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「人狼は、総じて邪悪である」。魔力世界の見識は、何百数千と時を経ても変わっていない。
当然、これの示す「人狼」は後天性の、噛傷による人狼のことだ。一度その牙を受けた者達は、その生を終わることのない自らの獣性との戦いで彩ることとなる。
外見の変貌、野生の膂力、底尽きぬ獣性。己をおぞましきものと見る、他者の「目」。そのどれが原因かは知る由も無いが、良心を捨てた人狼は「邪悪」となり果てる。
生きているものが憎い。恐怖も痛みも知らぬ幼子が妬ましい。かつて己を嗤ったものを苦痛で満たさねば気が済まない。
だからこそ人狼は人を噛む。美しき善性はもはや腐り果て、ただ腐臭と澱みに満たされた悪意が滴り落ちるだけ。
――それぞれの区域に現れた人狼の、どれが本物かは分かるはずもなかったが。四人の「カミロ」は、喜悦に口元を歪めて笑っていた。
「《影よ。霞よ。草木の狭間に住むものたちよ。糸杉にまみえるものあるならば、連え》」
杖に取り込まれている魔石が白い魔力の火を帯びる。それを一振りすると草木の「影」がぐにゃりと形をとり、不定形な何かの形をとって崇の肩に纏わりつく。
『――“目に見えぬ者”の縁持つ娘か。それに懐かしい声を手繰る。そうだな、働きの代償に、お前の角をもらおうか』
「良いだろう。足止めを、“名を知らぬ影の精”。森が穢れるのはお前達も本意ではないだろう!」
“影”が崇の影に飛び込み、地面一帯を“影”で覆い尽くす。カミロが浅く跳躍する寸前で脚に纏わりつき、増殖が如くの勢いで体を覆っていく。
『グルル…ガアウッ!!!』
「――はっ!!」
裁ち鋏を半分に分けた形状の銀剣をコートニーが振るう。背に大きく一刺しし、カミロのもがきに任せた勢いで鋏を抜いて着地と同時に後ろ右足の腱を断つ。
「《動くな》!!」
――“氷点下”
“影”の拘束にフレドリックが氷の拘束を上掛けする。鎖と繋がった銀剣を投げ、人狼の頸動脈を掠る。血管を開かせたのを見ると、地面に刺さった剣を軸に鎖を人狼の首にかける。
「さあ――《捻じ斬れろ》」
鎖から銀が派生し、カミロの首から血が滴る。とった、とフレドリックは薄く笑んだ。頸動脈を開き、銀を確実に体内に入れた。死ぬのは時間の問題だが、ここから更に体内の銀を増やしてやれば事切れる。
(この手応えなら、斬れる――)
確信した、その時だった。
『グ…グ……』
「!」
「――《裂け目の深み、熔石の炎》!」
カミロが短く唸ったのと、古代が火炎を吐いたのは同時だった。
鎖が切れる音がする。力の反動で後ろに転がったフレドリックを仕留めんとカミロが踏み出したが、その顔を古代の炎が覆う。
「――ちょっと待てよ。まさか……」
炎を消そうと頭を大きく振っている隙になぎ倒されていない木の影に一度退避する。
「銀が……効いて、ない……?」
炎を消し、爛れた顔面を露わにしてカミロは辺りを見回している。その首元からは微かに煙が上がっており、傷が塞がっているのが見える。
人狼の自己治癒力は、人間のそれよりも格段に高い。再生能力は細胞レベルからの肉体変異を及ぼすものの共通能力だが、人狼の弱点である銀は例外で、指先が触れただけでも半月はその傷や爛れが残る。
だが、カミロは銀の剣によって傷を付けられたにも関わらず、その傷が塞がっていた。カミロが崇達の方向から背を向けた時に見えた右足の腱も、再生し綺麗に塞がっている。
(どこに行く気だ…?)
