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第三訓練棟。
「裏口に避難用の通路がある!そこに入るんだ!」
「とにかく走るよ!瓦礫に気をつけて!」
崇と生徒達は一度訓練棟を出て裏口へ向かう。昔からこの学院にある隠し通路に逃げ込めればまず侵入者は入って来れない。
崇はしんがりとして生徒達と一緒に行動していた。ちらりと空を見上げると、金剛を持つ竜が悠然と羽ばたいている。
「こっち!早く入って!」
アリサがぽっかりと口を開けた隠し通路の前にいた。
「!」
その時、崇は竜の背に乗る何者かと目が合った。
不味い、と思考の警鐘が鳴る。「急げ!!」と崇はあらん限りの声で叫んだ。
「先生……!?」
「いいから、早く!!――ッ!!」
バリバリと雷霆の音がする。崇が無理矢理岩石を集め隠し通路を封じた途端、轟音が崇を貫いた。
「先生ーーーッ!!!」
「いや!!どうして!?開けてください、先生ッッ!!」
くぐもっていても伝わる悲痛な叫びに崇は薄らと目を開ける。
「……大丈夫。封を、した。すぐに、ここを離れなさい」
岩の隙間から液体が伝う。
肉が焦げる臭いと、神経を刺す激痛。崇の脇腹には黒々とした穴が開いていた。
「古代……」
前のように古代の「火」を貰おうとしたが、肩に乗っていたはずの彼の重みが無い。どうやら先程の雷の鎗によって飛ばされ、引き離されてしまったらしい。古代の魔力が急速に遠ざかるのを感じたのを最後に、魔力を追うことはできなくなった。
「――……嗚呼。待ち侘びたものだ」
かつ、かつと踵を鳴らし、白銀の騎士が崇に近付いてくる。
「紛うこと無き邪悪。“リリス”よ。私を憶えているだろうか」
「…………誰だ、お前」
彼が着込む甲冑には十字架が刻まれている。全く心当たりが無さそうな崇の表情に、騎士は面白そうに短く笑った。
「まあ、顔を見れば思い出すだろう」
騎士が兜を脱ぐと、ややくすんだウェーブブロンドと端正な男の顔が現れる。崇はそれでもしばらく記憶を探っていたが、ようやっと思い出した。
「……………お前、あいつか。審判の時に私についていた、あの」
「……随分と図太い性格になったようだな。お前の首を落とさんとしていた男のことをこうまで忘れているとは」
「その気があるのに殺らない奴はいつまで経っても行動しないものだ。それで、今更私を狩りに来たのか?」
「ああ、そうだ」
きっぱりと騎士はそう言った。
「『許し』を得た、私でもか」
「私達は『許し』を出してはいない」
「………ああ、そういう奴等だったな。お前達は」
世界をも消しかねない魔力を持つ崇が「生きる」、そのためだけの『許し』は既に出ている。だからこそこうして崇は追手に苛まれることなく生きているが、【教会】はどうしようとそれを認めたくないらしい。
「……とはいえ、たとえお前であっても罪のない子供を守ったことは認めよう。それで傷を癒すがいい」
騎士は淡い緑色の光を発するエーテル体が入った小瓶を崇に投げるが、受け取られることなく地面に落ちる。崇は自身の魔力で傷を治すと、小瓶を躊躇なく踏み潰した。
ガラスが割れ、中身が零れる。だがそれと共に雷霆が崇の足元を走り抜けた。
「ハッ……なぁにが『傷を癒すがいい』、だ。溝鼠のような薄汚い手を恥ずかし気もなくよく使う。いや、この例えは溝鼠に失礼だな」
崇の右手に魔力――“魔精殺し”と、その魔力を軸に小瓶に仕掛けられていた雷とで槍を成す。
「不必要だ。返すよ」
魔精殺しと雷が混じり合った槍が騎士に向かって飛ぶ。魔力持つもの全てを「消滅」する“魔精殺し”だが――騎士は槍をガントレットで受け止め、その形を分散させた。
「この程度の“魔精殺し”で私を倒せると思うのか!“同族殺しの黒い森”!!」
分散した余波の魔力はおろか、直撃した魔力ですら、ガントレットの一部も欠けていない。
「……」
「しかしそれは私が教会の“騎士”であるがゆえのこと…。許しを得ようとも、お前達は生きていてはならないのだ!ああ、聖約の騎士はどれもこれも甘い。お前達が生きることを許されないのは、リリスが夫に口答えし、主に逆らった時から決まっているというのに!!」
騎士が手を翳すとその周囲に光輪を持つ槍が複数生成され、崇目がけて放たれる。串刺しになるその瞬間、槍の数と等しい金属音が聞こえた。
「ん……」
(刀……?)
