反対派
リョウコと現場での簡単な打ち合わせを終えると、おれはこの日の手伝いの仕事にむかう。依頼主は文化センターからも近い野生生物研究所所長の宮崎さんからだった。
この島の固有種の数は世界的に見ても多く、生物学的にも貴重な生物が数多く存在する。一方で、それらの希少野生生物の多くは絶滅の危機に瀕している。彼らはそうしたこの島の希少生物を調査、保護増殖する事業に取り組んでいる。
この日、おれが依頼を受けたのはモニタリングの手伝いで、主にはクロウサギの生態調査だ。クロウサギの糞や足跡などの痕跡を追うことで生息域や生息頭数などを確認していくのだ。地味だが希少生物の保護のためには絶対に欠かすことのできない重要な作業だ。とはいえ、正直いってこの手の活動に充てられる予算は驚くほど少ない。職員の給料だって決して高くはないが、それでも彼らはこの島の環境や生物多様性が永遠に守られていくことを理念に掲げて必死に働いている。おれはそんな彼らの理念に賛同して、以前にボランティアとして参加したことをきっかけに、野生生物に関する知識と引き換えに手伝いをするようになったのだ。
「それじゃあ、アキオ君は榊さんのチームと一緒に、川沿いの林道を調査してもらう」
宮崎さんはそういっておれに調査ファイルを手渡す。ここにはモニタリング調査の結果が委細に書き込まれていて、これを持ち帰ってパソコンに入力することで様々なデータが得られるのだ。
「それじゃあ行こうか」
おれは榊さんが率いる調査チームとともに森の中へと進んでいく。川沿いの林道は適度な湿り気があり、枯葉を踏む感触もどこか柔らかだ。この島の森は常緑樹が多く、冬場でも深い緑が枝葉を広げている。その梢から差し込む日差しが枯葉のつもる林道に揺れていた。
「サカキさん」
おれは前をいく彼の背中に呼びかける。
「おう、どうした」
「来週、世界遺産登録のプレゼンテーションがあるんだけど、知ってる?」
「もちろんだ。オレたちの親方でもある環境省の事業だからな」
サカキさんは振り返らずにそういってのけた。
「そこでリョウコっていう写真家が個展を開催することになっているんだ」
「へえ、リョウコちゃんが。彼女はオレたちの仕事への理解も厚くて、よく写真素材を提供してくれたり、調査に同行もしてくれるんで助かってるよ。それに美人だしな。彼女のことはみんな応援しているぞ。ただ」
そこまでいうと、サカキさんは振り向いて、後ずさりしながら言葉を継いだ。
「正直なところ、オレ個人は世界遺産登録そのものには諸手を挙げて歓迎しているわけじゃない。どちらかといえば、個人的には反対なんだ」
意外だった。彼らはこの島の環境保全のために懸命に働いている。世界自然遺産として認められれば世界的に認知度も上がるし、彼らの活動も注目を浴びることは間違いないと思っていたからだ。
「確かに、自然遺産登録をされることで、保護活動に目がむくことは期待ができる。でもな、よく考えてもみろ。世界自然遺産に登録されたからといって、オレたちの仕事が減るわけじゃないし、希少生物の生存数が増えるわけじゃない。こんなことをいうと、環境省に怒られちまうが、別にこれまでとなにも変わらないんだよ。世界遺産だから保護しましょうという大義名分がつくだけだ」
「でも、注目をあびれば、この島への観光客の増加にもつながるし、島の経済だって潤うんじゃないのか?」
「じゃあ聞くが、観光客が増えたとしてやつらはなにで移動すると思う。この島の交通インフラは十分じゃない。そうすれば必然的に自動車の交通量が増える。この島の貴重な野生生物の多くは交通事故で死んでいるんだ。それに、いい方は悪いが、この島にやってくる者がすべてこの島や野生生物に対して好意的とは限らない」
サカキさんは唇を引き結んで、厳しい表情を作った。
「アキオにこんなことをいうのも気が引けるが、外部から来た連中のなかにはこの島で密猟や盗掘をしてるやつらがいる。現に、固有種の蘭が盗掘被害にあっている。もし、そういう悪意ある訪問者が大挙すれば、オレたちは防ぐ術を持っていない。この島の生き物たちは、そういう輩に簡単に蹂躙される可能性があるってことだ」
「でも、それを防ぐために世界自然遺産に登録されることで、この自然を守っていこうって機運を高めるんじゃないのか?」
おれの反論に、サカキさんはまるでなにかを諦めたかのように、わずかに頬を緩めた。
