12
村への襲撃から一日。断続的かつ小規模な襲撃は続いていたが村の巨人からみれば毎年の戦闘と変わらないもので、遥の内象が顕界し続けていることも加わって驚くほど平和だった。
遥の内象、『大薔薇・大棘城塞』は一度顕界すれば遥が解除するまで存在し続ける不朽の城壁で、遥が考えればそのように姿を変える不落の性質を持つ。今は城壁の形をとるがこの内象顕界の本質は「城塞」で、防戦に徹する代わりにいかなる攻撃も受け付けない。本人が語るには吸血鬼としては臆病な気質がこのような内象を形成したのだという。留塚町で起きた事件でも遥が捕縛されるまでその根城は見つからなかったが、理由は単純で隠蔽に特化した「部屋」をこの内象顕界で創り出していたために最後まで分からなかったのだ。
現状遥の中に居座った「口」を無駄に活性化させないよう遥は静養を崇から言い渡されている。指令役を伴った襲撃が再度起きた場合は遥が回廊に立つが、そうでなければ遥がどこにいても城壁は問題無く維持されるためだ。
かくして防備の憂いを払い、広場で情報の繋ぎ合わせをしていた朝のこと。
『―― であるため、発生源から予測して――……』
『―― その地点の情空域の魔力濃度次第では――……』
他の村で調査を進める【妖精の輪】の職員と通信を繋いでいるのを尻目に、テオドールが牙を見せる大欠伸をした時だった。
「…?おい、あの鳥初めて見る鳥じゃないか?」
「本当だ……なんて美しい鳥なんだ……」
巨人が柄にも無い言葉で感嘆の声を上げる。テオドールの左に座る崇もその声に顔を上げた。
「白い鷲…?霊鳥でしょうか。確かに綺麗ですね」
「――あ?白鷲?」
確かに崇の言う通り、全身が真白で尾の長く、鷲に似た鳥が悠々と上空を旋回する。だが崇とは対照的にテオドールの声色はどすが利いている。
「ッチ……来やがったかよ」
「師匠?」
明らかに機嫌が降下したテオドールの顔に鷲の影がかかり、広場の中央に向かってその白鷲は下りてくる。静まり返った広場の上空で、長く美しい声を一つ響かせた。
『告げる。告げる。地にありて冥府に汲みする蛇よ。これは大神ゼウスの神託である。神代に参上し、不死なる巨人の顕界について詳説せよ』
白鷲は再度高く鳴くと、一際眩い光と化して消えた。
場は混乱に陥った。湖の村の人員だけではなく、通信越しにその神託を聞いた職員の狼狽する声が押しかけてくる。
何故神の名が。何故神託が。何故このスカンディナビアの山地に、ギリシャの主神が干渉したのか。
「嗚呼煩い、騒ぐな!祟りも神罰も起こりゃあしねえよ。手前等は何時も通りにしていろ。勘繰りは必要無え」
「テオドール、テオドール殿、ですが、何故神が。我々は神に干渉してもされてもいない民だったというのに。まさかまた戦いが起こるというのですか」
「――神との戦いか」
そうです、と村長が瞳に明らかな動揺を浮かべる。おぞましい魔性とでも、異様の霜の巨人とも戦える。だが神と戦うのは訳が違う。
巨人族は神に敗れるか、相打ちとなる種。誰がどうやって「そう」と決めたか知る術も無いが、そうなることを運命付けられている。神と相対した巨人は衰萎を強いられるのだ。
「案ずるな。お前達が戦うのは霜の巨人以外に無い。今は滅んだ神代とて、此処はスカンディナビアの地だ。彼奴等が怒りを向けたところで、向く相手は只一人だからな」
空に目を向けてテオドールは嘲笑する。
「不死の巨人、あれらにギガースの名を付けたろう」
「ええ」
「それが理由だ。放っておけば巨人戦争の再戦になるやもしれんと気付いたのさ。そうなれば彼奴等は安穏を脅かされる。早急に始末をつけたかろうて」
テオドール自身が崇敬する神もギリシャ神代の神であるにも関わらず、その空には不遜な態度をとる。だが余りにも巨人達が恐々とするのでテオドールは空を見るのを止めた。
