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はっ、はっ、と荒い息を吐く。地響きをあげて、カミロが倒れる。
「さ……すがに…死……」
大魔法の括りに入るほどの錬金術、それ相応の魔力の消費に「死にそう」とコートニーは声にならない声をあげる。フレドリックも木陰で蹲り、比較的平然としているのは崇だけだ。
「相変わらず…魔力量、変わってないね……」
「まず変わったら拙いものですよ」
「はは。…んじゃ…やってみなきゃ、分からないから、ね」
コートニーはカミロに近づき、腹部の毛を刈る。
「先輩?」
「…あ、ダメだ。俺の剣、とどめで鈍らになってたんだ」
「剣ですか?なら、私のを。抜いてもいませんから」
サンキュ、とコートニーは崇の銀剣を受け取り、毛を刈ったカミロの腹を切る。
「…人狼の見分け方って、竹中は知ってる?」
「いえ…。満月に変身するかどうか、くらいしか」
「だよねぇ。…睡狼薬が効くかどうかとか、月光草に反応するかとか、色々言われてるし、どれが本当かどうかなんて一々探すのは研究者がするものだけど…一つだけ、確実に証明できる方法はあるんだ。条件を満たしていればだけど」
柔らかい腹部とはいえ、体躯の大きいものだとそれなりに苦労する。しかしようやく、コートニーはカミロを解剖した。
「条件は転化した状態であること。その人狼を解剖するとね……」
鮮やかな赤、獣の内臓が動きを止めている。
「人狼は、転化していても人間の臓器なんだよ。構造も、臓器の並びも。変質するのは筋肉と骨格のみで、内臓やその位置は、ヒトのものなんだ。…ぱっと見普通で、それが気持ち悪くなるくらいにね」
医学は専門でない崇にも、目の前のカミロの中身がヒトのものではないことは分かった。すなわち――。
「――これは人狼“カミロ”ではない、と……?」
「……ああ。何かしらの魔術か、魔法か。見目や膂力をカミロそのものにまで近づけた、ただの魔獣だ」
「ただ…の……?」
木に凭れ掛かっていたフレドリックが乾いた笑い声をあげる。
「ふふふっ……っははははは…!!ああ、こんな…こんな事になるなら、死ねばよかったんだ!ニノンの代わりに、一撃で意識も命も抉り取られて死にたかった!!」
「……は?」
「黒山羊、お前には分からないさ……」
ゆらりと木に背中を擦りつけてフレドリックは立つ。
「恐怖に整理を付けることのできているお前には一生分からないことだよ!噛まれることの恐怖が、いつ命を落とすか、満足に死ねやしないだろう恐怖がお前に分かるか!
それに…それにどうにか区切りをつけて立ち上がって、戦った結果が『ただの魔獣だった』!?もうこんなのたくさんだ。死んでいればよかったのさ…こんな臆病な男なんて!」
ふらつく足取りでフレドリックはここから離れようとする。コートニーがそれを止めようと手を伸ばしたが、それより先に崇がフレドリックの胸倉を掴み左頬を握り拳で殴った。
「『死ねばよかった』?お前が?」
ぞっとするほど冷たい声だったが、フレドリックは知った事では無いと薄ら笑いを浮かべる。
「なんだい。『死んでいい命なんてない』なんて綺麗ごとでも言うのか?」
「誰が言うか。お前はどの道いつか死ぬよ。当たり前のことに慰めの虚言を返してどうする」
「っ!」
崇はフレドリックの首を掴み、草むらの上に押さえつける。瑪瑙に似た得体のしれない瞳に見下ろされ、笑みが引きつる。
「お前。残された者がどうなるか知っているか」
「――は」
何を言うかと思えば、とフレドリックは嗤おうとしたが、崇の重く静かな気迫がのしかかる。
「私は八十年以上前に母を亡くしている。もうその声を忘れてしまっている。姿形だって、写真を見なければ思い出せなくなってきた。…父は三十年程前に亡くなった。声を思い出そうとしても、記憶の取っ掛かりすら掴めない」
崇は、〈現世〉の人間だった。崇自身の寿命は魔力世界のものと長く関わっていたため魔力世界の人間と大差ないが、その父母は違っていた。当たり前のことだ。
「それがどれ程無力で、空しく、惨めかがお前に分かるか!?家族が、血縁が、隣人が自分と同じ時を生きることが当然だと、漫然としているお前に!!私はお前の事などどうでもいい。死のうが生きようが知った事じゃあない。だが、お前のその脆弱でウルフに私と同じ思いをさせたくない。……私がお前を止める理由など、それだけだ」