コートニーはベルトに括り付けていたポーチから術式の書かれた布を取り出すと、擦り傷を少しだけ開いて血を付着させて術式を発動させる。マンタのようにゆらりと舞い上がった布と、コートニー自身の片目の視界を共有する索敵用の術式だ。
カミロの後を術式で尾けていると、先ほどの牝鹿に近づき、その肉を食っている。しかし、食べきる前にカミロはふいと方向を変える。
そして、カミロが再び足を止めた前には、変わり果てた親類の遺体があった。ばき、ばきと簡単に骨を砕く音が聞こえる。ぶちぶちと筋線維が切れる音に、コートニーは耐え切れず術式と視界のリンクを切った。
「う……っ…」
「…コートニー、あの音は…?」
「…お前の…想像してるので、正解だよ。…傷も回復してる。銀が通じてない」
「……っ!!」
「…どうしますか。ここで獲り逃すわけにもいかない」
「……ああ……。こうなったら、短期決着だ。森を荒らしたくはなかったけど、逃がして他部隊と鉢合わせたらもっと事態が悪くなる。持てるもの全て使ってカミロを殺す」
その手に氷の剣が生成される。フレドリックは崇を横目で見ると、やや迷って作戦を伝える。
「このエリアで仕留める。…いいか、黒山羊。あいつの眼だけは狙うな。見境なく暴れもがいて余計に消耗する。狙う場所は、首と心臓だ。……全員、自分とカミロにだけ集中しろ。誰かが動けなくなっても、構うな」
無言でコートニーと崇は頷く。耳障りな咀嚼音が精神を削っていく。次は我が身。パニックが水際ギリギリで迫っている感覚に鳥肌が立つ。
「…ぁぁぁぁあああああああっっっ!!!!!」
叫んだのが誰かも分からない。フレドリックの駆けた跡から地面がバキバキと凍っていく。腕に同化する形の氷の剣が前脚を斬り、斬り落とせなかった前脚の爪がフレドリックの脇腹を掠り裂く。
「ぐ、うぅッ…!」
血が噴き出してくるのを氷で無理矢理塞ぐ。
「《氷原斬》!!」
カミロの首に再び傷が入る。その叫びと共に氷の刃が傷に刺さる形で錬成され、カミロが喉を潰され呻く。
「立ち止まるな…巻き込むよ」
フレドリックの足元に、鈍い光を放つ「片刃」が出現する。
「《裁断技法、両断ち》。……落ちろ、その脚!!」
片刃の真上に合う位置で、コートニーは両手を振り上げていた。その手には、十メートルはあるであろう片鋏が握られている。一気に鋏を振り下ろすと、後ろ両脚を狙って地面の『片鋏』がせりあがり、近場の木諸共カミロの左後脚を斬り落とした。
『ギャアアアアアアアアアア!!!』
反射的に避けようとしたお陰で右後脚は無事だったが、木が根ごと割れる鋏は流石に痛かったらしい。どうにか、傷を塞がなければ。カミロは血走った目で魔力を多く持つものを探す。
『ガ、ア、アッ』
いた。
一人だけ、動いていない、女が。
何かをしてくるかも分からない。だが、男達と比べて一番消耗していない。一刻も早く魔力を得なければ、再生が追い付かない。
カミロは一直線に崇に向かって行った。さあ、泣き喚け。苦痛の声を聞かせろ。痛みと死の咆哮をあげた――そこで、カミロの脚が止まった。
崇は目を逸らさず、じっとカミロを見つめている。その口元は絶え間なく動き、詠唱を続けているのが分かる。耳で聞こえる声ではなく、カミロの頭の中に声が響いた。
『毒を食らわば皿までと云うじゃないか、カミロ』
カミロの脚裏からパキパキと小さな音が伝わってくる。
『私を食おうとしたなら、途中で帰るなんて、そんな真似はよせよ』
……カミロは、本能的に後ずさった。失血しているせいだろうか。女の――崇の後ろに、暗い、暗いものが見える。
「“魔精殺し”だって、分かってからじゃあ遅いんだよ!!《貫け、鎖せ、『黒の檻』》!!」
高らかに唱え終わった瞬間、カミロの腹部を貫いて巨大な結晶の『檻』が出現する。肉を貫くだけでは終わらず、檻から更に結晶が増殖しカミロの内側を無慈悲に押し開いていく。カミロの再生を上回るのではなく、カミロの再生を「消していく」ように。
「――終わりだ!!!」
とどめだ、と空中からコートニーが片鋏を構えて落ちる。その鋏は、カミロの脳天を深々と突き刺した。