砂煙が晴れたそこには、日本刀を納めた構えの崇が屈んでいる。
「…あれが『守り刀』か」
竹中崇は武術の覚えはなかったはずだ、と騎士は奥歯を噛む。だがその構えは相当な手練れのものだ。
面倒な、と騎士は苦味を潰した。報告によれば、あの刀には妖刀とまではいかずとも憑いているものがある。崇の目を見るに乗っ取られているのではなく、体を「任せている」状態だ。同じ状況を騎士が経験したことがないわけではないが、先の攻撃を全て弾いた実力を見るに並の刀ではない。
だが、それは何の障害にもなり得ない。騎士はこの日を心待ちにしていた。喜悦の表情、口角が上がるのを抑えようもなかった。
「私は信じていた。私は必ずこの時が来ると確信していた!お前の命が我々の手からすり抜けて八十余年!この好機を誰が手放そうものか!!」
騎士の目に、現在の崇と、八十年前の崇の姿が重なる。彼にとって、崇は――初めて殺り損ねた“魔精殺し”だった。
――――――――――
1936年、ヴァチカン。聖アレクサンデル審問所。
魔女狩りの風習は鳴りを潜め、ここ数十年使われなかった【教会】の審問所で、この日、異端審問が行われる。
異端審問に関わる全ての聖職者が着席し、空いた席など一つもない。それどころか傍聴席も満杯という、異例の事態だ。
彼らが厳に視線を降り注ぐのは壇上に立つ一人の少女。罪状は、“魔精殺し”。当時十歳となってひと月余りの、竹中崇だ。
「あれが…今代の、“魔精殺し”……」
「丁度、以前の魔精殺しが処刑されてから十年ですね。随分と早い…」
「よく覚えているな、アルフレート」
「当然です、我が師よ。刑を執行したのは私ですからね」
白銀の騎士、「アルフレート・ヴィシェ」は爛とした目で崇を見下ろす。真実のみを話すという宣誓が交わされ、いよいよ審問が始まった。
この少女は、魔法の対人訓練会で怒りによって魔力が暴走し、師の左腕を落とす結果となった。そこで彼女が魔精殺しを持つことが判明し、【教会】への召喚を命じられ、ここに至る。
(……堂々としている。まだ幼いのに。憐れなものだ…魔精殺しであるばかりに死ななければならない)
アルフレートは憐憫の情が籠った目で法廷を見ていた。審問官の問いに淡々と答える崇の目は、腫れてはいるものの揺らいではいない。
「!」
妖精眼だというのはすぐに分かった。その瞬間、アルフレートは崇と一瞬、目が合ったように感じた。心臓が跳ね、鼓動が早足になる。完全に不意を突かれた感覚に、アルフレートは自身の胸元を掴んだ。
「竹中崇よ。では、其方が手習いした魔法、言語はどのように学んだ?」
「どちらも師より学びました。言語は師の書斎にある本全て、読み書きができるまでに。詠唱言語はドイツ語、ラテン語、ギリシャ語、古ノルド語を修めました」
場がざわつく。崇が師匠についたのは三年前のことだ。読むだけならともかく、詠唱で使いこなすのは器用な魔法使いでも三つが限度とされている。「それは何故だ?」と審問官が問うた。
「何故、とは…?」
「それだけの言語を繰る必要性はあるのか、ということである。住む地がドイツであることと、魔法の筆頭言語はラテン語だが、それ以外を修める理由はあるのか?」
とても子供にする質問ではない。審問官は、師匠…テオドール・ギフトがよく分かっていない弟子に力だけを付けさせ、画策していることがあるのではないかと睨んだのだ。
だが、崇はその考えを裏切る答えを出した。
「言葉は、全ての術に通ずるものです。自分が唱えるだけ、書くだけではなく、相手の魔法を呪文から読むこと、道具に書かれた呪文を読み取れなければ意味がありません。正しい発し方、読み方ができてこそ、その術を手繰るに値すると私は思います。だから、多くの言葉を学んだのです」
「……――ッ……!」
胃の腑が震えた。
(ああ、間違いない。この娘は殺さねば!殺さねばならない!!)
危機感……そう、これは危機感だ。高揚などしていない。してはいけない。これまでの下劣な魔精殺しとは比べようもない聡明さと清廉は、このままである内に殺さねば!
