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死に追われて  作者: 白福あずき
1/1

もしも明日があるのなら

 ひしめき合うほどの人とガヤガヤと騒がしい喧騒を乗せた四角い箱は、ガタンゴトンと揺れながらレールの上を走る。時折カーブに差し掛かっては車体が左右に大きく揺れた。

「うわっ!」

「大丈夫か?ほら、ちゃんと掴まってろ」

 どこかのプロ野球チームのロゴが入った帽子を被った男の子が、慌てたように父親の腕を掴んだ。

「ここ、座ってください」

 喧しい空間の中で私の声は掻き消されてしまいそうだったけれど、パチリと男の子の父親と目が合った。私の言葉の意味を理解したその人は優しそうな目元を下げて「ありがとうございます」と頭を下げる。その目元が心なしか自分の父と似ているような気がして、胸が詰まるような感覚を覚えた。

「おねえちゃん、ありがとう!」

 父親と同じような顔で、同じように笑った男の子に軽く笑ってその場を離れた。

 窓から見える景色は、一瞬で後ろへと流れていってしまう。そのスピードについていけずに、そっと目を閉じる。途端に聴覚が鋭くなって、何処の誰だかわからない人の声を無作為に拾い上げた。

「アイツまじうざくない?」

「こないだ彼氏と水族館行ってきたの」

「パパ、遊園地まだあ?」

「それでさ今度ここ行かない?」

 その喧しさにうんざりして仕方なく瞼を持ち上げれば、目の前にはもうすっかり見慣れた景色があった。

 電車がスピードを緩め、ゆっくりと地下へと潜っていく。

「まもなく名古屋、名古屋です」

 やっと空気の薄いこの空間から解放される。

 私は誰にも気づかれぬよう、そっと胸を撫で下ろした。


 大学生の春休みも終わりが近づいた三月下旬の名古屋駅は多くの人で混雑していた。

 スマートフォンを片手で操作しながらメッセージアプリを開く。金時計の下で待ってるよ、というメッセージで終わっているトークルームに文字を打ち込んだ。

 着いたよ。どこ?

 待ち合わせ場所である名古屋駅構内の金時計の下には、同じように待ち合わせをしている人たちで溢れていた。流石にこんな人混みから、友人を見つけ出せそうにない。

 メッセージにはすでに既読のマークが付いていた。

「美春、こっちこっち!」

 自分を呼ぶその声に振り返れば、金時計から少し離れたところでこちらに手を振る友人の姿があった。

 どうやら彼女はいとも簡単に私のことを見つけ出したようだった。

「梨沙子ごめん、遅れた」

「いいよいいよー!遅延してたんでしょ?」

 しょうがないよ、と彼女はそう言ってにこりと笑う。そしてどちらともなく歩き出した。

「春休み何してたの?」

「バイトと就活」

「だよねえー。うちらもう四年生だもんねー」

 梨沙子の口からため息が漏れる。重たく吐き出されたそれも人混みに揉まれて消えてゆく。

 大学四年間なんてあっという間だ。中学の三年間も、高校のときの三年間もあっという間に過ぎ去ったように、残りの大学生生活もなんの変哲もなく、平凡に過ぎ去っていくのだろう。

 美春はそんな事を考えながらショーウィンドウに映る自分の姿を見た。

 平均的な身長に特にパッとしない顔立ち。太ってはいないがモデルさんみたいにナイスバディなわけじゃない。

 平凡な人間の平凡な人生。なんてピッタリな言葉なんだろう。

 一方で梨沙子の方へと視線を移す。百七十を超えた身長にスラリと伸びた二本の足。ぱっちりとした目に長い睫毛。

 今度は美春がため息を吐き出す番だった。

「え?なに急に」

「なーんでも」

 困惑する梨沙子を置いて一歩前へと足を動かす。

 別に自分の人生に不満があるわけじゃない。朝起きて朝ご飯を食べて学校へ行く。友達と馬鹿馬鹿しい話で盛り上がりながら授業を受けて家へと帰る。

 この平凡な日常がどれほど貴重なものかを、私はわかっているつもりでいる。

「パパー!まってよお」

「ほら、はぐれるぞ。手、繋ごう」

 自分の帰る場所があることが、自分の帰りを待っていてくれる人がいることが、どれだけかけがえのないものなのか。

 この手を握ってくれる人を“一人”失ってからその大切さに気がついた。

 外へと出れば頰を撫でる風がまだ少し冷たくて、両の手で温めるように覆い隠した。それでも吐き出した息が白く染まることはなくて、きっと冬はもうすぐ終わるんだなとそう思った。