「まあ、憂天の必要は無いという事だ。ファルステン、己は大神の呼び付けに参じなければならん。その間己の警護は弟子に任せる。三日程離れるが、障りは無いな?」
「ええ、それは問題ありません。ですがどこから向かわれるのですか?」
「北東の奥に月を映す池が在るのだったな」
「残夜の溜め池ですか?あれは伝承のもので…」
「まあ、行けば分かるだろうさ。己達が戻るまで其処等に近付かんよう触れを出せ」
テオドールは崇を呼び、付いて来るよう促す。崇は何を聞くでも無く後に続いたが、村を出てしばらくしてからテオドールが口を開いた。
「崇、己が神代に参ずる時だが」
「……。え、はい?」
「話を聞け」
「いえあの、事前説明されるとは思っていなくて」
「何回か有っただろう。…いや、有ったか?まあ、良い。今回は今しておく」
杖で軽く小突かれたが別段崇の敬意が薄いという事ではなく、テオドールは事前に説明をする師では無いのだ。基本的に崇にやれるだけやらせて行き詰ったら手を貸す師で、出先で何かをする時もその時その時でしか話さない。だから崇のセンサーは周囲の観察に向いていたのだが、今回は事情が違った。
「己が神代に向かった事は、話した事は有ってもお前が来てから無かっただろう」
「…そういえば」
「だから先ずはそれからだな。そもそもの前提として、人間が神代に向かうことは無い。今は人と神の領分が明確に分かれている世なのだから、ギリシャ神代でも神が人間に絡みこそすれ人間が神に絡むことは無いだろう」
「そうですね」
「だが時折、神が下界を知らねばならない時がある。オリュンポス以外の例を己は知らんから他の神代がどうだかは知らないが、オリュンポスはそうだ。その時、神々は神と関わりがある人間の中で、その事態の渦中か最も近い所にいる者を呼び出す。彼奴等が最も好ましく思うのは巫女なのだがな、まれに己も呼び出されるのよ」
そう語るテオドールの表情は渋い。テオドールと崇が流れを汲むのは冥府であるからなのか、その対極に位置する天空神に呼び付けられるのは複雑なものだろう。だがそれを鑑みても、テオドールの表情はそれよりも単純に「嫌々」行ってやる、と見た方が正しいように思える。
「己は親父殿と交わした誓約でその呼び出しには応じなければならない。確かこれは話したことが有ったな。己はハデス神に三つのことを命じられていると」
「……『自ら神性に接触しないこと』、『オリュンポスへの召集には必ず応じること』、『神性に戦いを仕掛けられても極力それを避け、自己防衛に抑えること』…でしたか」
「その通りだ。良く覚えているな」
改めて口に出して、何故己の師はこのような誓約を交わしたのか理解が追い付けない。否、神代に召集するだけならテオドールという人物は神に認められ、一廉の見識があると分かる。崇もそれをよく知っているし、それに何度も助けられ、育てられたのだ。だが他の二つは何なのか。まるで神というものが、テオドールという人間を恐れているような。遠ざけたい、追い遣りたいと思っているような。だがそれにしては冥府神は良くして下さるし、冥府に関わる神が何回か黒い森の住処を訪れていたことがあったのを崇は覚えている。
「まあその誓約が有るから行かねばならないが、己は生身では行けん。牙や毒は持つなと仰せだ」
「――霊体で、向かうのですか?」
「ああ、そうだ。前は洞窟を岩で塞いでフレイミアに任せていたが、今はお前が居るからな」
「…つまり、中身の入っていない師匠の肉体を殺しに来る奴が居るかもしれないと」
「その通りだ」
崇は額を押さえた。テオドールは今は隠遁の身だが、彼に恨みを持つ人物は大勢いるのだ。彼の弟子となってからその側杖を食った数は多い。その上直接対決する可能性まで増えたとなると頭痛がしてくるが、テオドールは呵々と笑った。
「なに、なに。心配は要らんさ。彼奴等はお前にはそうそう手出しするまいよ。嫌われる方が怖いからなあ」
