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アキオとリョウコ

 翌日の早朝、ぼんやりと淡い闇に包まれた国道を島の北部を目指しておれは車を走らせていた。この島の空のような水色のボディーにキャンバストップのついたレトロなデザインがおれのお気に入りなのだが、冬場は機嫌が悪いとエンジンの始動が悪くなるのが玉に瑕だ。この日もエンジンをかけるのに三回ほどキーをひねらなきゃならなかった。

 事前に調べた日の出の時刻は午前七時十三分(東京より二十分以上も遅い!)。まだ一時間ほども時間があるが、夜は少しずつ海のむこうへと帰っていくように薄らいでいき、運転席からの視界も山の稜線がはっきりとわかるほどになってきていた。

 目的の海岸に到着すると道路わきの駐車スペースに車を停め、そこからビーチまでは防風林で囲まれた砂利道を歩いてくだっていく。石がこすれる乾いた音が、微かに耳に届く波の音に溶けておれの気持ちも次第に高揚していく。東の空が徐々に白んできていた。

 ビーチにはすでに何組か先客がいて、日の出のタイミングを今かいまかと待ち構えている。そのとき、おれの視界が三脚に据えた一眼レフカメラのファインダーをのぞき込んでいる一人の女性の後ろ姿にフォーカスされた。南の島でも真冬の早朝はそれなりに寒いのだが、彼女は薄手のナイロンパーカーを羽織っているだけで周りの人に比べても随分と薄着だった。それでも寒そうな様子もなく、ファインダーから見える景色に夢中になっている。

 おれはカメラを構える彼女のそばまでいくと「おはようございます」と挨拶をしてみた。彼女は急に声を掛けられて驚いたようだったが、すぐに人懐っこそうな笑みを浮かべて同じように「おはようございます」と返事をしてくれた。細長くきりっとした眉と、涼しげな印象の目元は大人っぽいのに、顔は小さな丸顔で、歯並びの綺麗な白い歯が弓張月のようなくちびるの隙間からのぞいていた。


「もしかして、ヨシハラリョウコさん?」


 そう問いかけると彼女はまたもやびっくりしたように目を丸くする。前髪をあげて後ろで束ねているのでころころと変わる表情がよく見えた。


「はい。そうですけど、わたしとどこかでお会いしてましたか?」

「いや、なんとなくそうかなと思ってたずねてみただけ。おれも違ってたらどうしようかと思ってちょっとどきどきしたけど」


 そういって肩をすくめてみせると、リョウコは少し感心したようにおれにたずねてきた。


「なんとなくにしてはよくわかりましたね。わたし、自分のホームページにも顔を出したりしてなかったのに、どうして芳原涼子だって思ったんですか?」

「薄着だったからかな。おれは東京から島に越してきたんだけど、東京に比べるとやっぱりこの島って冬場でも暖かいんだよな。でも、島の人にとってみたら寒いらしい。周りの人はわりと厚手のジャケットを着てるだろう? でもきみは薄いパーカー一枚羽織ってるだけ。きっと外からやってきた人なのかなって思ってね。旅行者にしては随分気合の入った写真の撮影をしているみたいだったからもしかしたらプロカメラマンかもしれないって考えた。それで、島外からきた若手女性カメラマンといえば、ヨシハラリョウコだろうとそういう論法だな。ちなみにヨシハラリョウコの名前はあしびばのマコトから聞いたんだ」


 おれの説明にリョウコは「おおー」と感嘆の声をあげながら大きくうなずく。


「じゃあ、わたしも一つ推理してもいいかしら? あなたはもしかしたら、なんでも屋のアキオさん、であってる?」


 ほうっとおれはため息をつく。おれもついに名前の知れる有名人になったってことなのか。


「正解。リョウコさんのこそ、どうしておれのことを知ってるの?」


 そういうと、自慢げに腕組みをしたリョウコはふふんと鼻を鳴らしながら少し胸をはった。


「だって、有名人だよ。アキオさん」

「そう、かな?」


 改めてそういわれると、そんなに人の話題になることをしていたかな、と考え込んでしまう。ちょっと前に怪しげなマルチ商法の会社の代表が逮捕されたきっかけを作ったことはあったが、あれもおれの名前は別にニュースになったりはしなかったし、警察から感謝状を贈られたわけでもない。はっきりいってあとはちまちまとした手伝いをやっているくらいだ。

