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夏期講習開始から三日目。放課後、第十一講堂。
「――それでは、始めようか」
特別講義、魔力言語学。機関に所属している現役の魔法使いの顔を拝もうと、この時間の受け持ちである高等部二年生の人数と同じくらいの見学生が席についていた。
「初めに軽く自己紹介をしておこう。私は、【人魔境界域保全機関】…通称【妖精の輪】の常駐部門の魔力技師、竹中崇だ。専門は特に無いけれど、強いて挙げるならこの魔力言語学、呪文学、詠唱学。言語分野なら教えられることも多いだろうとこの講義を担当することになった。後進への教示は先達の務め、魔力言語学以外でも分からないところがあれば聞きにおいで」
宜しく、と崇は意識して微笑む。真顔だと生徒は怖がるわよ、というオーベックのアドバイスがあったからだ。
「ではまず、事前課題を回収する。――ああ、そうだ」
手のひら程の大きさも無い、ラテン語の単語が書かれた紙が教壇に吸い寄せられ整然と積まれる。
「高等部の二年生は三寮合同だったね。見学の生徒も多いことだし、古老と錬金の生徒が気になっているであろうことを言っておこう。竜騎寮の生徒は殆どが関係ないだろうから聞き流していて構わない」
何だろう、と左側の席についた生徒の多くが顔を上げる。崇は淡々と、当たり前のことを話すようにそれを告げた。
「私の師は“蛇目”テオドール・ギフトだ。石蛇喰らいの魔法使いと云えば知っている者も多いだろう。君達の師や親類に、『“蛇目”の近縁者からは教えを受けるな』と言われている生徒はこの講義を受けなくても構わない」
「「「!」」」
講堂の空気がビリ、と冷たく振れたのが分かった。程なくして一人、二人と席を立つ学生が現れる。最終的には古老寮の学生は半分以上、錬金寮の学生は十人弱が講堂を出た。
緑地のネクタイを付けた生徒が心底不思議そうに手を上げる。
「先生、“蛇目”は…紀元前より存在した古の怪物達を打ち倒し、戦いの叡知、その総てを知る魔法使い。石蛇の呪いすら退けた英傑だと聞いています」
そうだよな、と言うように周りの学生も頷く。
「何故彼本人だけでなく、その弟子の竹中先生も避けるようにと彼らは言われていたのですか?」
曇りのない目、「今」はそのように伝わっているのだと疑うまでもなかった。
どう答えたものか、崇はやや気が遠くなった。崇の知っている「テオドール・ギフト」と、彼らの知る「“蛇目”」像は余りにもかけ離れている。かといってそのままを伝えるのは酷だ。挙手した生徒の口ぶりからして、その大小は計れないが敬意と憧れがあるのは確かだろう。
「――君達の知る“蛇目”は、怪物狩りの英雄として呼ばれる実績があるのは誰もが認めるところだろう。…が、彼は今この世界で生きる「人」であり、私達が普段見えることのない、あるいは既に滅んでしまった「神話」の存在ではない。故に、「テオドール・ギフト」という魔法使いは、その武勲に見合うような、『物語の英雄』のような性格を持っているわけでは無い、ということだ。
君を責めるつもりはないが、こう堂々と訊ねられたことは今まで無かったのでね。遠回しな答えになってしまうことを許してくれ。それでは、本題に入ろう」
高等部の二年生からは魔法・魔術の実技授業が半分を超える。単位の上では詠唱や記述、読み取りの基礎は整っている状態だが、実際に見てみないことには分からない。
「今日は最初の授業だから、まず君達の習熟度を見たい。今配ったプリントの問題を終了時刻五分前まで…五十分使って解いてくれ。教科書や参考書、辞書等は使ってくれて構わないけれど、相談するのは禁止だ。では、始め」
紙を開く音とペンを走らせる音が一斉に響く。学生時代からどの教員にも言われたことだが、教壇からは生徒の様子がよく見える。大体は真面目に取り組んでいるが、十五分が経つ頃には難しい顔をしてペンが止まっている者、退屈そうに時計を眺めている者、辞書を睨みつけている者にうつらうつらとしている者までいる。
前列に座っている生徒ではこちらをまじまじと見ている者までいて、崇が視線を上げると気まずそうに目を逸らしていた。
「……、そこまで」
生徒の表情を見るに、全体的に難しかったようだ。しかしそれが単に学力不足なのか、それとも崇の認識している水準と合ってないのかで評価は分かれるだろう。
「先生」
「ん?ああ、質問かな。いいよ」
プリントを揃える崇の前に立ったのは、竜騎寮のネクタイに羽根のネクタイピンを付けた生徒――崇は名前を知らないが、オリバーだった。
「ありがとうございます。今日の問題、何かの詩のように見えたんですけど、出典を教えてもらえませんか?」
「出典は…。大問一はヘーシオドスの『神統記』、二は『スノッリのエッダ』、三は『ニーベルンゲンの歌』、からだね。奨学生か。君、名前は?」
