最強の敵
久しぶりにアイツを見た。
心臓の音がはっきり聞こえるほど動揺していた。
ゲッ、テレビ台に置いていた時計を見て、このままではマズイと思う。
もうアイツを見てから1時間弱も経っている…。
このままでは、ハワイ行きの飛行機に間に合わない。
どうする俺、このままアイツが隠れたテレビ台を見張っていても事態は解決しないぞ! 退治するのか、それともひと先ずここは家を出て、成田に向かうのか?
それは1時間前の出来事だった。
PM8:15
トランクケースに入れた指輪を念のため再確認する。
よし、ちゃんと入っている。
準備完了! 編集作業が難航し、泊まり込みの仕事が続いたため、準備が間に合うか危惧していたが、ハワイ行きの飛行機には十分間に合いそうだ。
さあ、出発しよう!
右足を靴に半分入れた時だった。
カサカサッ。
アイツが靴の中から出てきて、俺の足先を通り、リビングの奥にあるテレビ台の後ろに隠れた。
『見失ってはいけない』
とにかくそのことだけを第一優先に行動した。
すぐさま家から逃げ出したい気持だった。
靴下を履いていたとはいえ、触れられてしまった足を今すぐ洗いたかった。
だが、一度見失ったら、アイツは隠れる天才だ。
また見つけ出すことは容易ではない。
そして何より、また見つけ出す前に、繁殖などされてしまったら、たまったものではない。
ああ、想像しただけでもゾッとする。
R18指定のホラー映画よりよっぽど恐ろしい。
本当の恐怖というものは身近なところにある。
PM9:15
さて、アイツを見張り続けて1時間。
俺はゆっくりと手を伸ばして、スリッパを手にすることに成功していた。
スリッパという強力な武器を手にするだけで、少しは心が落ち着いてきた。
飛行機の時間を考えたら、そろそろ家を出ないとマジでまずい。
とはいえ、このままアイツを放置して、1週間も家を留守にして大丈夫なのか?
帰ってきたときには大繁殖していて、床や壁、天井、そこら中にアイツが…。
ウワーーーー!!
やっぱり、無理だ。アイツを放置したまま、俺は結婚式に行けない!
帰ってきて、害虫駆除業者に依頼するという手もあるが、そうなった場合、俺はこの部屋にあるものを全て処分しないと気が済まないことだろう。
もし、アイツが産卵していたらと思うと、服も家具も写真も何一つ残す気にはならない。
アイツが出た以上、俺はもうこのマンションを引っ越すことにする。
だが、大切な思い出だけは捨てないで持っていきたい。
今、退治することができれば、“3秒ルール”みたいなもので、家具類はセーフだ。
アイツは黒っぽかった。ということは太陽の光を浴びている。ルートは判明しないが、外から来たに違いない。
もし、家の中で繁殖しているのなら、太陽の光を浴びていないからもっと茶色いはずだ。きっとそうだ。
あっ、最近クーラーをつけたから、多分そこが侵入経路だ。そうに違いない。
家の間取りは1LDK。
3.5畳のキッチンと、12畳のリビングダイニング、そして6畳の寝室がある。
俺が今、一番したいことは、その寝室のドアを閉めることだ。
換気のために、ドアを開けたままにしたことをひどく後悔していた。
服やアルバム、思い出の品は、ほとんど寝室にある。
あのドアを閉めることさえできれば、アイツの侵入を塞いで、思い出の品を守ることができる。
しかし、俺が下手に動くと、アイツも動く。
電話で誰か応援を呼びたいが、声を出すことも危険な気がする。アイツが反応して、動き出したらやっかいだ。
ラインやメールをする手もあるが、アイツが隠れているテレビ台から目を離すことはできない。
どうする俺? どうする俺? 32歳にしてようやく掴んだ幸せだぞ。結婚式に遅れてもいいのか?
遅れていいわけないじゃないか!
俺は結婚式に行くんだ!
アイツを倒してみせる!
俺はアイツが出てきても見失わないように気を配りながら、玄関からテレビ台へと向かう。
よし、途中でアイツが逃げ出すことはなかった。
テレビ台の下を素早く覗く。アイツはいない…。
すぐさまテレビ台を前に動かして、裏側を確認する。アイツはいない…。
た、確かに、ここに逃げたはずだった!
クソッ、動き出すのが遅すぎた!
どこかに逃げられてしまった!
どこだ、いったいどこへ逃げやがった!
カサカサカサッ。
アイツが寝室に向かっていた!!!!!