 軽く握った右手を顎に当てて考え込んでいると、リョウコは思い出したように「いけない!」といって腕時計に目をおとした。


「すっかり忘れるところだった! ほら、もうすぐ夜が明けますよ」


 そういってリョウコがカメラを覗き込んでから間もなく、水平線のむこうから光の束が矢のようにおれたちの顔に降りかかってきて、その眩しさにおれはほんの少しだけ目を細める。砂を洗う波の音の合間に何度もシャッターの切れる音が響いた。

 もしあんたがおれの立場でもきっとこう思ったはずだ。今年はいい一年になりそうだってね。


 リョウコは朝日にむかって何度かシャッターをきり、撮影したその画像を満足げに眺めていた。おれはといえば、初日の出を見に来たのか、それとも初日の出を撮影する彼女を見に来たのかどちらかわからないぐらい、撮影に夢中になっているリョウコの姿に釘付けになていた。スポーツに限らず、なにかに一生懸命になっている姿っていつ見てもいいもんだよな。もちろん、それが美人ならなお良いことはいうまでもない。

 一年の始まりを告げる光も水平線の上にすっかり姿をあらわすと、黄金色に染まっていた東の空にも青みがさしてきて、おれたちのいるこの海岸も正月らしい混じりけのない透明な朝の空気で満たされてくる。


「アキオさんはこのあと、なにか予定が入ってますか?」


 撮影を終えたリョウコがカメラの三脚をたたみながらふいにたずねてきた。突然の問いかけにおれは、えっとと考え込んでみるも、さすがに元日から仕事を入れるつもりがなかったので、今日は一日休みだった。もっとも、休みだからといってなにか予定を組んでいるわけではなく、おれの自由に過ごすいわば休息日だ。


「なにも考えていないけど、仕事は入ってないよ」

「よかったら、一緒にお茶でもしませんか?」

「おれは構わないけど、このあたりって正月の朝からお茶できる場所なんてあるの?」


 そうたずねると、リョウコはあっと短い声をあげて手で口を覆う。一瞬考えるそぶりを見せたあと、ちょっとだけ気まずそうな笑顔を作った。


「じゃあ、ちょっと散らかってますけどわたしのスタジオに来ませんか。ここからわりと近いですし、それに相談したいこともあるんです」


 わかった、とうなずいて返事をすると、リョウコは「じゃあ、案内します」といって手際よくカメラをバッグにしまい、潮の引いた滑らかな砂浜に、あたらしい足跡を刻みながら歩きだす。彼女の歩みにあわせて揺れる、ひとつに縛った長い黒髪をぼんやり眺めていると、その黒髪が勢い良く振れてリョウコが振り返った。


「それと、わたしのことはリョウコでいいですよ。アキオさん」


 朝日を正面に受けて輝く彼女の笑顔におれは一瞬息をのんだ。そのときのおれの頭の中は、人間の目にもシャッター機能が備わってくれないかな、という馬鹿げた願望でいっぱいだった。


 初日の出を眺めた浜辺から車で五分とかからない場所にリョウコのスタジオはあった。すぐ裏手にあるビーチから波の音も届きそうなほどの距離に建つ一軒家、その庭の一角に設置されたプレハブ小屋が彼女の仕事場だった。


「どうぞ、ちょっと散らかっていますけど」


 そういってリョウコは軽い音をあげながらアルミサッシの引き戸を引いて、中にスリッパを並べてくれる。


「じゃあ、お邪魔します」


 散らかっている、という言葉の通りに六帖ほどの広さの事務所の中は段ボール箱や書籍が積み上げられていて、入り口のそばに置いてある応接用と思しきテーブルの上にはA4サイズにプリントされた写真が何枚も広げられていた。


