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妖精眼のパンドラ  作者: 文車
第三次巨人戦争 中編
94/98

10


 魔力が澱み溜まる谷。湖の村から数えて五つの山を越えた先。そこに、『神々の娘の従者団』という看板が堂々と掲げられた、黒塗りの立方体のような外観の研究施設がある。

 夜明け前にその研究所に帰投した赤鬼(レッドキャップ)は、一日半の念入りな準備と休息の後「雇い主」との対面に応じていた。

「“魔門の悪魔(ファウラス)”。分かっているだろうな」

『あー何回もうっせえよ。分かってるっつってんだろーが』

 赤鬼はうんざりとした様子で頭を振るが、いくら辟易しても知った事では無いというのか「雇い主」の男性は何度も言い聞かせたであろう作戦内容の重要項目を繰り返す。

 「雇い主」はそれなりに質の良いスーツの上に白衣を羽織った、真っ当な研究主任といった風貌の男だ。しかしその肌は灰褐色のような淀んだ色で、目はまともではない輝きを宿しあちこちへと忙しなく動いている。

 赤鬼は一目見て「悪魔」と分かる悪魔だが、その人間はまるで「悪魔憑き」ではないかと思う程度にその存在全てが狂気的だった。赤鬼は生理的嫌悪に近いものを男に感じていたが、この男に雇われている以上反抗することはできない。そういう『契約』だからだ。

「いいか、絶対に、絶対に、“煌角の黒山羊”様だけは生きて連れてこい。まあ、間違っても、あの御方はまずお前に殺されるような御方ではないが、傷の、傷の一つも付けるな。丁重に連れてくるのだ」

『聞・き・飽・き・た・わ!!!!!第一あの魔法使いはサブ目標って自分で言ってただろうが!!何回も何っ回も聞かされてウンザリだ!!クソが、敵だってのに同情するぜ…』

 悪魔は鎌を顕界させ足音荒く部屋を出て行く。男も彼が出て行った部屋を去ると廊下を進み、極厚のガラスで霜の巨人(ヨトゥン)の養育場と隔てられたモニタールームへ到着する。

 コンピューターを確認すると十五人の霜の巨人がいなくなっている。赤鬼がそれだけの数を連れて出撃していったということだ。肉持つ巨人(イェッタ)の数は増えすぎたため何人減ったかは目では把握しきれないが、順当な数を率いたようだ。

 順調だ。何もかもが順調に引き寄せられている。男の目が恍惚に潤み、頬に淀んだ赤みが差す。

「ああ……全ての母なるひと、どうか我らしもべの黒き光となってください。その御名を口にする日を心待ちに、我らしもべはここまできました。ああ、ああ………」


――――――――――


 太陽が頂点を過ぎ去った時だった。

「……?」

「何だ……?揺れてる……?」

「雪崩か?」

「揺れている…というのは?」

 幸か不幸か、それは崇が納品する銀の絹の仕上げを終えた時だった。食休みと称し駄弁っていたエコレとアルヴァラが不意に顔を上げ、耳を澄ます。

 しかし次の瞬間、二人は迷いなく武器を手に取り立ち上がった。まるでプログラムに記されていたような速さだが、機械と違うのは明確な理性と意思があっての行動だということ。

「二人共…!?」

「霜の巨人だ。おふくろさん悪い、ツケといて!」

「崇、お前はここにいてくれ。以前の比じゃない。恐らく、(むれ)での襲撃だ」

「う、うん……」

 まるで別人、とまではいかなくとも有無を言わせない二人の空気に崇も足を止める。

「気にしなさんな。山の巨人(ベルグリシ)にとって、霜の巨人は本能的な敵なんだ。何があろうと戦うようにできてるだけなんだよ」

「ノルンさん…」

 崇は杖を出そうとした手を下ろし、念のため部屋にいる優一を呼びに行こうとする。だがその時、音を立てて酒場の扉が開いた。

「竹中!時間が無い、一刻も早く君の血を吸わせてくれたまえ!」

「は?」

「ふざけてんじゃねえぞてめえ!!誰が崇の血でっつった!!」

「ど…どうしたんですか皆さん!?」

「分からない……」

 入って来たのは物見櫓に向かっていたはずのウォルフと遥、村長の家に行っていたクロードだ。ウォルフの怒声が聞こえてきたのか部屋で作業をしていた優一が下りてきたが、崇も首を振るしかない。

