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妖精眼のパンドラ  作者: 文車
第三次巨人戦争 前編
84/98

12


『――――…………』

 ぴくりと、その「山」の()が動く。

 ざわざわと風が吹く。

 予感を運ぶ風。それも、酷く原始的な、「本能」の括り(カテゴリー)に入るような。

 友よ、と彼は思案した。いずれ大いなる自然に還るこの身では、満足に動けないから。感じたところで間に合わないのは分かっているから。

 どうかあの子を守ってやって。そして叶うなら、この予感が現実になる前に、あの子と話をしたい。

『――――(輝ける角の子を、此処に)…………――――』


――――――――――


 奈落に落ちる。

 崇は不快感に顔を顰めた。それは顎岩(あぎといわ)の二人が、崇を巻き込むと分かって技を出したからではない。…いや、それも一役買っているのかもしれないが、それが主であるのではなく。

 頭痛と吐き気。腹部に感じる不快感。自身は経験したことがまず無いものだが、月経のそれと伝え聞くもの。

 あるいは、悪阻(つわり)

 全くもって心当たりも何もないそれに似る感覚を、崇は現在進行形で味わっていた。

 おかしいと思う。今自分は、味方の攻撃に巻き込まれて落下しているだけなのだが。頭を打ってこうなっただけであって欲しい。不快でしかない。

 意を決して目を開ける。落ちている巨人。肉の身体を持つそれらと一緒に落ちている。

「ははよ。ははよ」

「あい、あ、あ、た、たかった」

「はは。わたしの」

 煩い。

 轟轟と吠える声が地割れに木霊している。母とは何だ。そして何故、私を見てそう呼んでいる?

 覚えた言葉を繰り返す幼子のようだ。自分が何で、父母とは何なのかを理解した頃のような、しかし自分の意思を伝える手段の数はまだまだ少ない赤子。

 吐き気がする。吐き気がする。目で見ている光景が流れる速さと脳の処理速度が合わず、時間が遅くなっているように見える。早くこの原因不明の不快感が終わって欲しいというのに、最後まで味わえと云わんばかりに時間は丁寧に流れていく。

 しかしその時、大変出来の良い頭が――この時ばかりは出来の悪い頭だったならば幸せだっただろう。真実に直結する重要な感覚を得られなくなるが、その方がずっと、ずっと幸福だっただろうに――一つの答えを、実感的に正解だと導いてしまう回答を出してしまう。


 この不快感の本当の持ち主は、私と同じ存在であり。

 彼女がこの不快感を、今正にこの瞬間、実感している。

 ()()()()()()()()()()()()()()()


――――――――――


 崇が地割れに巻き込まれてから二日。

 意識を失い、使い魔も消耗し魔法を使えない崇達の救出に向かったのはアルヴァラだった。顎岩の二人は村長とレイオに相応の処罰を受け、謹慎処分を言い渡されている。

 崇の意識は戻っていない。地割れの底に肉持ち(イェッタ)の亡骸が重なり合い、その上に積もった雪の上に崇は眠るように倒れていた。まるで肉持ちが崇を守るためにそう死んだのかと思うような。不自然な光景が広がっていたのをアルヴァラは覚えている。

 あの地割れの底は魔力溜まりだったようで、アルヴァラが酩酊するほど濃い魔力が満ちていた。崇が目覚めないのはそれもあるのだろう。

 あの後、あの「境界」には肉持つ巨人も霜の巨人(ヨトゥン)も現れなくなった。しかしその代わりに他の村から両方の巨人の出現報告が断続的にあがっている。

 崇が動けなくなったことを受け、彼女の師匠であるテオドールが調査に加わり、湖の村付近に巨人が出現しなくなったのを好機として現状は境界線(ガードライン)を押し上げている。もし「竹中崇」が巨人の行動に関わる何かとするなら、尚更村に敵の巨人を近付けるわけにはいかないとテオドールが告げたからだ。村長ら年長者は女を行かせたからではないかと訝しんでいたが、テオドールの(こたえ)はこうだった――「あれを『普通の女』と同等に扱うな」、と。

 崇はまだ眠り続けている。時折(うな)されうわ言を言っていることがあるが、その言葉はアルヴァラの知らない国の言葉だ。

「………」

 “パンドラの檻”のメンバーとテオドールは、村長らと共に他の村に滞在している【妖精の輪(フェー=ルウェン)】の職員と連絡を取り合い会議と調査を続けている。昨日は宿の女将のノルンが崇の様子を見ていたが、今日はアルヴァラがその役目を代わっている。

 テオドールは「魔力が馴染み切れば(いず)れ目を覚ます」と言っていたが、それがいつになるかははっきりと言わなかった。今日か、明日か、もっと先の日か。

(早く…早く、目を覚まして欲しい。一昼一夜でそれが成るとは思えないが……。それでも…)

 この感情は何なのだろうとアルヴァラは自問する。地割れに呑み込まれる崇を見た時、絶望の冷たさが心臓を握り潰すようだった。顎岩の二人の浅慮な攻撃への憤りは、自分自身でも驚く位に激情の炎として燃えていた。…彼女を助けるのは、自分でありたかった。他の誰にも譲れないと思った。

 彼女が、「竹中崇」という女性が『何』であるのかを知っているのは、彼女の師は当然として――それに不満はない――他は自分だけだという直感がある。この手の感覚は、まず間違わないものだ。本能に直結しているものは間違わない。