崇はフレドリックの首から手を離し、上から退く。その時、かなりがさついた音で無線端末に通信が入った。
『―― こちら、第三機動部隊、フローラ・グレイズ。カミロとの交戦が終了した。……解剖した結果、この個体はカミロ本体ではなかったことを全部隊に報告する。以上』
憔悴しきっているのが通信越しでもよく分かる声だった。崇とフレドリックのやり取りを静観していたコートニーは、フレドリックがそれに返す気力がないとみると代わりに通信を返す。
「…こちら、第一機動部隊コートニー・セラド。第三機動部隊と同様、カミロとの交戦を終了した。こちらのカミロも、本体ではなかったことを報告する。司令部隊の指示を待つ。以上」
『―― こちら司令部隊、総司令官に代わり藤崎優一が通達します』
「…!」
間を挟むことなく来た通信に意識を向ける。
『司令部隊は現在もカミロと交戦中。第一及び第三機動部隊で、動ける隊員は第二機動部隊と合流し討伐にあたって下さい。スキャニングにより、第二機動部隊と交戦しているカミロが本体である確率が高いです。…どうか、お気をつけて。以上』
通信の向こうから獣の吠え声が聞こえてくる。優一自身は安全な所にいるようだが、銃声と金属音が絶え間なく響いていた。
「…行くかい」
「はい。こんな夜にはいつまでも居られない。…第二部隊からは一度も通信が来ていない。本体があちらにいるなら、森を突破する前に倒さなくては」
崇は杖を握り締めると、魔力の火を杖石に灯す。白い火が崇の表面を包むと、掠り傷の大体が癒えた。
「…フレドリック・グレイズ。お前がそれでも死ぬというのなら、好きにしたら良い。自決する勇気があるのなら、お前のお父上もお前の死を『戦死』としてくれるだろうよ」
狩人装束の裾を翻し、迷いのない足取りで崇は森の合間に姿を消す。コートニーもフレドリックを一瞥して、その後を追う。
「…………くそっ………」
ランプの光が大きく揺れた。
『…………!!!!!』
「この先だ…!」
木々の間を縫って走っていると正面の方向から遠吠えが聞こえてくる。
「ッ…ウルフ!!」
「崇!っく…伏せろ!!」
カミロの尾が崇達の頭を掠め木々をなぎ倒す。辺り一帯は交戦跡で小規模な更地になっていたが、倒れた木の下に部隊員が下敷きになっているのが見えた。
「ウォルフ、他の二人は!?」
「分からん。死んだか気い失ったかの確認もできてねぇ。コートニー、悪いがそれはお前がやってくれ。…俺はどうにもこいつの癇に障ったようでな」
間近で態勢を崩したカミロの横っ腹に、ウォルフは瞬間錬成した鉄塊を拳で撃ち込む。
「フローラの部隊が来る前に片付けるぞ」
「ああ。転化はなしだよ」
「分かってる。…クロードもいりゃあな」
「攻め手に欠けるかい?」
崇は杖を振り、ドーム状の結界を張る。コートニーが助け起こしに行った方向とは真逆の場所に吹き飛ばされたカミロがゆらりと起き上がる。
「馬ぁ鹿。ストッパーがいねぇってだけだろ!!」
獣じみた笑みに口端を裂いてウォルフと崇は地を蹴った。
「《裂け目の深み、熔石の炎。我が命の雫よ、奔流となれ》!」
崇の魔力が杖先に滲み、放たれた奔流がカミロに直撃するとそのまま結晶化する。口に直撃した結晶は顎を塞いでいく。
「砕けろ!!」
上顎にウォルフが踵落としを決め、大きくぐらついた隙を逃さず結晶を砕く。思わず結晶を飲み込んだカミロは、喉がズタズタになる痛みに苦悶の吠え声をあげる。
「はっ…てめぇは、隙がでかいんだよ!!」
カミロが口を開けたタイミングをウォルフは見逃さなかった。閉じられそうなその顎を掴み、万力の力で引き裂きにかかる。
「どうした…閉じてみろよ。随分と見掛け倒しな牙じゃねえか」
『ガッ…ガ……ア、アァ…ッ!!』
「…時間切れだ。《裂けろ》!!」
『!!!!!』
凶悪な笑みを浮かべてウォルフは宣言通り、カミロの下顎を裂き千切った。涎と血が降りかかり、放ったカミロの下顎とその牙から汚いものが地面を侵蝕する。
「ナイス。そこだと巻き込まれるから、避けてよ!《彼方、礎へと連え》!」
「っと!?」
杖先が星雲のような煌めきを一瞬だけ宿す。煌めきの跡には結晶の球が生み出されたが、次の瞬間それは粉々に砕かれ、欠片がカミロを追尾し着弾し肉を抉ると爆発した。