「世界遺産なんて肩書きに、なんの意味もないさ。オレたちの島は、世界に認められるずっと以前から、この自然を守ってきているんだ。あとからやってきて偉そうにしているのは世界遺産さまのほうってことだ」
おれはそれ以上いい返すことはしなかった。サカキさんのいい分はもっともだった。確かに、この島の広大な原生林は、おれたち人間が守るべき自然であることはいうまでもない。しかし、彼らは世界自然遺産に認められようが、そうでなかろうが、彼らなりの理念と使命感を胸にこの自然を守り抜くために働いているわけで、お祭りムードで一喜一憂しているわけじゃない。
この日、おれはサカキさんたちに来週の写真展への協力を依頼することはできなかった。
サカキさんたちとのモニタリングを終えた後、おれは事務所に戻りその日の日報を書いてから、一つ下のフロアにあるあしびばを訪ねた。ちょうど初出勤を終えた役所帰りの職員たちがアフターファイブの一杯を楽しんでいるところだった。
「あ、アキオ。いらっしゃい」
ウィンドチャイムの音に反応してカウンターからこちらに目をむけたのはアルバイトのヒメコだった。そういえばこいつに会うのも久しぶりのような気がする。おれはカウンターのハイチェアに腰を掛けると焼酎をオーダーする。この島の特産品の黒糖焼酎だ。
「あけましておめでとう、ヒメコ。学校はいいのか?」
「まだ冬休み中だし。マコトさんなら出かけてるよ。もうすぐ帰ってくるとは思うけどね」
そういってヒメコはおれの前にコースターをおいて、焼酎の入ったグラスを差し出す。この島の海のような青いグラデーションの琉球グラスだ。
「働き始めたときはどうなるかとも思ったけど、すっかり板についてきたな」
「なんだか、アキオに褒められるとすごく嘘くさいんだけど」
ヒメコは眉を寄せてしかめ面を作ってみせた。まあ、おれも別に褒めたつもりはないんだけど。それでも、一人でこの店の留守番を任されるようなったということは、彼女はマコトから信頼をされているということだし、同時にマコトの信頼に足る仕事をしているということだ。おれが褒めてやる義理も必要もないが、すごいことだとは思う。仕事をするうえで信頼はなににも勝るステイタスになりえるからだ。
と、そのとき来客を知らせるきらきらとした音色が店内に響く。マコトが帰ってきたのかと思い振り返ったおれは、がっかりして盛大にため息をこぼした。
「よう、アキオ。朝以来だな」
にやけ面で手を挙げているのはコウジだった。一日に二度、こいつと顔を合わせるのは珍しいことではないが、この胸にぽっかり空いた喪失感。やつの罪は重い。コウジは呼んでもいないのにおれの隣にすとんと腰を下ろすと、ヒメコに年始の挨拶をして焼酎をオーダーする。
「それで、どうだ。調子のほうは」
「朝からなにも変わってない。現地の下見もしたけれど、ちょっと難儀しそうだな。会場は部屋じゃなくてホールのホワイエだった」
「ああ、展示系のイベントするならあそこの場所が一番多いな。オープンスペースだし一番人通りが多いから、結果的に盛況になるからな」
「ただ、今回の場合はそれがあだになる。不特定多数の中から犯人をあぶりだすなんてのは至難の業だからな。一応、下見をしてレイアウトを考えてみたから、それをリョウコに伝えて、最終的には彼女に決めてもらうつもりだ」
ヒメコがコウジに焼酎を差し出しながら話に割り込んできた。
「ねえ、なんの話してるの?」
「来週のリョウコの写真展。ちょっと考えることがあるだけだよ」
ヒメコには例の脅迫の話は伏せておいた。高校生の彼女にはまだ刺激が強すぎるし、彼女ひとりで妙に盛りあがって、おれがいろいろと考えていることが水の泡になるのも癪だからだ。ところが、そんなおれの心配をよそに、ヒメコはぱっと顔を輝かせながらいった。
「リョウコさんの写真展かあ。確か来週の土曜日だったよね」
「リョウコを知っているのか?」
おれの質問にヒメコは、うん、とだけうなずいて、ポケットから小さな手帳を取り出してページをめくった。
「あ、来週の土曜日は朝シフトかあ。昼からならいけるかな」
独りごとのようにそういってページを閉じると、ヒメコは唐突にいった。
「運動会の写真を撮りに来てるの」
「なにが?」
「なにが、って。リョウコさんじゃない。アキオがきいてきたんでしょ?」