 チラリ、視界に映り込む空へと目を向ければ白い雲が雪のように覆いかぶさっている。眩しい太陽から逃げるように目を瞑ればあの日の空が鮮明に思い出された。

 あの日の空はもっと、もっともっと青かった。それも目が潰れてしまいそうなほどに。



 四年前。七月二九日、正午。

 夏真っ盛りのその日は最高気温を更新し、蝉が喧しかった。

「美春!はやくッ!!」

 私を呼ぶ母の焦った声に前髪がぐちゃぐちゃになることも気にせずに走った。

 足がもつれて転びそうになっては、なんとか踏ん張って地に足をつける。それでも立っている心地がしなくてやっぱり転んでしまいそうだった。

 駆け込んだ病室はいつも通りの消毒の匂いと、いつもとは違う重たい空気が漂っていた。

「美春……、お父さんに、最後に何か……」

 母はそこまで言って握りしめていたハンカチで顔を覆った。

 兄は部屋の隅っこに立ったまま動かない。

 私はやっとの事で足を動かして父が横になるベットへと近づいた。震える指先でそっとその手に触れればいつもより冷たくて、心臓がドクリと嫌な音を立てた。人より体温が高く温かかった手にも、日に焼けて小麦色だった肌にも、かつての面影はない。黄色くなってしまった腕は少し痩せてしまっていたけど、少しゴツゴツしてカサついている大きな手は間違いなく父の手だった。

「おと、さん……」

 震える喉で絞り出した声はとても小さかった。

「おとうさん……ッ!」

 最後に何かって、何を言えばいいんだろう。

 ありがとう?さようなら?

 そんな言葉はとても薄っぺらく思えてならなかった。

 そもそも最後って何だろう。こんなに呆気なく人は死んでしまうのだろうか。

 本当に、本当に死んじゃうの?

 ここにきて私はいろいろな感情に押しつぶされていた。

 これは悪い夢で、目を覚ませば元気な父が私を呼ぶんじゃないかって。私の手を握り返してくれるんじゃないかって。そんな馬鹿なことを考えた。

 それでも手に触れる父の肌の感触とか、私を抱き寄せてすすり泣く母の体温とか、夢で終わらせるにはあまりにもリアルだった。

 結局私はその時までただ父のことを呼ぶことしかできなかった。

「おとうさん……、お父さん」

 おとうさん、いかないで。どこにもいかないで。お父さん、お父さん……ッ!

