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「…して、お前達があれの輩か」
「はい。…あの、一つお聞きしても?」
「申してみよ」
「その…崇とはどういう関係で?」
ウォルフに改まってそう訊かれると、ハデスは顎に手を当て思案顔になる。
「そうさな…。“深み”に連なるもの全ての父というのが、我だ。我はあの子の師の父であり、あの子の父でもある」
「えーと…?“深み”っていうのは…?」
「…あれはそう、己の持つものについて語らぬか。今の者の言葉なら、「闇」というのだったか。深みは、魔持つもの全てが触れる資格を有するものであり、全ての命の根源であり、還る場所である。
魔法使いの端くれなら聞いたこともあろう。「闇」は強く、扱い易い。だがそれ故に呑まれ、己を食い尽くされるものが後を絶たぬとな」
「ああ…。同期にも、崇と同じ魔法を使うやつはいませんでした。単純に、使い手が少ないもんかと」
「真に扱える使い手は殆どおらぬ。崇は、旧い時代の魔法に囲まれ育った子供だったのもあるが…」
そうだ、とハデスは口元を緩める。
「折角だ、あの子の昔話でもしてやろう」
――――――――――
――ドイツ、「黒い森」
現世と魔力世界が交わる森には、魔法使いが住んでいた。
魔法使いの名は「テオドール」。片目を縫い付けた、隻腕の男の弟子が、崇だった。
歳は十三、四といった頃合いか。成長期の急激な背丈の伸びが始まり、成長痛に悩まされていた頃。聞いた話では、この時分には既に師と並んでいたという。
この日、崇はいつもの通り庭に植えた薬草に水をやっていた。
「…?」
不意に、空を覆う雲がゆっくりと切れ目を作り、光の梯子が森に射し込む。
「あれは…」
『……!ああ…よかった!』
「!?貴女は…!」
崇の目の前に梯子がかかり、女性を型取った光が舞い降りる。
その光が大地を踏みしめた瞬間、彼女の足元を草木が若々しく生い茂り花が咲き乱れる。光が徐々にその容貌を人のものに変わっていくのを、崇はただ茫然と見つめることしかできなかった。
「あなた、テオの弟子よね?」
「……!」
光から羽化したように現れたのは、春の息吹を纏い、その桃色がかった黄金色の髪を風に舞う花弁に遊ばせた、崇の知る中で最も可憐で美しい女人だった。
「貴女は…春の…?」
「ええ、“冥府の女王”、の方が聞き馴染みがあるかしら。私は“乙女”、芽吹きの女神。貴方のことは夫から聞いているわ」
「…無礼をどうかお許し下さい、女神よ。私は確に“蛇目”の弟子ですが、名乗れる名を持たぬ未熟者です。今、師を呼んで参ります」
「あ、待って!」
下がろうとした崇の腕をコレーがぱっと掴む。
「今回は貴方にお願いがあって来たの。テオじゃ、どう考えても周りにバレちゃうから…」
「私に…ですか?」
崇は彼女の言葉をとても現実のものとは思えなかった。まさか豊穣の女神の一柱、春と芽吹きを司る乙女が自分を頼るなど、とても信じられなかったのだ。
「実は…私、芽吹きに必要な『初芽の魂』の入った箱を、海の上空で落としてしまったの」
「『エアル』、とは……?」
どうもこれは夢ではなく現実らしい。どうにかそれを受け入れた崇は、ひとまず師と共に女神コレーの話を聞いていた。
「世界に存在する全ての植物が発芽に至る、その可能性を得るための『魂』そのもの。それが、『初芽の魂』よ。今まで一度も落としたことなんてなかったのだけど、ゼピュロス様が例年以上に張り切ったせいで風に煽られちゃって…」
春の女神に似つかわしくない重い溜息が彼女の唇から零れる。
「コレー様、あんたがそんな溜息吐くものじゃあない。落としたのは地中海だろう?すぐに見つけられる」
「ええ…ただ、あのひとに海には近づくな、と言われているの。ポセイドン様も最近は弁えていらっしゃるけれど、誰に目を付けられるか分からないから、って…」
「ああ…まあ、親父殿の心配も分かってやって下さいよ。崇、行ってこい。探し物はお前の得意分野だからな」
「はい。…コレー様、謹んでその御用命をお受け致します。どうか、安心してお任せください。若輩ではありますが“蛇目”の弟子として、必ずや見つけ出してみせましょう」
崇は跪いて女神に誓うと、立ち上がって身の丈以上もある杖をとり足元を突く。
「《開け、魔と霊の境のものよ。その導に付き従い、灯籠よ先触れとなれ》」
唱えると崇の姿が消える。
「…今のは…呪節の略式詠唱?」
「ええ」
信じられない、とコレーは呆然と呟く。
「綻びのひとつもなく「門」を開くなんて…。テオ、貴方、自分の分身でも作ったの?」
「己はあんなに性格がよくできた分身を作れる気がまるでしないな。貴女にそう言われるなら、徹底して魔力操作を叩き込んだ甲斐があったものだ」
テオドールは棚の上に据えてあった黒曜石の石鏡を杖で叩く。すると水面のように表面がたわみ、そこには今し方見送った崇の姿と、エメラルドグリーンの海が映し出されていた。
* * *
「…ふう」
『(「門」も安定してきたな。だが…海か)』
「古代は塩水は苦手だよね。……あ、そうだ」
シーズン前というのもあり、浜辺は人がまばらだった。ひとつ思いついた崇は、人の寄り付かない岩陰に足を向ける。
「あれ…?」
『(…海精か。少し様子がおかしいが…)』
岩場で見つけた海の精霊は、顔を覆い項垂れていた。その表情は自然を守護し、歌と踊りを好む精霊らしからぬ沈痛なものだった。
「…すみません。貴女はこの海に宿る精霊とお見受けしますが、何か…悲しいことでもあったのでしょうか」
『…あなたは……?』
「私は、ある魔法使いの弟子です。ある方の頼みで、この地中海に落としてしまったものを探しに来たのですが…私だけでは海に潜ることができず。海の精霊である貴女達の力をお借りしたいと思い、ここに来たのですが……」
『魔法使い……。ああ、あなた、懐かしい声なのね。旧い時代の言葉を紡ぐ声。もうその声を使える人間はいないと思っていたけれど…』
そう言うとネレイスは淋しそうに微笑む。
『…ねえあなた、私の勘違いじゃなければ、すごく危険なものを持っているわよね?』
その言葉に崇は身を硬くする。ネレイスは眉を寄せたまま微笑むと、崇の頬を掬い覗き込む。
『もし、あなたが私の願いを成し遂げられるのなら――イルカでも海馬でも貸してあげるし、あなたの伴侶になったっていい。だからお願い…。
私を、ゼウス様から逃がして』




