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「ええと…多分このあたり、だよね」
持たされたメモを片手に路地裏をさ迷う人影がひとつ。
彼の名前は「藤崎優一」。故あって夜の瓦斯灯通りを歩いているのだが、目的の店が通りの裏にあると書いてあるだけあって見つからない。
そもそも、何故優一は深夜の裏路地に入っているのか。それにはまず、これから語られるこの世界について触れなければいけない。
それは、朝露のきらめきひとつに。
それは、夜のしずく一滴に。
それは、黄昏の隙間に――
この世界には、今や常人には知覚できない世界がすぐ側に存在している。
かつては「おとぎ話」や「おまじない」として信じられていた、神秘的で怪しげな存在たち。童話の中の「魔法使い」や「狼男」、「吸血鬼」。そういった、非科学的と云われるようになった存在たちが住む世界。常人が知る〈現世〉の隣に、彼らが住む〈魔力世界〉はある。
とはいえ、時代は移ろい彼らは人と深く関わるのを避け、人目につかない場所でひっそりと暮らしたり正体を隠し人間のふりをして生活するようになった。彼ら自身は消滅したわけでも現世と関わるのをやめたわけでもないが、ともあれ人間たちが徐々に「彼ら」を忘れていっているのは事実である。が、このような「うわべ」だけの平穏で物語が終わることは当然ない。人間に善人と悪人がいるように、魔力世界側の住人にも「善いもの」と「悪いもの」がいるのが条理というもの。
人が「彼ら」を忘れていく、それはつまり、彼らが持つ危険性も忘れてしまうということ。吸血鬼には杭と十字架、狼人間には銀の弾丸といった、対抗手段すらおとぎ話の中だけのものとなってしまう。その結果起こる事といえば、予想はつくだろう――「悪」の進行である。必然ですらあった。
これを阻み、彼ら自身が愛する人の営みを守るため、力ある者達は手を打った。それが現世に身を置く魔力世界の住人による互助組織、【妖精の輪】である。
では、場面を裏路地に戻そう。
先につらつらと述べたように、優一もまた【輪】に連なる組織の一員である。とはいえ、まだ見習いではあるが。
「こっちかな…。あれ?」
メモに書かれた(正直アテにならない)地図から顔をあげると、細かな黒い光の「もや」のようなものを纏った紫色の蝶が目に留まる。
(この蝶…魔力を持ってる?じゃあ…)
一種の確信を持って優一は蝶の後をゆっくりついていく。辺りをほの明るく照らしているのが蝶の魔力を持った鱗粉だと気づいた時、優一の目線の先に柔らかな光を灯すランプが看板よろしく吊り下がっているのが見えた。
(光る石の入ったランプ…ここだ!)
そっと扉を押すとドアベルがカランコロンと丸い音を鳴らす。「いらっしゃいませ」と穏やかな声で優一を迎えたのは、うなじの一房を細い三つ編みにした、中性的な容姿のウェイターだった。
店内はどこかヴィクトリア朝のロンドンを思わせる装飾で、見かけよりも広いつくりになっている。常連客と思しき老婦人や静かに読書を楽しむ壮年の男性が、思い思いにくつろいでいた。
「お決まりですか?」
「はい。ええと、『メルヴィスの紅茶』をひとつ」
これでいいのかな、とやや半信半疑で優一はメニューに載っていない紅茶を注文する。ちらりと上目でウェイターの様子を窺うと、特に何事もなく「承知しました」と下がっていった。
「お待たせいたしました。こちらは私からのご挨拶です。どうぞごゆっくりお過ごし下さい」
「あ、ありがとうございます」
ローズヒップに似た甘酸っぱい香りが鼻をくすぐる。ウェイターからの「挨拶」は、ブルーベリーのタルトだった。
(いい匂い…)
『フン。あんた、あたしが合言葉で運がよかったわね』
「!」
突然話しかけられて思わず紅茶が気管に入りそうになる。なんとか落ち着いて声が聞こえてきた所を見下ろすと、夜空をそのまま写し取ったかのような髪とドレスを纏った妖精が、ムッとした顔で優一を見上げていた。
『なによ、しっかり見えてるんじゃない。でもあたし達に会ったことは少ないみたいね。だったらなおさら、その幸運とあたしに感謝しなさい。コダイが合言葉だったらあんたなんか、ブルブル震えてここまで来れなかったに違いないわ』
「き、君は…?妖精?」
『なに寝ぼけたこと言ってんの。それにもっと大きな声で話しなさいよ、全然聞こえないったらないわ』
「だ、だって他のお客さんがいるし」
『ああ、そんなこと気にしてたの。見てみなさいよ、もう帰ったから』
言われて周りを見てみると、確かに妖精の言った通り他の客はいつの間にかいなくなっている。
それに気付いたのと同時に、店内に魔力が満ちていたのを優一は感じ取る。呆れたように溜息をついた妖精だったが、ドアが開く音がするとそちらに飛んでいった。
『ソウ!』
「道案内ありがとう、メル。ここまで何もなかった?」
『今日はずっと穏やかだわ。今回の【右筆】は、今までよりマシみたいね』
「おや。気に入ったみたいだね」