 ふわりと、どこかへ飛んでいってしまいそうな父をこちらに引き止めるように何度も何度も呼びかけた。

 それでもギュッと握りしめた手のひらが握り返されることはない。何度父を呼ぼうとも、どれだけ力を込めようとも、その手に力が込められることはなかった。

 その代わりとでもいうように母の色白の手が重ねられた。その温かさに目が熱くなる。

 そしてその時はやってきた。

 耳鳴りのような、突き刺すようなその電子音が無機質に、無情に一人の男の終わりを告げていた。

「十二時三十一分、ご臨終です」

 ああ、そんなことほんとに言うんだ。

 そんなことを考えるどこか冷静な自分がいた。

 ドラマでしか聞いたことのないような台詞を口にした父の担当医は、とても残念そうに目を伏せた。

 この人は一体何人の人の終わりを見てきたんだろう。どれだけの人の命が終わる瞬間に立ち会ってきたのだろう。一体どんな気持ちでそんな顔をするのだろう。

 淡々と段取りを進める医師が、仕事だから仕方がないとわかっていてもとても非情に映った。着々と人の死の片付けをする医師と看護師を、私は怖いと思ってしまった。


「美春、大丈夫?」

 父の遺体を家に運ぶ準備をしている間、私は人気のない休憩所で兄と二人腰掛けていた。

 そこへ葬儀社に電話していた母が戻ってきて私の顔を覗き込んだ。

 私は母の顔をまっすぐ見れなかった。真っ赤に充血した目が視界に入ったからだ。

「大丈夫だよ」

 ぽろり、口から言の葉が零れ落ちた。

 大丈夫って、なんだろう。何が大丈夫なんだろう。

 自分で言った言葉の意味が、自分でわからなくなる。それでも弱りきった母を前にそれ以外の言葉は浮かばなかった。

 大丈夫じゃないのはお母さんの方だよ。

 そんな台詞はなんとなく言ってはいけないような、そんな気がした。

 ふと、兄が何も言わずに立ち上がった。私たちの方を振り返りもせず、薄暗い廊下へと進んでいく。

 そんな兄が片手で顔を覆い、天を仰いだのがわかった。

 その背中はひどく小さく見えて震えているような気がした。

 私は兄のそんな姿を見たことがない。ましてや兄が泣いているところなんて見たことがない。

 成績も良く、先生受けのいい兄はいつも強気で、実際強かった。男と女じゃ元々の力量が違うかもしれないけど喧嘩でだって勝てたことがない。怒ると鬼のように怖い母に叱られた時も、体調を崩して手術した時も兄は絶対泣かなかった。一度だって妹の前で泣かなかった。私の中の兄は誰にも負けないくらい強かった。

 そんな兄が声を押し殺して涙をこらえている。

 本当に死んじゃったんだ。

 兄が隠れて泣くのを見て心の中でそう呟いても、頭はどこかフワフワしていてやっぱり悪い夢を見ているようだった。

 これが実感が湧かないっていうことなんだろうか。その事実を、現実を目にしても頭がついていかない。気持ちが追いついてこない。

 ただ目の前の大きな窓が映し出す空が雲ひとつない青空で、キラキラと輝いているのは理解できた。

 それがどうしようもなく眩しくて、憎くて、私は精一杯睨みつけた。

 それでも空はそんな私をあざ笑うかのように輝きを増すばかりで、ムカつくくらい悔しかった。

 私は今日、お父さんを亡くした。永遠にお父さんを失った。

 世界は今日、お父さんを亡くした。永遠にお父さんを失った。

 それでも世界は回り続ける。

 この世界の殆どの人は父がいなくなったことさえ知らずに生きていく。何も知らずに明日を生きていく。

 そんなこと当たり前で、私だって地球の裏側で死んだ人のことなんて知らない。

 けれど、それがなぜだか無性に悲しかった。

 他の人にとっては同じ“明日”が、私にとってはまったく違う“明日”で、それがとても寂しかった。

 震える目で、目の前の青空を焼き付けた。

 それでもその眩しさにすっかり乾いてしまった目から涙が溢れることはなかった。


 父の葬式には多くの人が訪れた。親戚、友人、会社の人から私の友達まで駆けつけてくれた。知らない人も多かった。

 斎場に人がおさまりきらず、椅子が足りなくなってしまうほどだった。

 父がこんなにたくさんの人に慕われ、愛されていたことを、私は娘のくせに知らなかった。

 この日、本当の父の姿を見た気がした。たまに見かけた汗水垂らして働く父の姿が目に浮かぶようだった。

 父とよく仕事をしていた堀田さんが、私たち遺族に深く頭を下げた。

 母が、兄が、祖母が、ゆっくり頭を下げる。私もそれにつられるようにして重たい頭を下げた。

 お経が唱えられる中、父に関わった人たちが次々とお焼香をあげていく。薄っすらと上がる煙が、昔父が葬式帰りに漂わせていた匂いと同じで胸が苦しくなった。父があの鼻の奥がツンとする香りに包まれる。