「っぶな。崇、そろそろ決めるぞ!『先導』してくれ!」
「また?『これ』なら君の分野に近いんだから覚えなよ!」
ウォルフが言った『先導』とは、呪文の先導のことだ。一人が先に唱え、一人がそれを後から追って唱えることで魔力のコントロールや魔法のイメージをより鮮明にし、精度を高めることができる。…もっとも、ウォルフの場合、今から唱える錬金魔法の呪文を覚えていないからなのだが。
「「《古き夢よ。旧き大地よ。今ひとたびその眠りから目覚め給え。
水は石に。石は火に。火は空に。流転するは世の恵み、その理に従い我らは述べる。
来たれ、彼の手に。地を根で裂き、枝葉で天を穿ち、喪われた身を贄の肉で補うがよい》」」
崇が杖で地を突き、ウォルフが両手を地面に付けると魔力の線がカミロに伸びる。
「《――万物の標に依り、顕れよ。“ラスゴヴニク”》」
ウォルフが最後の節を唱えると、線がぐるりとカミロを取り囲む。地響きが鳴り、線は「魔法陣」を形成し、その中央からカミロを巻き込んで巨大な金属の樹が姿を現した。
『カ…ヒュ……ガフッ……』
カミロはもがいたが、樹がメキメキと成長し丸ごと呑み込む。樹の音が聞こえなくなる頃には、カミロの心音が無くなったのがウォルフの耳に届いた。
「“錬金樹”を…顕現させるとは」
「ん。…フローラ。合流してたのか」
ウォルフの後ろで呆然と呟いたのはフローラだった。聞こえていたと気付かなかったのか、はた、と少しだけ固まったが気まずそうに咳払いをひとつする。
「ええ。貴方がたとカミロの交戦地に入ると巻き込まれると判断したので、負傷者の救護をしておりました。相変わらず、獣のような戦い方で」
「そうか。今、何人残ってる」
「…死亡者が三名、負傷者が未定、といったところでしょうか。司令部隊からの通信が切れているので、何とも」
皮肉の込もった話し口だったが、ウォルフはそれにさして気にする様子もなかった。
「崇、フレドリックはどうしてんだ?」
「…腹をやられていたけど、生きてはいるよ。いずれここに来るはずだけれど」
「…うちは全員生存か」
フローラが気付いたかは分からないが、崇にはウォルフの張りつめていた空気が少しだけ柔らかくなったのが分かった。
「あっちもそろそろ着くはずだ。全員が揃ったら、司令官立ち合いの最終解剖して狩りは終わり。…あ、噂をすれば。アナスタシア!」
振り返ると、木々の合間からアナスタシアがやって来た。
「…………」
「あれ、アーニャ、君だけ?司令官達は?」
「………どうして……?」
コートニーの言葉が聞こえていない様子で、アナスタシアは呆然と景色を眺めていた。
「…おい、アナスタシア。どうした」
「……どうして、してないのよ…」
ウォルフの声にもアナスタシアは返さない。
「あんなに…あんなに強くしたのに…どうして……?」
声は抑揚が無く、目は虚ろに揺らいでいる。
「――どうして、転化してないのよッ!!??」
「っ゛……!!?」
「――待て、アナスタシア!!」
そこにやっと合流したフレドリックが叫んだが、アナスタシアはその手に握り締めたものをウォルフの腹に深々と突き刺す。
「どうして転化してないの!?あんなに強くしたのに!!全員殺す強さにまで仕上げたのに!!!」
「っ…ぐッ……!」
何度も何度もアナスタシアは凶刃をウォルフに突き立てる。
「何を…何をしている!?それを離せ、アナスタシア!!」
フローラがアナスタシアを背後から取り押さえる。カシャンと軽い音のするものがアナスタシアの手から落とされたが、全員の視線はウォルフに向けられていた。
「ウルフ!」
「…っ…やめろ…。……近付くな……!!」
ウォルフの身体が大きく傾く。カミロを取り込んだ錬金樹から延びる銀の根に膝をつき、大きく目を見開いている。
肩が大きく上下し、荒く息を吐く口元から血の混じった涎が滴る。
「…っ……ぐ…!が、ア、あぐ…ッ……!!」
ごき、ごきり、ぶちん。
骨が圧し砕かれ、筋肉が引きちぎれ、皮膚が耐えられなくなる。
「―――――!!!!!」
突風が吹き荒れる。獣の絶叫が響き渡り、ヒトの形を破り捨て、怪物が首をもたげる。
「………兄さん」
身の丈およそ三メートル。月の色の瞳は激情の狂気が支配する。
…今一度、ここで述べよう。
ウォルフ・グレイズは、噛傷の人狼である。




