溶かしたような金色を帯びている。バスが進むたび、雲は道を譲るように左右へと静かに割れ、その隙間から浮遊する社殿や楼閣が垣間見えた。
「うぉ……重力すげぇ……」
バスが高度を上げると、眼下に天界の街並みが広がる。
黄金と白玉で造られた屋敷が整然と並び、庭園には季節を持たない花々が咲き続けている。道には人影もあるが、誰も急がず、誰も立ち止まらない。
ふと視線を戻すと、雲海の向こうに天の羽衣の流れが見える。
それは川のように緩やかに漂い、時折、光の粒子となって空へ溶けていく。その流れに沿って、白い鳥とも精霊ともつかぬ存在が静かに舞っていた。
『次は瑞光天域駅。瑞光天域駅に止まります』
和やかな声で車内に次の停車駅のアナウンスが響く。
いつもとは違う雲上の天界のバスの車内――そこに俺、淫鬼夜ひなたはいた。
「えーっと、神鬼ん家の住所は『はじ……?ぞう、けいこう……』なんじゃこりゃ……全然読めねぇ…………」
入間先生から渡されたプリントには
『瑞象顕光無量天域雲上第七重層・神威常在特別奉斎区一丁目零番地』
と神鬼角無の住所が示されていた。
なんだこれ、全く読めない……。
そういえば天界の住所は難しい漢字が多い事をすっかり忘れていた。
住所が読めなければ目的地に辿り着くことも出来ない。
「クソ……だから天界なんて来たくなかったんだよな……」
つい1時間前の自分の行動を後悔し、俺は頭を抱えた。
xxx
1時間前――
怪妖高校下駄箱前。
「クックック……クヒッヒッヒ」
自然と漏れる笑い声。1時間前の俺は、ここ最近で一番テンションが高い自覚があった。
何故こうもテンションが高いのか――その理由はただ一つ、なんとあの超人無敵最強という単語が歩いている者のような神鬼角無が、病に倒れ学校を休んだのだ。
「神鬼の奴、風邪で休むとは情けねえ」
下駄箱に靴を放り込みながら、俺は止まらない笑みを押し殺そうともせず続ける。
「まぁ日頃の悪行が祟ったんだな。天罰だぜ天罰。今まで俺を苦しめた分、精々苦しんでうなされるが良いぜ。クヒッヒッヒ」
神鬼が休みであれば、すなわち部活は休み(厳密には部員の俺と春流々がいるから休みにはならないが、勝手に休みに俺がしている)
早く家に帰って溜まった積みゲーの消化とソシャゲのログボを消費しなければ。
「さぁ忙しい忙しい!今日は神鬼のせいで出来なかった事を一気に巻いていくぞーー!うぇーい!」
意気揚々と校舎の出口へ足を踏み出した――
その瞬間。
「おい、淫鬼夜」
背後から、嫌に落ち着いた声がかかる。
「い、入間先生じゃないすか……どど、どうされたんですか?」
嫌な予感がし、俺は震える声で返答した。
声をかけてきたのは俺のクラス担任――入間先生であった。
「部活動をサボるというのなら、今日はこの後は暇という訳だな?」
「い、いやサボるなんてそんな……それに今日は溜まってるゲームを消化する予定でして忙しいので……」
「全くお前は……神鬼がいないとすぐサボるな……」
「まぁいい」と言って、入間先生は話を続ける。
「淫鬼夜、お前天界の行き方は分かるよな?」
「え?天界……?」
天界――それは怪人の中でも金持ちだったり、高貴な身分の怪人達が住まう夢の楽園。雲の上に聳える空中都市だ。
「そりゃ何度か社会科見学で行ったことあるし行けますけど、それが何ですか?」
「神鬼の家がそこにある関係でな、お前に今日のプリントを届けて欲しいんだ」
「神鬼に……」
俺は言葉を詰まらせる。
せっかくの安息の時間を手に入れたというのに、わざわざ神鬼に自分から会いに行って時間を無くすなんてナンセンス極まりない。
「嫌ですよそんなの。天界って陽キャな奴しかいなくて窮屈なんですもん。天使先輩に行かせりゃいいじゃないですか。あの人も天界から来てますよね?」
「あいにく天使は今度の学園祭に向けて忙しくてな。というか他学年のプリント届ける用事まで、生徒会長といえど流石にアイツに頼めるわけないだろうが」
「ならクラスの他の奴らにすればいいじゃないですか。天使族はいないけど、ユニコーンとかガルーダとか天界住みの奴等いましたよねうちのクラス。名前忘れたけど」