 淡々と行われていく葬儀に、どこか置いてけぼりにされたような感覚だった。もう棺に花と思い出の品を入れたら出棺だというのに。お別れだというのに。

 私は白いユリを手に取った。大きな花びらが立派で、真っ直ぐ前を向いて立っている姿が父にぴったりだと思ったからだ。

 柄にもなく両手で、丁寧にその花を父の顔の横に置いた。

「ほら、せーの」

 従姉妹が自分の娘を抱き上げた。

「ほらおじちゃんにお別れして」

 そう言う早月お姉ちゃんの顔は涙でぐちゃぐちゃで、メイクがぼろぼろだった。

 そんな早月に抱きかかえられた結ちゃんは不思議そうに父の顔を見ていた。そして早月に託されるように、手に握っていた折り紙を棺の中に入れた。

「作ってくれたの?」

 私は屈んで結ちゃんに目線を合わせる。クリッとした大きな目に、自分の顔が映り込んだ

 結ちゃんは何も答えない代わりに小さく頷いた。

「子どもはね、なんとなくわかっているのよ」

 何を?とは言わなかった。

 早月が何を指しているのか、父を見る悲しげな目でわかってしまったから。

「こんなに小さいのに、言葉は満足に話せないのに気づいてるのよ。不思議ね」

 早月は結ちゃんの頭を優しく撫でた。

「春ちゃんも、……大変ね」

「……ん」

 言葉を慎重に選ぶように言った従姉妹にまともな返事はできなかった。

 そうでもないよ。私はまだ高校生で、こんな時には役に立たない。ぼーっとしていれば事は終わっているんだから。

 でもそれが少し情けないのも事実。私は何もしてあげられない。

「あなたッ!!」

 悲痛な声で父を呼ぶ母に、私は何もしてあげられない。

 狭い棺の中に眠る父は色とりどりの花に囲まれ、ホッとしたような顔をしていた。

「あなた、……宗介さん、宗介さんッ」

 母は棺にしがみつき父の頬を撫でる。

「疲れたね、苦しかったねえ……」

 父は癌だった。

 一ヶ月という短い闘病生活ではあったが、母はその一ヶ月の間、一番父の近くにいた。

 入院した時も、手術をした日も母はずっとそばにいた。父の余命宣告だって、母は一人で聞いたのだ。

 あれだけそばにいれば父も弱音を吐くこともあっただろう。日に日に痩せていく父を見るのだってきっと辛かった筈だ。それでも母は、私や兄に一切弱音を吐かなかった。余命宣告を受けたことだって、父が死ぬ前日まで言わなかった。

 母は父の最期のその時まで、片時も離れず寄り添った。

 それが今やっと解放されるんだ。

「宗介さん……ッ!宗介さん!!」

 母の声が斎場に響き渡る。

 誰かが鼻をすする音が聞こえる。

 兄が唇を噛み締めている。


 ああ。本当に、死んじゃったんだな。


 私の頬にやっと涙がひとつぶ流れた。



「それで?どうだったの?」

 ちょうどいい具合に暖房の効いたコーヒーショップ。あの苦くも憧れてしまうコーヒーの香りが漂う空間に、私たちは小さいテーブルを挟んで向かい合っていた。

「え?なにが?」

 ぼけーっと窓の向こうに広がる空を見上げていた私は、梨沙子の声で現実世界へと引き戻された。

「だーかーらぁ!合コンだってば!!」

「ああ、その話」

 鼻をフンフンと鳴らしながら興奮気味の梨沙子が言いたいことがやっとわかった。先日某大学の理工学部の男子学生と行われた合同コンパとかいうやつだ。

 でもどうだったのかと聞かれても、特に何もないとしか言いようがない。

「なんもないよ」

 だからそのままの事実を伝えたけれど、梨沙子はその答えが気に入らないらしい。

「な、ん、で!M大学っていったら超頭いいじゃん!」

「あー、そうだねえ」

 今にも掴みかかってきそうな梨沙子から逃げるように、私は体を少し引く。

 たしかに先日会った彼らは頭が良かった。M大学といえばそれはそれは名門で偏差値も高く、そのへんの公立高校でまあまあぼちぼちな成績しか叩き出せなかった私が入れるような大学じゃあない。頭がいいからなのかちょっと上からものを言う人もいたけど、気遣いができる人もいてまあまあ楽しかった。

 けれど私はどうしても人数が足りないからと友達に頼まれただけ。ゴロゴロしながら漫画を読むという優雅な休日を予定していた私にとっては大打撃。だから正直休日に電車に乗るのはバイトに行くより億劫だった。それにはじめましての人と当たり障りのない話をして、ご飯をご馳走になって帰っただけだ。まあ、ご飯は美味しかったけれど。