 うす(くら)い優越感。閉鎖的、束縛的ともいえる村の掟の中生きる巨人族の女性とは違い、人間の女性は異性と接する機会は多い。崇もその例に漏れず、信頼できる異性と対等な関係で生活している。だが、崇の持つ『それ』に気付いているように見える雄性はいない。

 …だがこれは、ただの我欲。浅ましく(おぞ)ましい獣性。気付かなければよかった。それならば、これは恋心になれただろうに。

 自己嫌悪に顔に影を落としていると、扉が三回叩かれた。

『ウォルフだ。入っていいか』

「ああ、どうぞ」

 呪いによる休養を問題なく終えたウォルフは作戦会議よりも現地調査に駆り出されている。彼の嗅覚に頼る部分は多く、巨人族にも認められ対等に扱われている彼がいるのといないのとでは調査の進めやすさがかなり違うようで湖の村に滞在している人間の中では一番忙しくしている。満月の眠りより目覚めてから崇の顔も見る暇もなく働いていたが、一つ区切りがつきようやく戻って来れていた。

「あー、話は聞いてる。…お前が同行してくれててよかった。話聞いてる限りあいつらが助けに行ったとは思えねえし、クロードがいたとはいえ助けるのに時間がかかって取り返しがつかなくなってたかもしれねえ」

「いや。当然のことをしたまでだ」

 ウォルフは右手中指のリングを外すとサイドテーブルに置き、そのまま踵を返す。

「…ここにはテオドール殿が結界を張っている。その必要はないと思うが」

「…は、知ってるよ。干渉してやろうなんざ思ってもいねえさ」

 牙を見せ、挑発的な笑みをウォルフはアルヴァラに向ける。

()()()()問題だよ。師匠殿の護りには到底及ばないものなら、込める思いは消えちまうものか?」

 そうは思えねえな、とウォルフは部屋を出る。馬の様子でも見に行こうかと階段を降りると、テオドールとすれ違う。

「あ、お疲れ様です」

「おう。今日はもう終わりじゃあなかったか」

「バルモの様子でも見に行こうかと。調査には乗ってやれてないですから」

(…何か有ったな)

 テオドールは一応扉を叩き部屋に入る。朝見た時と変わらない状態だったがそれに落胆することもなく、崇の様子を観察する。

 呼吸、脈拍共に正常。変わった事は無いかと訊けば、ごく(たま)に魘されている事以外に変わり無し。

 サイドテーブルに男物のリングが一つ乗っている。隠してはいたようだがアルヴァラから感じ取った険呑さ、その原因はこれかとテオドールは僅かに目を細める。

「変わりはないですか」

「ああ。そろそろ目覚めても良い頃だが。心拍も息も落ち着いている。身体に変異が出る事は無いだろうよ」

 小さく「よかった」と呟く声が聞こえた。険呑さは薄れたが、アルヴァラの瞳にはどうしようもない「情」が渦巻いているのがテオドールには見える。

(…此奴(こいつ)もか。自覚して使っているのでは無いから生かされたが、無自覚でこうさせるのもな)

 しかし惚れた腫れたは当人の問題。テオドールにはおおよそ関係ないものだから放っておく事にする。

「アルヴァラ」

「はい、何でしょうか」

「狂うなよ」

「は?」

 それはどういう、とアルヴァラは訊こうとしたがテオドールはさっさと部屋を出て行ってしまった。

(狂う?…狂うとは一体、何に…?……いや、憤ることはあっても、狂うという程までになることは…)

 頭を捻るがテオドールの真意がさっぱり分からない。しかし無意味に放った言葉ではないはずだと考えるが、やはり分からない。ウォルフが置いて行ったリングが視界に入ると無性に苛立ちに似た感覚を覚えるが、「狂う」という感覚に行き着くようには思えない。

「う……」

「!」

 だがその時、穏やかだった崇の表情が苦悶のそれに変わった。

「Mir ist übel….」

「っ、崇…」

 浅く荒い息、じっとりと滲む汗。強く握り締めている手は爪痕が内出血しているほど。終わらない悪夢に耐えるための自傷行為染みている。

 汗を拭ってやって、内出血が酷くならないよう手を開かせる。強く強く握り込んでいるはずなのに、アルヴァラの力ですんなりと開く白魚のように白く柔らかい手。

(これ、以上…。苦しまないで、ほしい。……嗚呼……)


《目を、覚ましてくれ》


 声にならない囁きが漏れた。――その瞬間、『魔法』の匂いが嗅覚を擽る。

 様々な「緑」の(つる)が崇の枕元から伸びる。その蔓は貴人の寝台を形作る。分かれた先には蕾が生まれ、むせ返るほど柔く、澄んだ香りと共に花が開く。葉は瑞々しく、花は透き通るほど。(つゆ)が如き蜜がふたしずく、両の瞼に一滴ずつ落ちる。


 薄明の魔力が満ちる。


 霞のように捉えどころが無く、僅かなゆらぎとしか形容できないものなのに、確かにその魔力が部屋を満たしている。射し込む夕日の残滓が反射して、画材を水に溶かしたように揺らめく魔力が浮かび上がる。

 その色は薄明。銀より薄く、白より()き、どの光の色に染まれども、それ自身の色を知るものはいない色。

 すう、と。一つ、崇が息を吸う。

 その目を縁取る睫毛がふるりと揺れる。

「……っ………」


 薄明の妖精眼が、目を覚ました。



(続)


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