「先程も説明しただろう。君達二人は非童貞、藤崎君では吸い尽くしても一分目すら満たない」

「…ウォルフ、手を離しなさい。遥、さっきも言った通りだけど、崇ちゃんが承諾しなければ強制的にアンプルで補給させるわ」

 埒が明かないとクロードが早々に仲裁し、ウォルフは心底気に入らないという表情だが遥の胸ぐらを掴んでいる手を渋々離す。

「分かっているよ。嫌がる女性に無体を強いるなど紳士のすることではない。なに、「誘う」のはこちらの本分さ」

 その台詞に崇の顳顬(こめかみ)がひくついたが、以前事件で最初に相対した時程の怒気はまだない。

「霜の巨人の群れがこちらへ押し寄せているのは知ってるね」

「ああ」

「その情報には一つ追加がある。その群れを率いているのは、昨日話した「杯を奪いに来た悪魔」の赤鬼だ」

「…!何処でそれを?」

「私も吸血鬼の末翼だ。自分の一部を分けて哨戒にあたらせる程度ならわけもない」

 遥の指先から小さなコウモリが生み出される。吸血鬼の標準的な能力の一つがコウモリや霧など、「群体」と見ることのできるものへの変身・分裂だ。この能力は主に回避や撹乱に使う吸血鬼が多いが魔力で上手くコントロールすれば物見や尖兵として扱える。

「もう少し経てば藤崎君のレーダーにもかかるだろうが、それを待っていては間に合わない。何せ「群れ」を率いての襲撃だ。私も『内象』を出し惜しんで悠長に構えてはいられなくてね」

「……貴方一人では魔力が追い付かないと」

「即座に出すには無理を通す分の魔力が必要だ。故に――」

「――ああ、もういい」

 「説得」を続けようとした遥の言葉を崇は冷たく遮った。その眼差しは様々な嫌悪と数多の言葉で言い換えただけの「搾取」に対する憎悪に等しい怒りが露わになっている。

「御託は要らない。どうせお前達の望み欲するものなど変わらないのだから」

 別人だと思いたくなる程に冷たく低い声だった。他者の意見などまるで受け付けるものではなく、そもそも()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と首に切っ先を突き付けるような、絶対的な声色。

「『くれてやる』。ただし場所を移すぞ。二人きりでさせてもらう」

「…!ああ…!もちろんだとも!」

 崇の返答に遥にも変化が見られた。まるで愛の言葉を受け止めてもらえた、まだ恋の少ない少年のように頬に恍惚の赤みが差す。

 もう一方で変化があったのはウォルフだ。とはいっても、それは瞬きの間。対面の位置に立っていた優一は気付くことができた程度だが――その月の瞳に美しいものも汚濁も混じりきった、痛烈な憎悪が瞬きの()に燃えた。

 一連のやり取りは五分とかからなかった。しかし言葉として出てはいないがあまりに生々しく、経験のない「もの」が満ち溢れ吹き荒れた会話に優一の感受容量は麻痺した。

(な、なんだったんだろ、今の……)

(『……相っ当なものに出くわしちゃったわね……』)

(「メル…今のって、メルは分かる?」)

(『絶対教えないからね。関わらないのが一番よ。あんたの性分からして見なかったことにするってのはできないんでしょうけど、これはとりあえず結果だけの記録にしときなさい』)

 普段は直接姿を現して優一と話すメルヴィスだが、余程今の出来事が壮絶なのか現れる気配が全く無い。

 呆然としている間に崇と遥は二階に上がったようだ。行先は崇とテオドールの部屋なのだろうが、そこで何が起きるかなど優一には今の光景を見てからでは全く想像できなかった。