「馬鹿者」
と叩かれる。
「怪人研究部で同じ部活にいるお前が適任に決まってるだろ」
「えぇ……そんな折衝な……」
xxx
『 霊光交通結節口駅は誰もいないようなので、次は――」
「あっ!降ります!降ります!」
降車駅のアナウンスが鳴り、俺は慌てて叫ぶ。
急ブレーキを掛けると、バスは降車駅のすぐ横で止まった。
「へ、へへ……初めて来て不慣れなもんで、ありがとっす」
運転手に小言でも言われるかと思い、俺は適当に笑いながらその場をやり過ごそうとする。
だが運転手の返答は俺の予想とは全く違うものだった。
「いえいえ、お客様を目的地へと運ぶのが私達の職務。どうぞお気になさらないで下さい」
天狗族だろうか。
長い鼻、背中に翼を生やしたその男性の運転手は和やかに微笑んだ。
「もしお客様、天界が初めてという事でしたら良ければ近くまでこのままお送りしましょうか?」
「近くまで?いや、だってこれ路線決まってるだろ」
なに公共物の私物化をしているんだこの運転手は……。
「いえいえ、お客様を目的地へと運ぶ為なら路線変更もやむなし、それが我が『天狗バス』のモットーです!」
と誇らしげに天狗は元より高い鼻を高くした。
「いやでもほら……他のお客さんにも悪いし……」
と面倒なので断ろうとしたが、他の乗客までもが茶々を入れてくる。
「大丈夫ですよお若い子。私は急ぎはありませんので」
「そうそう、初めてならしょうがない事だもの。遠慮しないで」
乗客の誰もがキラキラと澄んだ瞳を俺に向け、口々にそう言って俺を諭す。
「い、いや……でも……」
初めて受ける親切心の嵐に居た堪れなくなり、
「本当に大丈夫なんでッッ!」
と言って俺は勢いよくバスから降り、吸血鬼の俊敏な脚力を生かして全力で走ってそこから離れた。
そうして5分ほど走ったところで俺は足を止めた。
「はぁ……はぁ……天界の奴等、人が良すぎてヤバいな……肌に合わなくて逆に気持ち悪ぃ……」
普通見ず知らずの怪人にあそこまで親身にならないだろ……。
父と母の生まれ故郷で、治安が悪い事この上ないと有名な地獄界じゃ、きっと神話レベルでありえない話だ。
「はぁ……久しぶりに走って疲れたな……」
俺は深呼吸し、息を整える。
「くそ……ていうか適当に走っちまったから大分離れたよな絶対……」
さっきバスを降りる時は、ナビを見るに確実にすぐ近くの所まで来ていた。
だがこれだけ走れば、俺の脚力なら数十キロは離れてしまっただろう。
「全く……なんで天界来てまでこんな運動しなきゃならねぇんだか。極楽浄土じゃねぇのかよ。天界って所はよ……」
そう愚痴をこぼし、顔を上げた。
――その瞬間だった。
「……ていうか、これって」
言葉が、途中で喉に詰まる。
眼前に広がる光景に、俺は息を呑んだ。
神鬼がクラスメイトであるせいで、すっかり感覚が麻痺していたが、神鬼家は、天界・下界・地獄界――三つの世界を統べる、この世界そのものの神だ。
年に一度の祝賀祭では必ず神鬼の父親が姿を見せ、その住まう屋敷も、決まって映像に映し出される。
そう、世界中が知っているのだ――神鬼の“家”を。
もちろん、それは世情に疎いこの俺でさえ例外じゃない。
「……この巨大要塞が、実家かよ。金持ちってレベルじゃねぇだろ……」
外見は古式ゆかしい社殿に近い。
柱と梁は、星砂を練り固めた黄金木で造られている。
それは木でありながら金属のような光沢を持ち、内部には微かな星明かりが脈動している。傷つくことはなく、触れた者の穢れを静かに吸い取り、やがて光へと還す神材だ。
そして屋根は檜皮に似せて編まれた雲絹で覆われている。
雲と布の中間のようなその素材は、雨も風も通さず、天界の光のみを透過させる。軒から垂れ下がる天の羽衣は雲絹と同質で、常に淡く発光し、屋敷全体を柔らかな結界で包み込んでおり、何とも神々しい。
そしてその下界離れした特性の全てが俺に訴えかけていた。
間違い無く、この世界の神――神鬼家が住む屋敷であった。
なんか最近何度かランキング入りしてました。全ての人に感謝を。




