3
『(崇)』
「おや。どうしたの、古代」
『(手紙が来ていた。依頼のようだが)』
「ああ、そこに置いておいてくれ。後で確認してから…」
『ソウ!!』
「どうした?メル」
『ユウイチが引き込まれたの。来て!』
「っ!」
工房に入ると優一がいたであろう椅子が倒れ、床には顔料石が落ちている。それ以外はなにもなく、崇が席を外した時と何も変わっていなかった。優一が消えたことを除いて。
『石を落とすとこだったの。受け止めた瞬間に、足元が沼みたいになって…。そのまま落ちていったわ』
「…これか。メル、ついてきてくれるかい」
『いいわよ』
「古代はここで待っていて。私達が昼までに戻らなかったらウルフに伝えてくれ」
『…』
心配そうに古代は崇を見つめたが、メルヴィスが行くなら仕方ないと頷く。
崇は作業用の手袋を外し黒手袋をつける。その手で落ちている顔料石の中心に触れると中心が波打ち、メルヴィスの言っていた通り沼のような水溜りとなり崇を引き込んだ。
* * *
「うう…」
水を吸って重くなった服の不快感に目が覚める。
「さむ…寒い…。あれ、ここって…どこだっけ…」
身体を起こして分かったが、足先は浸かったままだった。なんとか立ち上がって周囲を見回すと、妙な既視感のある森の中だった。
「なんだっけあれ…どっかで見たような…」
『人』
「…へ?」
『人』
『是人』
『肉』
『是肉』
「え、え」
声は後ろの沼から聞こえてくる。沼に浸かっていたせいではない悪寒に振り向くと、中国風の笑った顔の面を付けた影が二人、優一に向かって近づいてきていた。
(な、なに言ってるか分からないけどこれは捕まったら死ぬやつだ!!)
振り向いてしまった以上距離を開けないと背中は向けられない。じりじりと後退しいざ走ろう、と地面を踏みしめた瞬間、全身が硬直した。
「!?」
『抓住』
『首先抽出血』
『分四肢、剝下皮』
(金縛り…!しまった…マズい!)
気味の悪い笑顔が優一に迫る。ゆっくりと枯れ枝のような腕が生え、黒い爪が眼前に迫る。
その時、優一の前に光る鱗粉と黒い布が翻った。
「え――」
『アアアアアアアアアア!!!』
今まで気配すらなかった人影が、優一と面を被った影の間に割り降りて影の腕を踏みつけ引き倒す。次いで湿った音を立てて倒れた影を巻き込ませ、隣の影を上段蹴りの要領で蹴り飛ばした。
「あ、あなたは…」
『このバカ!なんですぐに離れなかったのよ!!』
「!よ、妖精さん…!」
「よかった。間に合ったな」
「竹中さん!あいたたた、ごめん、ごめんって!」
「メル、そのあたりにしておいてやってくれ。怪我はないか?」
『ふんだ!』
「大丈夫です。さっき金縛りかけられただけで、ほかは何も」
崇に手を貸してもらってなんとか優一は立ち上がれた。
(あれ、黒い手袋…?)