「何を言っているんですか……」
訳が分からないと崇は唸るが、テオドールが指した杖の先に目を丸くした。気付けば目前まで来ていたらしい。
「これは……神気の池ですか?」
「そうだ。残夜の溜め池とは佳く言ったものだ。時をも凍らせ、その彩を留め置くとはな」
その溜め池の色は深く、澄み渡って夜空を映していた。陽の登る時間だというのに仄かな光を池の星が放っている。
テオドール曰く、この池は神代の名残だという。すなわちスカンディナビア神代、その水に由縁する神の名残だと。崇は占星術には明るくないためその差異は分からなかったが、この池の星々は現在の星空よりも強い瞬きを残していると教えてくれた。
「――さて、と。長くて三日かかるだろう。如何にもならない敵が出たらこの池に己を落としてお前は退け。そうなったら自力で如何にかする」
まあ、そうはならんだろうが。
崇がかけた熔鉱蜥蜴の結界越しに片目で笑うと、テオドールはその眼を閉じる。池のほとりに焚いた火が枯れ枝を舐め舌を打つ音が静かに聞こえる。
風が吹く音が聞こえるが、この空間は無風だった。神の遺したものは、外界から隔絶された一種の神域に近い性質を帯びているのかもしれない。
この〈魔力世界〉は神が存在する世界だ。物語や空想の産物としてのそれではなく、確かなものとして、触れる事すらできるものとして存在している。神の住む場所を『神代』というが、既に滅んだ神代のこのスカンディナビアにもこの場所のように残る神秘がある。
だからこそ、「澱が溜まる地に、強く匂う場所がある」と教えられたことが疑問だった。
ヨールの言葉が信じられないのではない。大麦の村への侵攻、赤鬼が率いた襲撃から徐々にその「敵」の概観は明らかになり、ヨールの言葉通り『澱』……すなわち「溜まり」があること、その場所の魔力が不自然に収束していることが分かっている。その場にある魔力に手を加える種族はこの山地にはいない。よって外部から入って来たもの――人間の手によるものと推測されている。が、そもそもそれがおかしいのだ。
確かにスカンディナビア神代は滅びたが、今なおその神秘は色濃く残っている。それはすなわち、神代の頃にあった神と人間、その力関係は逆転していないということを示す。人間が身の程を弁えない行いをすれば必ず神秘の『怒り』が下されるのだが、その「敵」は頻度こそ不明だが人工的に霜の巨人を生み出し続けている。
(何がある。いや。何を持っている……?)
全体と共有している情報、師匠と共有している情報、自分だけが感知している情報を崇は頭の中で節合していく。
だがその時、明らかに異なる『神気』が急速にこちらへ接近してきた。
「!!」
崇はテオドールに真っ直ぐ突っ込んできたその物体を杖で殴打し吹き飛ばす。しかしそれは一度きりではなく、次々と鉄のような質量を持った物体が飛来する。その速さは目視で捉えるには難しいかに思えたが、杖で打った感触で崇はその正体を察知した。
「《融け墜ちろ、イカロスの翼が如く》」
テオドールの前に立ち、崇が詠唱すると飛来物が一斉に黒い炎に包まれる。池の周囲に墜落したそれは、嘴と翼の大半を失った朱鷺のような怪鳥だった。
翼の音は辺りから絶えることなく聞こえる。完全に囲まれたと分かるが、崇がテオドールの前に立つとその突進は止まり、崇が感知した『神気』の持ち主がその空に現れる。
『…やあ、久しぶり。随分大きくなったね。僕のこと、覚えてる?』
その声の主はコバルトブルーのジャケットに羽根を挿した旅帽子を被った、金髪碧眼の美男子だった。軽薄そうな若者然とした態度とは裏腹に、その出で立ちは洗練されたもので金と白のウィングチップがよく似合っている。万人から「好ましい」と見られる人種だろう。
だが親しげに言葉をかけられたにも関わらず、崇の表情は険しいものだった。
「――これは。何のおつもりですか、ヘルメス神」