「オリバー・ホーンウッドです」
「奨学生」は学院から資金の援助を受けている生徒のことだが、この『羽根のネクタイピン』を付けている生徒は各寮各学年で数名・十数名しか選ばれない、成績上位者の証でもある。通常は黒いガウンだが、夏場はネクタイピンを付けることになっている。
「私も奨学生だったんだよ。もう『妖精の学徒』という呼び方はしないのかな」
「試験発表の時に聞いたような気がします」
「まあそんなものだよね。ああそうだ、その今日の問題だけれど、君から見てどうだった?皆魔法使いの生徒だというのは聞いているけれど、実際に君たちが受けている授業の内容とかけ離れてはいないかと思ってね」
そう訊くとオリバーは口元に手を当てた。
「翻訳や記述が長いのには戸惑いましたけれど、違和感はなかったですね。訳してみれば確かに、私達が学んだ呪文にも同じ唱え口のものは多くありますし」
「そうか、それならよかった。私は授業のある日なら朝からいるから、分からなかったり他の先生方に訊きづらいことがあったらおいで。ハルフォード理事の執務室の、向かいの空き部屋だったところが割り当てられたから。他の子にもそう伝えてくれるかな」
「分かりました。ありがとうございます、先生」
一度自分の教員室に戻り、メールボックスの確認や明日の授業の予定を見たり資料の調整などをしていると十八時を過ぎる。その時、スマートフォンがメッセージを受信して震えた。
[崇、お前今どこだ]
メッセージの相手はウォルフだった。教員室の場所を教えると、[分かった]とだけ来た数分後にドアがノックされる。
「来たぞ」
「やっほ~。初授業お疲れ様、崇ちゃん♡」
「もう講習始まって三日だよ。全部片付いたの?」
「おー、何もねえなこの部屋」
「ハルフォード先生の部屋と一緒にしないでよ…。夕飯は?」
「まだよ。久々の母校なんだし、食堂で食べようって話をしてたの」
「荷物はもう置いてきたからな。行こうぜ」
三人で連れ立って歩いていると、前から来た崇達が学生だった頃からの先生が口元をひくつかせる。「大きくなりすぎじゃないのかね」と呆れたような声色に顔を見合わせて笑った。
「あーおもしれー。明日が楽しみだな」
「なんてこと言うんだ…。そういや言い忘れてたけど、ハルフォード先生今は教師はしてないよ。理事になったんだって」
「あら、そうなの!?今も教えていらっしゃると思ってたけど…」
「錬金寮の寮監だったし、まあ経営の方にいっても順当っちゃ順当か?」
「――あ。竹中先生ー!」
「?」
声のした方向に振り返ると、つい一時間前に見た女生徒が小走りで駆け寄って来た。
「先生、そちらの二人も夏期講習の先生ですか?」
「ああうん、そうだよ」
「一緒に食べませんか?さっきそのことで話してたんです!」
今日初めて会った先生だというのに、かなり押し気味で来るのは最近の若者だからなのだろうか。断る気力も湧かず、三人は三寮ごちゃ混ぜな生徒の隣に座った。
「竹中先生とリュピ先生、グレイズ先生ですよね!」
「何で知ってんだ?」
「エイマーズ先生が教えてくれました!卒業アルバムも残ってたんですよー」
「げえ」
何年前だとウォルフは眉を寄せた。卒業アルバムというより黒歴史ノートといった方が近い。クロードは監督生だったが、特にウォルフは素行が悪い生徒として有名だった。
「そうだ、これはちゃんとしておきたいんですけど」
「何?担当科目のことかしら?」
「いえ。竹中先生、どっちですか!!??」
「っん!…なにが?」
堂々とした聞き方に崇は思わずスープが気管に入った。勿論その意図は分かっている。
「男性か女性かですよ!はっ、もしや両性…!?」
「落ち着けアリサ。先生引くだろ」
「でも気になるじゃん!」
鼻息荒く語るアリサと呼ばれた女生徒に、崇は戸惑いウォルフとクロードは肩を震わせて笑っていた。
「じゃあ聞くけれど…君はどう思うの?」
「私は男性です!でも女性でもいい!顔がいいので!」
「すんません、こいつの言う事は話半分くらいでいいです。俺は女の人かなって」
「私もー」
「大体半々くらいなんですよ」
(ああ、この子さっきの授業で残り時間ずっとこちらを見ていた子だったな……)
その後もこの席では怒涛の質問タイムが続いた。出身寮や得意科目、進路云々に留まらず、教員の噂や学院の抜け道、使い魔のことや恋愛遍歴などのプライベートなものまで。実習授業がないのとレポートの締め切りに大分余裕がある時期なのが相まって、とにかく元気な生徒達に平均年齢九十五歳の三人は相当圧され疲労した。
「明日からやってけるかしら…」
「そっちは神学だろう?大丈夫なんじゃないか」
に、と崇は本気かどうか分からない笑みを作る。クロードは珍しく、やや深い溜息を吐いた。