「そうか。私達は別の場所に降りてね。ここは魔力が外より濃いから、上を走ってきたんだ」
「上?」
見上げるとメルヴィスの鱗粉がまだ残っているのが遠目に見える。
「とりあえずここから離れよう。それからここの主を――」
『ここにおる。我を有する魔法使いよ』
「!貴方は…」
「おや…。そちらから来ていただけるとは思いませんでした。“青墨の主”よ」
その声が聞こえたあたりが青みを帯びた墨を垂らしたようにぼやけ、ゆっくりと人の姿をとる。現れたのは、文官のような出で立ちの老人だった。
「《火蜥蜴の溜息、陽炎の指先》」
「わっ。あ、ありがとうございます」
『ほっほ、昔を思い出すわ。感じ取りはしていたが、お主、やはり旧き時代の魔法使いじゃな』
崇が片手間に魔法で優一の服を乾かしたのを見て青墨は嬉しそうに笑う。しかし崇は青墨に対し、静かに首を振った。
「いいえ。私は旧い魔法使いではありません。懐かしさを感じたのでしたら、それは私の師がそうだからでしょう。私の呪言は総て、師から学んだものですから」
『そうか…。いやしかし、喜ばしいことには変わらん。お主らの言葉は我らに良く届く。して、そこな子が右筆じゃな』
「っはい!貴方は…青墨、と仰る方ですか…?あの…?」
『うむ。今代にしては馴染みやすい魔力の子よ。我は“青墨の主”、この石に宿る精である』
「あっ、ああああああの、失礼をしました!!落としてしまって…!!」
優一は見事な直角で頭を下げる。青墨は一瞬ぽかんとしたが、特に気分を害した様子はなくむしろ面白そうに笑った。
『ははは。真に面白い童よな』
『あんたあたしと随分態度が違うじゃない?どういうことなのよ』
「えっ、ご、ごめん…いひゃいよ」
「無下に扱ったのでないなら、彼らは怒らないよ。
それで、青墨の主よ。何故彼を引き込んだのか、お聞かせ願えますか」
『…うむ。では、我が屋敷に招こう。立ち話は腰に障る故な』
青墨は袖から筆と書簡を取り出し、さらさらと何かをしたためる。すると「ここ」に入ったときの水溜りに似たものが足元に現れ、四人はその中に消えた。
『是茶、请(お茶です、どうぞ)』
「あ、ありがとう?」
青墨の邸に招かれ客間に通される。邸には使用人の姿をした精もいたが、鳥獣戯画のタッチがそのまま立体になった鳥や兎がちょこまかと働いているのを見るころには、この「世界」がどういうものなのかは理解ができる程度には三人とも慣れてきた。
『さて。先にお主らが遭遇したあの影だが、あれは元からここにいたのではない。あれを我は「書き損ない」と呼んでおる』
「『書き損ない』…」
『ここがお主らの呼ぶ「顔料石」の中なのは分かっておろう。我らには何かしらを「記述」した折、その「経験」を「保有」する特性がある。そうして外界の出来事を知り、必要とあらばこのように外界の者に助力を依頼することもある。
話が少し逸れたが、あの「書き損ない」はいずこより現れた負の思念だ。この世界のもので構築された存在なのは分かっているが、あれは我らに害を及ぼし始めた』
「成程。それをどうにかするために、藤崎くんを引き入れたと」
『左様』
「あの…どうして、僕だったんですか?」
僕じゃなくても、他に力の強い人が…と優一は力なく続ける。
『理由が欲しいのか?藤崎とやらよ』
「えっ」
『理由などないと伝えれば、お主はそこでやめるのか?』
「そ、そんなわけじゃ…」
『お主はまだ、誰かに理由を授けて欲しがっている童よ。雛にもなれぬ、いまだ殻を破れぬ卵よな』
「う…」
「青墨よ。若人を虐める趣味がお有りか」
『おお、ではここまでにしようぞ。そう怒らずとも理由はちゃんとある。
お主には、この出来事を「記録」する責務がある。我らは外界の出来事を記録として留めてはおけども、ここで起こったことは記せぬ。起きたことがない故に、記し、残さねばならんのだ』
崇が途中で諫めたが、青墨の言葉は優一に深々と刺さる。
「『書き損ない』がどういった条件で出現するかは分かっていますか?」
『ああ。あれらは水辺より現れる。近くの肉を食らおうと襲うが、水辺からは離れられんようだな。じゃが、我らも水がなければ乾いてしまうもの。早急にあれの元を絶ってくれ』
「承知しました。藤崎くん、いけるかい?」
「はっ…はい!行けます!」
『ここからずっと北に進んだところに最も大きい湖がある。そこが一番書き損ないが現れておるのでな。衛兵にこれを見せれば入れるであろう』
青墨から書簡を受け取り、三人は邸を出る。
「藤崎くん、ポケットにペンは入っているかい」
「ええと…あっ、あった!なんで…?」
「良かった。ちゃんとこちらでも魔法が機能していたということだね。それと、これは君が持っていて」
「僕がですか?」
「私は手を魔法の触媒にしているからね。両手を空けておきたい」
「分かりました。責任持ってお預かりします!」
「ああ。それじゃあ、行こうか」




