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妖精眼のパンドラ  作者: 文車
第三次巨人戦争 中編
97/98

13


 轟々と風が吹き荒れる。しかしそれは衣服の翻りに見ることができるだけで、池の周囲は全くの無音が続く。

 「ヘルメス神」――そう呼ばれたその青年は静謐に目を細めた。

『――……どうして育ってしまったんだ』

「……?」

『おっと』

 「神」の顔を出したのも束の間、愛嬌のある笑顔に戻してヘルメスは謳うような手振りで言葉を続ける。

『いやね、うちのご主神とテオドールの仲が悪いのは崇も知ってるだろ?だからね、中身がここに無い内に殺してしまえっていうのは今に始まったことじゃないんだよ』

「――!?」

『あれ、テオドールから聞いてたよね?ゼウス神とテオドールが昔ガチの大喧嘩(殺し合い)したから僕とかオリュンポスと関わることになったって――』


―――


 それは崇が可愛らしい幼子であった頃。

 神と人が関わるなぞ絵巻の空事。だが度々黒い森を訪れるヘルメスと師の遣り取りに、崇は幼く訊いたのだ。

「どうして、師匠はヘルメスさまとお話するようになったんですか?」

 その時既に崇が利発な子とは知っていたが、年相応の随分可愛らしい質問にヘルメスはやや唇から空気が弾ける。テオドールは揶揄うこともなくその疑問に、柔らかいながらシンプルに答えた。

「それはな、(おれ)がゼウス神と命を獲り合ったからよ。それから我らが父との縁が出来て、神との繋がりとなったのさ」

 崇は薄く口を開いて小首を傾げた。テオドールの左手が優しく頭を撫でたのでそれから先の言葉は出なかったが、崇はこの答えを丸きり信じていなかった。

 歳が上がって思い返せば、もう少しましな濁しにならなかったのかと思った。テオドールが嘘を吐く人間ではないのはとっくに分かり切っていることで、幼い自分が知るには良くないことだったのだろうと崇は目星を付けていた。


―――


 だがその言葉全てが真実で、一言一句違わず事実だと誰が信じるか。

『ま、まあまあ。…そういう訳だからさ。退いてくれない?崇は傷つけないよ』

 崇は大きく溜息を吐く。

「退きません。師を捨てる弟子ではありませんので」

 テオドールにどう言ったものかという思いは抱いたが、それとこれは全く別の話。毅然とした光を瞳に宿し、臆することなく崇はヘルメスに返答する。

『…どうしても?』

「駄目です」

『ダメかあ……』

 ヘルメスは躊躇う素振りを見せるがその程度で杖の向きを変える崇ではない。相手は狡知の神だ。何が詐謀で何が真か容易く見えるものではない。

 あの頃とは違い、崇は心身共に大人になった。テオドールの弟子だからという理由ではないのはもう分かっているが、知恵者のひとりとしていくらかの教えを受けた恩は忘れていない。だが崇の天秤はとうにテオドールに傾いていた。目的が違えば背く覚悟はできている。

「師匠を殺したいのならそのようにしたら良いでしょう。こちらは相応に抗するのみでありますから」

『……そうか。なら、根比べといこう』

 ヘルメスが手を上げると先程よりはるかに多い羽音が響く。鶴に近い大きさの、朱鷺(トキ)に似た鳥がその指揮に応じて姿を現す。翼の先と剣のような嘴は青銅に輝き、その眼光は狂乱の神性に輝いている。

「…今日はよく神秘に(まみ)える日だ」

『(…あの色は神代の青銅(ブロンズ)か?見たことがない)』

「そうだね。どう、やれそう?」

『(…問題無い。材質に関してなら、俺の方が上だ)』

「ああ、そのようだ」

『(…来る。盾で受けるぞ)』

 一度に三羽、螺旋矢のように急速回転する刃の嘴が突進する。嘴と結晶が不協和音を奏で、弾かれたのは青銅の鳥だがその直後に盾が砕ける。

 『ステュムパリデスの鳥』。それがこの怪鳥の名前だ。ヘラクレスの十二の難行の一つに数えられるこの鳥はギリシャの戦神アレスのものだが、その見目にもあるように朱鷺に似ている。朱鷺といえば、ヘルメスの聖鳥だ。この怪鳥達は、ヘルメスの聖鳥の一羽を片親に生まれたとも、その姿を似せて創られたともいわれている。真偽はどうあれ、ヘルメスが連れてきたこのステュムパリデスは十二の難行の対象になったステュムパリデスよりも特別だった。

 その証拠が圧倒的な硬度の差があれど古代の盾を砕く青銅だ。神気による強化かそれともヘルメスの権能かは判然としないが、古代の護りを破る破壊力を見せる。

 だが古代には動揺が無ければ息を乱すことも無い。古代が一枚の盾に全てを注ぐのではなく、淡々と、主を守るのに最適な手段を講じているのをヘルメスはすぐに見抜いた。ヘルメスは試しに毒液を降らすよう仕向けたが、ステュムパリデスの毒を受けてもその結晶は溶解しない。

(なるほど。主人の魔力と自分の魔力、その総量を合わせていて、お互い自由にその魔力を引き出しているのか。そうなると、数で攻めるのはかえって彼女の利に……。

――待った。自由に使い魔が魔法を使ってるって事は、()()()()()()()()!?)