 でも、それだけ。それ以下でもそれ以上でもない。

 特に報告できることもない私はマグカップに入ったキャラメルラテをちびちびと口にした。

「あーあ、玉の輿があ~」

 梨沙子はアイスのカフェモカをストローでかき混ぜながら口を尖らせる。

「じゃあ梨沙子が行けばよかったじゃん」

「あたしは彼氏いるもん」

「あー、はいはい。惚気は受け付けてませーん」

 キャラメルラテをぐびっと口に含む。キャラメルの甘い匂いが鼻を抜け、生温い液体が喉を下ってゆく。やっぱり苦いコーヒーよりも甘いキャラメルの方が私には合ってる。

「そうじゃなくてさぁ、美春はもっと男に興味持ちなよ」

「やだよ」

 私はちょっとイラッとして素っ気ない返事になってしまった。けれど梨沙子はそれに気づいた上で聞いてくる。

「なんで?」

 その目はまっすぐと私の目を見ている。

「……なんでだろうね」

 その視線から逃げるように窓の外へと目を向ければ忙しなく人が行き交っていた。

 スーツを着た人、子供と手を繋ぐ母親、腕を組んで歩くカップル。

 急ぎ足の人、歩くのが遅い人、引きずられるようにして歩く子供。

 誰かと一緒にいることが嫌いなわけじゃない。どちらかといえば人と話すのは好きだし、出かけるのだって嫌いじゃない。

 でもふとした時に浮かぶのは、父が眠る棺にしがみつく母の姿。それは夫に先立たれた妻の姿。頬は痩け体は痩せ細り、ひとまわりもふた回りも小さくなった母の姿。

 母の体が、顔が、目が。身に纏う空気さえも悲しいと叫んでいる。子供のように泣きじゃくり、嗚咽を漏らす一人の女。

 大切な人が増えるたびに思う。

 次、ああなるのは自分だと。今度置いていかれるのは自分だと、頭の中で警鐘がなる。

 いつか終わりはやってくる。いつか必ず人は死ぬ。自分に関わる誰かが死ぬ日は遅くとも必ずやってくる。

 それは覆ることのない決まり事で、死なない人なんていない。

 目の前の梨沙子だっていつかは死んでしまう。もしかしたら、私より先に。

「……たとえばさ」

「うん?」

「彼氏ができたとして、万が一結婚したとして」

「万が一って……」

 カフェモカを啜りながら梨沙子は笑う。

「相手が先に死んだらどうするの?」

 私がそう言った瞬間、梨沙子の顔から笑みが消えた。

 私は怯えているんだ。父に置いていかれたあの日から。

 私はあの日知ってしまった。誰かに先立たれる悲しみを。誰かに置いていかれる苦しみを。きっとそれは相手のことを好きであればあるほど強くなる。

 一人は好きだけど独りぼっちは嫌なの。

「……え?」

 目の前の彼女は困惑したように眉を寄せる。

 そんな梨沙子には気づかないふりをしてマグカップの中で揺れる黄金色の液体を見つめる。消えかかった泡が端に寄り、揺れる水面で母とよく似た顔が揺れた。

 母はどんな気持ちだっただろうか。

 苦しかった?悲しかった?

 きっとそんな簡単な言葉では言い表せない。それはあの日の母を見れば明らかだった。名前を呼ぶことしかできない感情を私は知っている。

 だから私はもう、置いていかれたくない。あんな風になるほど誰かを愛したくない。もうあんな思いはしたくない。二度と、……二度と。

 私は……__

「……怖いのかもね」

「怖い?」

「そ。あと……、めんどくさいじゃん?」

「は?ちょ、全然意味がわかんないんだけど!」

 わからないわからないと慌てる梨沙子に笑いながらキャラメルラテを一気に飲み干す。

 温かったはずのそれはすっかり冷えてしまっていて、カップの底に溜まっていたキャラメルシロップが舌の上を転がりながら溶けていく。それは喉が焼けるほど甘かった。

 __私は誰よりも早く死にたい

 それは胸の奥底に沈む罰当たりな願いとは正反対の味がした。


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