ヒメコはあきれた、といわんばかりに両手を広げて肩をすくめてみせる。確かにきいたが、豪快にスルーされたと思ったんだが、相変わらず人のペースを乱すやつだ。
「運動会って学校のか?」
「いや、地区の運動会だろう」
おれの疑問に答えたのはコウジだった。
「この島は小中学校だけだと生徒の数が少ないから、どうしても運動会として成立しないだろう? だから地域住民もまきこんだ運動会になるんだよ。ヒメコがいうのはその地区運動会のことだろう」
「そう。リョウコさんって結構人気あるみたいで、いろんな地区から呼ばれての運動会の写真を撮ってるみたい。地元の新聞でも時々写真を使われてるの見るもの」
「まさか!」
「本当よ」
驚くおれにムキになってヒメコがいうのを、焼酎のグラスを片手にしながらおれは首を振って制する。
「おれが信じられないのは、ヒメコが新聞を読むってことに決まってるだろう」
そういった次の瞬間、おれの脳天にあざやかな手刀による一撃が加わった。おでこを押さえてうずくまるおれに、飄々とコウジがいう。
「ところで、アキオの考えている会場のレイアウトを教えてくれないか。もしかしたら、準備におれもかりだされるかもしれないから」
「お前の勤めてる役所、部門間の壁が薄すぎないか?」
「まあな。それよりもアキオはどう警備をするつもりなんだ」
おれはカウンターの上のペーパーナプキンを一枚抜くと、おれとコウジの間に広げる。そこにボールペンでさっと横長の長方形を走り書きをして、その中央を通るラインに、横に小さな四角形を、一定の間隔をあけて書き込んでいく。
「これがホワイエだとして、左側が入口。上のほうがホール側だ」
「なら、上辺はホール後方扉への階段になるな」
「ああ。それで、ホワイエの真ん中には横一列に柱がある。その柱の間にパネルを設置することで、ホワイエ内に疑似的に部屋を作り出し、展示会場への出入りルートをある程度絞る」
おれは長方形の真ん中あたりに書き込んだ四角形の間を結ぶように、水平方向に直線をひいてみせた。
「ホワイエを壁で囲むってことか」
「そう。そして、この柱の間に設置するパネルのラインに平行するように、すべてのパネルを水平方向に設置するんだ。そうすることで、より少ない人数で展示会場内の警備ができる。さらに、会場がホワイエであるメリットを生かす」
「メリット?」
「ここだ」
そういっておれは横長の長方形の上辺をとんとんとペン先でノックする。
「階段か」
「そう、この踊り場の位置からなら、展示会場内を俯瞰できる。妙な動きをする奴がいれば、連携して即座に封鎖できるって寸法だ」
コウジはなるほど、と小さく唸るようにつぶやくと、腕組みをして背もたれに体重を預けた。やつが珍しく真顔でそういうということは、おそらくこの作戦がベストだ。普段ふざけた態度をとっているから、真剣になる瞬間がわかりやすい。やつの頭の中でも当日の状況がシミュレートされているに違いない。もちろん、なにも考えていないという可能性も捨てきれないが。
一刻の間をおいて、腕組みをほどくと「いいんじゃないか」とコウジはいう。
「犯人がどういう行動にでるのか予測がつかない以上、アキオたちで障害を作って行動をある程度制限していくのは得策だな」
「ああ。今朝リョウコにも確認してみたけど、あれ以来、脅迫犯からの直接のコンタクトはないみたいだ。犯人がどこまで本気で妨害しようとしているのかはわからないけれど、これぐらいしか今は思いつかないからな」
おれは焼酎のグラスをひとくちあおる。氷が溶けて程よく味が馴染み、ちょうど飲みやすい頃合いだった。
「俺も反対派の動きにも注意しておくほうがいいと思うぜ」
「反対派? 世界遺産登録の?」
コウジの言葉におれはサカキさんがいったセリフを思い出す。この世界遺産登録というものが、この島にとって本当に正しいことなのかおれ自身もわからなくなっていた。ただ、おれは依頼を受けた限りはなにがなんでもやり通す。それがおれのモットーだ。
「忠告ありがとう。ところで、おまえはどっち派なんだ?」
「おれか? まあ、賛成だ。組織ってのはそういうところだからな」
そういてコウジはグラスの焼酎を飲み干すと、ヒメコにお替りと注文した。このあと、マコトが帰ってくるまでにおれたちは仕事のことを忘れてすっかり上機嫌になっていた。