「《跪け》」

 相部屋とはいえ、ここは寝所。そこに男を入れたとなれば行き着くものは一つと考えるのが常だが、それに価する温さも甘さも無い物々しさが場を圧する。

 『言霊』ではないが、力を持った命令を崇は発する。だがその表情は変わらず苦渋を湛え、せり上がる生理的嫌悪に耐えるものだ。

 対して遥はそれが当然であるかのように傅いた。女王に拝謁する騎士というより、服従を是とする熱狂的な民の眼光が薄く燃えている。

「手短に済ませろ」

 崇が右袖を捲り上げると露わになった白い肌に遥の喉が鳴る。暖房の効いた室内にずっといたからか崇の肌は内側から血色が透け、吸血鬼の本能的な欲求を煽る。

「――《黒き森より来たれり処女(おとめ)よ。その躰を巡り満たす赤を乞い願う》」

 遥が詠うように言葉を紡ぐ。普段は人間に気取られないよう牙を変形させ人間のふりをしているが、その牙が徐々に鋭さを取り戻し捕食者のそれへと変貌する。

「――……《許す。喉を爛れさせ胃の腑が陥穽と化す血を浅ましく願うのなら。口に一度含めば良い》」

「《嗚呼、ああ、ああ、そのように》――」

 吸血鬼の瞳孔がかっと開く。興奮を隠さないながらも崇の腕を沿ったその手はどこまでも丁重に、一対の牙がぶすりと突き立てられる。

「――」

 皮膚に穴が開き、血管の線維をぶちぶちと裂いて血が溢れる触感がした。しかしその仔細な感覚にも崇は眉一つ動かさない。腕に齧り付いた遥の口端から細い赤の筋がみっともなく数本滴るが彼がそれを気にする様子は一切無く、溢れるほどに崇の血がその口腔を満たしている。

 留め置きたい血をさんざ()しんで喉仏がゆったりと上下した。牙が抜かれ、再度(のろ)く噴き出す血を舌が這い舐めきつく吸い上げる。

(あ)

 吸血鬼のプライドとしてへばりついた理性がその寿命を告知した。甘い、しょっぱい、などとたかが味覚程度では量ることも幼稚な命の(しずく)、何もかもどうなろうと知ったことでは無いと媚態醜態を曝しても尚身に余る絶頂が前頭前野を浸す。

 遥は全能で理解した。搾取する側、される側などという関係は最早概念からしてこの存在の御前では瓦解し塵芥と化す。全ての雄はこの女性に奉ずるものであり、どちらが上だ何が優かなどと論ずる事そのものが――。

「おい」

 その思考は現実ではコンマ数秒だったが崇は瞬時に遥の精神状況を悟った。遥の額に指が押し当てられ、強く押しているでもないのに遥の顔は上を向かせられる。崇の妖精眼が容赦なく覗き込む。

「勝手に飛ぶ(ラリる)な。大の大人が赤子のように涎を垂らしてみっともない」

 崇の妖精眼が遥の「精神」を捉えた。いってはいけないところに両足を今まさに突っ込んだ精神を眼術で無理矢理引きずり上げて冷水をぶっかけ正気に戻す。

「――――最高に()く、最凶にまずいな。妙な臭いはしないかね」

「していない」

「そうか。《処女(おとめ)よ、望んでくれ。何であろうと叶えてみせる。どうか望んでおくれ》」

 遥は崇に正気に戻された直後、自身の想像し得るあらゆる痴態を危惧した。自身の精神状態を誰よりも理解する『内象顕界者』であるからか遥の自己鑑定の客観性は高かったが、引き延ばされた理性の寿命が「このままではまたいってしまう」と息も絶え絶えに騒ぎ立てる。『正式な吸血』という形式がその警句をどうにか実行に導いた。

 望め。望め。何であろうと望め。四肢が吹き飛びこの身が血煙と化す暴禍でも迷わず望め。再びおかしくなってしまう前に。貴女(おまえ)から賜った血が狂い猛り叫ぶ前に!!

「………はぁ」

 激情と欲情と本能に理性を凌辱されている眼に、崇は冷たい溜息をついた。

「《――美しい薔薇を咲かせてこい》」


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