「逸るな」
「ああ……申し訳ありません。ですが……あの娘は、あのままでいる内に……」
静かに制されたが、アルフレートは崇から目を離すことができなかった。これまで幾人もの魔精殺しを葬り、『邪滅の騎士』として、魔精殺しの狩り手として師の後継に相応しい実績を積んできたアルフレートだが、崇のような魔精殺しを見たのは初めてだった。
だが、アルフレートの望みは順調にはいかなくなった。崇の弁護人である弁護士ギャスパル・エルーが、崇のこれまでの経歴を証明し、崇が真に“魔精殺し”をこれまでに悪用・暴走させたことがないことを証明したのだ。
魔精殺しの保有者がこれまで例外なく処分されていた理由に、身元や経歴が不明であることが挙げられる。それは即ち、教会が把握していない所で災厄を起こしている可能性を示唆し、その分の罪も数えられると極刑は免れない。
だが竹中崇という子供は、生まれ年や生家に始まり、何歳の頃は何をしていた、どこに住んでいた、その近隣住民に至るまで全てが判明していた。どこをどう見ても真っ白なものに極刑は下せない。ましてや十歳の子供にそうした事例は、教会に無かった。
「このように、彼女は全てが明らかになっています。生まれから習得した魔法まで、『全て』が。それでも貴方がたは刑を望みますか」
「う……ううむ……」
毅然とした弁護士の言葉に審問官が唸る。だが、誰かが「“魔精殺し”は死ぬべきだ」と叫んだ。
「…そうだ!その通りだ!」
「今は何もしていなくとも、その力は存在しているだけで罪である!」
「誰も、その魔力が暴走しない、そのことを証明できないだろう!」
「死刑だ!」「死刑だ!!」「死刑だ!!!」
自らの死を望む声に囲まれた幼子の心境は如何程か。「静粛に!!」と審問官が叫んだが、その男が動いた瞬間、会場の温度が五度以上下がった。
「やはり堕ちたな、教会は」
テオドールだ。地獄の底もかくやの低さで、その声が聖職者の心臓を締め上げる。
「お前達も暇になったものだ。かつて栄光の魔女狩りは時代の流れに薄まり、民衆は教会にお伺いを立てることもしなくなった。血に飢えているのか?まさか?神に仕えし聖職者が?」
ゆらりとテオドールは立ち上がり、背を伸ばす。その動きは、大蛇だ。
「お前達は魔精殺しを『人の枠に収められないもの』として扱うだろう。ならば己は、人では届くすべのないものに崇の審判を仰ぐことを要求する」
「……な、にを……」
テオドールの縫われた目が弱弱しい抗議の声の主を見る。ひ、とその声はすぐに萎んだ。
「とうの昔にここの信用は失墜した。かつて黒猫が屋根にいたというだけで一家全員を火にかけたお前達の栄光は、誰一人、何一つとて見向きされなくなった。さぞや愉しかっただろう。そして、十数年に一度訪れる魔精殺しの誕生を、その死を拝むために待つのはさぞ苦痛だったろうさ。それしかお前達の得手は無いのだから」
只一人から発せられる怒りが場を支配していた。いつ蛇の暴虐が起こるか分からなかった。どんなに高位の聖職者も、騎士も、審問官も、この怒りが過ぎ去ることを乞うことしかできなかった。まさかこの男が、己が弟子に心を砕いていることなど想像もしていなかったのだ。
「己はお前達を脅かそう。要求が呑めないのなら、残ったこちらの腕でお前達のその椅子を真赤に塗ろう。お前達が言い掛かりと悦楽で己の弟子を絞首台にかけるというなら、己は公平にお前達の首を落そうじゃあないか。それでも『正義』を貫くと云うのなら、そうするが良い」
正しいのは、どちらか。悪は、紛れもなく魔精殺しの筈なのに。アルフレートは、拳が震えるのを抑えることができなかった。
結果テオドールの要求が通り、崇はそれぞれの世界の支配、もしくはそれに携わる神と王による審議に通された。異例中の異例だが、世界の消滅の可能性を抱えるものならば神に委ねるのは全くの筋違いではない。
真理と正義を司る女神、“マアト”。魔精殺しをも壊す破壊の神、“シヴァ”。冥府の王神、“ハデス”。
どれに睨まれても死は免れない。だが崇は、認められた。その審議内容は秘され、【右筆】の記録にも残っていない。その事実だけが告げられ、崇は初めて生きることを許された“魔精殺し”となったのだ。
崇は生き延びた。アルフレートは、獲物を殺り逃した。