 やられた、とヘルメスは攻撃中断を伝えようとしたが遅かった。ステュムパリデスの動きを絶え間なく追い続ける目はそのままに、しかしこれまで一度も開かなかった唇が今ほころぶ。

「《開け、熔鉄の火口。七つの火をも呑み込む熔鉱よ。不浄なる全てを熔かせ》」

 ヘルメスのウィングチップが空中を蹴る。次の瞬間、神の鍛冶場が如き熱量を持つ空間が顕界した。

――『熔鉄領域(クラーター・アゥシュ・アイゼン)

『ギュイエエ!!』

 ステュムパリデスが悲痛な鳴き声を上げ墜落していく。その美しい翼は融け落ち、嘴は見るも無残に曲がり液状の青銅が草地に滴る有様だ。

『あっぶな…!結構減っちゃったな。でも、思ってるよりまだまだいるんだ』

 ヘルメスが指を鳴らすと生き残ったステュムパリデスが一斉に集まる。十や二十ではなく、五十を超える数のステュムパリデスは上空へ高く飛ぶと旋回しその勢いを増していく。

「…!?」

 瞬間、神威の光が水面を照らした。轟々と風が渦巻いたかと思えば無風の筈の空間に崇目がけた強風が吹き付ける。体制を低くし風をやり過ごした崇だが、突如暗くなった空を見上げるとその眼を見開いた。

 空が暗くなったのはその体躯が太陽を覆い隠したからだ。一本では体を支えられず、二本の木に両足をかけたステュムパリデスは聞くものを不快にさせる高い声で鳴いて首を回す。その大きさはおおよそ五メートル、数では圧せないと合体し巨大な体躯へと変わったのだ。

(不味いな。まさか合体するなんて)

『(崇、大丈夫か)』

(分からない。…最長で、三日か……)

 崇の頬に冷や汗が伝う。長い戦いが始まった。


* * *


 ギリシャ神代、『オリュンポス』。

 霊体となって天上の地へ到着したテオドールは、着いて早々相も変わらず濃い神気で満ちた空気に溜息を吐く。

 オリュンポスは十二神と役割を持つ神々、そしてその従者や召使いが住まう所。光で満たされ美しいもの、善いものだけでできている。だからこそ、深みの魔力を持つテオドールにここの空気は合わなかった。

『蛇よ。十二神様がお待ちだ』

「分かっているよ。文句を言うなら迎えでも出してから言え」

 神従はテオドールの「身の程を知らない」返事にその美しい貌をきつく強張らせる。神従も末席とはいえ神、ただの人間であるテオドールの態度は不敬という言葉では表しきれないほど屈辱的なものだった。今すぐその頬を打ってやりたい気分だが、そうしたら自分がどうなるか分かったものではなく拳を震わせることしかできない。

 神従の怒気をさっさと無視してテオドールは十二神全員が集まる神殿へと向かう。来訪を伝えると巨大な門が開き、中へ通される。柱がいくつも立ち並び、豪奢かつ荘厳な装飾が施された通路を通り過ぎると謁見の間への門が開かれる。

 左右五組、正面に一組の玉座に巨大な神々が座している。今まで地上に姿を現したオリュンポスの神々は人間と同程度の大きさだったが、巨人と同等のこの体躯が本来の神々の姿だ。

 十二神の視線を浴びてもテオドールは乱すことなく足音を響かせ中央へ向かう。そして中央へ辿り着くと跪き頭を垂れる。

「“蛇目(バジリスク)”テオドール・ギフト。神託を受け参上致した」

『――矮小なる蛇よ。顔を上げるがいい』

 重く、絶対的な声とその神威が直に響く。今のテオドールは魂が剥き出しになった状態で、神がその気になればいとも容易く握り潰される身だというのに臆する様子も無く堂々と正面を注視する。

 立派な黄金の髪と髭を蓄え蒼天の瞳を持つオリュンポスの主神「ゼウス」、プラチナブロンドの髪を結い輝かんばかりの白く美しい肌を持つ美貌の女神「ヘラ」の二柱がテオドールを見下ろしていた。


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