小日向書店
四月十三日。
「ふっ、はっ……はっ……」
四月の風はまだ少し肌寒く、自転車をたち漕ぎする俺の頬を強く打つ。言われた通りに進み、最後の目印を発見した。西洋風のこじゃれた雑貨屋、その壁にある看板、そこに描かれた女の子の指している方向にある狭い路地に、俺は入っていった。
両側にそびえ立つ壁は思っていたのよりずっと高く、道幅はかなり狭かった。ついこの前買ったばかりのマウンテンバイクのハンドルが壁にあたり、時折しゅっしゅっと音がする。傷がつかないといいけど。
やっと前に出口が見えてきた。薄暗い路地なので逆光が強くて向こう側は全く見えない。
しゅっしゅっ、しゅっ
路地から抜けた。急に明るい所に出て視界が真っ白になった。眩しい……。
視界が少しずつ回復していき、目の前の建物がはっきり見えるようになってきた。そこにあったのは、少し古めかしい感じのする平屋だった。ドアは木製のスライド式で、はめ込まれているガラスは大正ガラスというんだったか、そんな感じの透明度のあまり高くないもの。ヒビはあるがよく手入れされていて、最近はもう見かけなくなった、といっても俺自身は実際に見かけていた世代でもないのだが、古い日本の家という感じでなかなかいい雰囲気だ。
店の前の道はあまり広くないが、きれいな石畳になっている。
上を見ると看板がかかっていて、こう書いてある。
"小日向書店"
どうやらこのお店の名前らしかった。
自転車を店と隣の家屋との隙間に停めて、念のために鍵をかけておく。ちらっと奥のほうを見ると、もう一本奥には大きな通りがあり、車も走っているのが見えた。隙間から出てドアの前に立つと、店内が良く見える。綺麗に本が並べられていて、ポップがところどころに貼ってある。『店員オススメ! この春読んでおきたい人気作大特集!』だったり、『お花見シーズン到来! 今年こそ花を咲かせたい君へ!』など、綺麗な字で書かれていた。
中に入ろうとしてドアに手をかけると、ガタガタと大きな音がして、立て付けが悪いのか突っ張った感触がした。少し強く力を入れると、大きな音を立てて急に扉が開いた。
恐る恐る店内に足を踏み入れる。中に入ると店内はさらに古めかしい。外からの光で舞っているホコリがよく見えるところとか、リノリウムでもなければタイルも張られていないコンクリートむき出しの床とか、頭の中に思い浮かべていた古い書店というイメージそのままだった。
「ごめんください……」
俺の弱気な声は奥で反射した。人がいる様子もないし、音も聞こえない。留守だろうか。でも鍵が開きっぱなしだったし……
「ごめんください!」
少し大きい声を出す。しかし返事はない。
「戸締りする習慣が無い人なのかな……」
すると、
「いや、戸締りはちゃんとするよ」
急に声が聞こえた。俺より少し背の高い本棚の間の通路を見てみるけど、誰もいない。後ろを振り返って外を見ても、誰もいない。
「幻聴かな……」
「違う、違う。こっちだよ」
声のする方を見る。でも人影はない。
「幻聴かな……」
「いや、だから違うって……こっちだよ! 上!」
俺は少し上を見上げた。そこに、本棚のまさにその上に“彼”はいた。
「悪いね。待ちくたびれて、ここで寝てたんだ」
もしこの発言だけ聞いた人がいたなら、彼のことを本棚の上によじ登って寝る変人だと思うかもしれない。人生で稀に出会う、ちょっと珍しい人種の一人と思うかもしれない。
だがそれは違う。稀なんてもんじゃない。“彼”は多分、人生に一人いるかいないかとかそういう次元ではなく、人生に一人もいるはずがない存在だ。
「何かお探しかい? それとも別の用事?」
そう言うと彼は本棚からすたっと軽い足取りで降りる。そして店の奥のほうに歩き出す。
「別の用事の方かな。君はただ本を買いに来ただけの客じゃないね?」
「は、はい……」
「本屋に来て、本に目もくれず店員を呼びつけるんだから、変わった客だ。普通の本屋ならね。でも、うちはそういう人がごくたまにやってくる。ここ自体が変わってて普通じゃないからだね」
“彼”はこちらに向き直って俺に話しかける。
「今、接客をまともにできる奴が出払ってるもんでね。すまないが、私が担当させてもらうよ。構わないかい?」
はい、と小さい声で返事をした。
俺は“彼”の姿を見るために視線を落とす。その先にはすごくきれいでつやつやした黒い毛並み。ぴこぴこと愛らしく動く耳。緩やかなカーブを描く長いしっぽ。俺の目の前に、目をみはるほど美しい猫がいた。これが多分、彼……なんだと思う。
俺は何も言うことができず、ただ茫然としていた。
「どうかしたのか? そんなハトが豆鉄砲を食らったような顔をして」
「いや、だって……」
猫がしゃべっているのだ。そりゃ、ハトだって豆鉄砲を食らう。自分でも何言ってるのかよくわからない。ただただ、ファンタジーを目の当たりにして、思ってた以上に混乱しているようだ。
「まさか君、何もわからずにここに来ているのか?」
彼の耳が可愛らしくぴこぴこ動く。
「確かに何もわかってなかったみたいです。場所の紹介と“覚悟”の有無を聞かれただけなので……正直何をどうしたらいいのかもよく……」
「ここが何を扱っている場所なのかも?」
「ほとんど知りません。ただ、俺の今の状況を変えることができると……」
すると猫はクスクスとおかしそうに笑う。
「雑な説明だな……ハルらしいと言えばらしいが…… 今度来たら説教だな」
そうつぶやくと彼は奥のほうに改めて歩を進める。
「私の名前はクロガネ。ここの店員だ」
クロガネさんがチラリとこちらを見て言う。俺も自己紹介をしておく。
「俺は……ワタル……柴咲ワタルです。大学一年生です」
猫に敬語というのも不思議なものだけど、クロガネさんからは落ち着いたどことなく大人びた雰囲気を感じて、なんとなく敬語で話す。
「ハルから聞いてるよ。ふぅん、大学生ね。じゃあ十八歳とかかな?」
「はい、十八です。今年で十九になります」
「そっかそっか。まあ、詳しい話はあとで聞くとしようか」
クロガネさんはゆったりとしっぽを振りながら、奥の方へと進んでいく。
「ハルの奴、今回は注文が多いからなあ。この姿を見せてもいいってだけで不思議なのに、アリスも呼んでこいだなんて……」
そう言うと彼はこちらを振り返って俺の目を下から覗き込んできた。
「奥においで。色々と話を聞かなくちゃならない。君がどんな人間で、何を経験してきて、どんな生活を送っているのかとか、そういった他愛もないこと。それと、ここに来た時点で大体わかっていることだけど、君はきっと何かを守りたがっている。それが何なのか、どれだけ君にとって大切なのか私たちに丁寧に話してほしい。君が自らを犠牲にしてまで守りたいものが、どんなものなのかを……ね」