『べつに。あいつらよりマシなだけよ』
「ソウ」と呼ばれたウェイターは、戸惑い気味に視線をさ迷わせる優一に柔らかく微笑む。
「初めまして、藤崎優一さん。私が中央区常駐部門の竹中崇だ」
「は、初めまして。【右筆】から来た藤崎です。よろしくお願い致します!」
「はは、そこまで畏まらなくてもいいよ。魔法使いに会うのは初めてかい?」
「一回だけ、【学院】の魔法使いの方とお会いしたことはありますが…その」
「ああ、学院の。確かに君の年の頃なら打診があったろうね。うん、まあ現代の魔法使いならこんなものだよ。由緒ある魔法使いは認めないかもだけれどね」
崇に「座って」と促され、優一は再び腰を下ろす。メルヴィスも崇の肩に落ち着くと、崇はいくつかの書類をどこからともなくテーブルに広げる。
「ある程度は右筆で聞いているだろうけれど、確認も兼ねて私からも話そう。
さっきも言った通り、ここが【輪】の東京都中央区の常駐部門、その支部兼居住区だ。常駐と名はついているけれど、東京都は大半が実動部隊だね。私達も例外なく、現場に出ることが多いかな。君がここに派遣されたのは、実際に起こった事件の記録および保存。そう聞いているけれど、間違いはないね?」
優一は無言だが、しっかりとした面持ちでうなずく。
【右筆】とは、元は武家の秘書役を務める文官のことである。彼らは魔力世界の領分で起こった事件を、詳らかに示す記録者であり観測者だ。
魔力世界では多くの神秘やそれらに連なる事象・事件が昔から発生していた。それらを書き留め、後世に残すことが彼らの使命である。【輪】においてもそれは必須事項であり、状況が明るくないといえる今、常駐部門に右筆を据えるのは規則となっていた。
「うん、それなら何よりだ。君のペンやインク、任務の内容などは明日にしよう。君の部屋についてだけれど」
「えっ」
「ん?」
「部屋って…ええと、どういうことですか?」
優一はまさか、といった声で崇に訊き返す。返ってきたのは、ある種無慈悲な言葉だった。
「ルカから、君はここに暮らすって聞いていたんだが。荷物も届いているし」
「え…えええ!?」
思わず大声を出してしまいメルヴィスが「うるさい」と眉を顰める。
「ご、ごめん…。えっと、どうしてそういうことに…?」
「多分、君は上司に嵌められたんだろうね。まあ、それもそうか…。
一応、メンバーは同じ所に住まなければならないという規則はないよ。ただ、事件が起きたら私達とすぐに合流して行動してもらうことになるから、近い所には居てほしいけれど…当てはある?」
愕然と優一は首を振る。
「だろうね。とりあえず、しばらくはここで寝泊まりしたらどうだろう。ここは本来三人が常駐しているけれど、今日は私しかいないし。他のメンバーと会ってみて、一緒にやっていけそうならそのままで、合わなさそうなら別の所に住んでもいいし転属届を出してもいい」
「転属…って…」
「…まあ、おいおいで構わないさ。おいで、案内しよう」
さらりと崇は言ったが、優一には気にかかることばかりだった。割り当てられた部屋にはベッドと机、ダンボール箱が数個積まれただけの部屋だったが、自分の知らない所でずっと話が進んでいたのを目の当たりにした。
(そりゃ言われたことだけを聞いて、任せきりにしてたのは僕だけど…)
住居のことは教えてほしかった、と届かない恨み言を呟く。
日なたの匂いがする寝具に身を沈め、頭の中でぐるぐる回る思いも今は煩わしくなって、優一は目を閉じた。
* * *
「…ただいま」
「ああ、お帰り。ウルフ」
リビングのドアを開けて入ってきたのは、無造作に前髪を掻き上げアンダーリムの眼鏡を掛けた男性だった。
崇に「ウルフ」と呼ばれた男性は、疲れた様子で崇の向かいに腰を下ろす。
「ああ、今日…いや、もう昨日か。右筆から記録者の子が来たよ」
「早かったな。何をそう焦ったか」
「それがここの事を何も知らないみたいでね。住む場所のことも聞かされずに来たようだ」
「なんだ、新人か?可哀想なもんだな」
「ウルフ」
悪びれもせず皮肉を並べるウルフに崇が咎めるような視線を送る。
「恐らく彼はまだ見習いだろう。一度も『記録』を取っていない、綺麗な手をしていた。彼のペンを見ていないからなんとも言えないけれど…」
「おい、崇。お前、今まであいつらがここをどう扱ったか忘れたわけじゃないだろうな」
「勿論。だけど、そう思うには彼に邪気が無さすぎる。ねえ、ウルフ。私は少しだけ期待しても良いんじゃないかと思うんだ。年の頃も十八を超えたくらいだ、良い意味でまっさらな子だよ。なにせ――私達について、何も知らないんだから」
穏やかな顔でそう言う崇に対し、ウルフは面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「クロードが戻るまでもつかね」
「…」
「…睨むなよ。俺は寝る」
「シャワーくらい浴びてから寝てよ。君、今日『転化』しただろ」
「…分かったよ。お前も夜更かしすんなよ」