「すみません、すぐ片付けますから、適当に座ってください」


 リョウコは慌ててテーブルの上の写真を両手でかき集めながら、それを壁際のパソコンデスクの上に積み上げていく。正直、左のものを右に動かしただけなので、まったく片付いた様子はないが、どうにかテーブルの上には何もない小さなスペースが申し訳程度にできあがった。


「ここ、立派な仕事場だけど借りているの?」

「ええ。母屋の方も借りているんだけど、スタジオ用の機材を家に入れちゃうと借家に傷つけてしまうかなと思って。それで大家さんに相談したら庭にプレハブを置いてもいいっておっしゃってくださって」

「へえ、なるほどね。ところで、さっきおいてあった写真は?」


 おれが何気なくたずねると、リョウコは「ああ」と小さく息をついて答える。


「年明けに島で初めての個展をすることになっているので、その写真の選定をクリスマスごろまでずっと悩んでいたの。ようやく昨日、すべての写真のプリントが終わったところ。これから写真をパネルや額に仕上げる作業が残っているんだけど、初日の出の写真だけは毎年欠かさず撮りにいってるから、ついそのまま仕事を放り出してカメラもって出掛けちゃった」


 どこかあどけなさのある笑みを浮かべて、リョウコはぺろっといちごの果実のような舌先を見せる。大人っぽい容姿のわりに、こうした子供らしさがあるところは、クリエイターの特徴なんだろうか、と彼女の表情に見とれていると、リョウコは続けざまにおれにいった。


「アキオさんが今度の個展のお手伝いにきてくれると聞いたんで、わたしちょっと張り切ってるんだ」

「どうして?」

「わたし、以前東京に住んでいたことがあるんです。実はそこで、アキオさんたちが路上ライブをしているのを何度も見ていたんです」


 その言葉におれは目を見張った。彼女はおれと何度も会っていたというのだ。

 もちろん、おれだってかつてはボーカリストの越智おち愛朱那あすなと二人でReveレーヴというユニットを組んで、メジャーデビューまでしたことがあるわけで、おれたちのファンだ、といってくれる人がいたって別に不思議なことじゃない。けれど、おれとアスナが路上ライブをしていたのをリアルタイムで見たことがあるというファンはそれほど多くはなかったと思う。

 というのも、おれとアスナがデビュー前に池袋周辺で路上ライブを始めたころはせいぜい両手で余るほどの観客しかおらず、ライブハウスで演奏をする頃になってようやく、アスナの歌声が認められるようになり、それがおれたちのデビューのきっかけに繋がったため、おれたちのマイナー時代をしっているファンというのもせいぜいライブハウス時代からのご贔屓なのだ。

 ただ、おれとアスナにとっての路上ライブというのは、デビュー前の路上での活動よりも、デビュー後に二人で事務所にも内緒でこっそりとやっていた路上島唄ライブのほうがずっとイメージが強かった。デビュー前のおれはなんとしても、音楽の業界に入り込みたくて躍起になっていて、路上演奏だって楽しむためではなく、チャンスを得るために必死に釣り糸を垂らしているようなものだった。一方で、デビュー後にアスナと路上で歌うときというのは、事務所やレコード会社、クライアントの意向なんてものをなに一つ抱えることなく、素直に思うまま、自由に歌うことができたのだ。実際に、そのときのアスナの歌声は、レコーディングできかせる声とは全く違っていて、これが彼女の本当の声なんだと思い知らされたものだ。そのときのおれは、立ち止まっておれたちの演奏をきく人がいなくたって、伸びやかなアスナの歌声が作り出す空間にただ立っているだけで不思議と幸せを感じられたんだからな。

 もし、リョウコがおれたちの路上ライブをきいたとするならばそれがどちらのことをさしていたのだろうかと、ほんの少し考えておれはあっと短く声をあげた。


「もしかして、リョウコって東京で路上島唄ライブを見に来ていた?」

「ええ」


 リョウコはポーションタイプのコーヒーメーカーからコーヒーを抽出しながらおれの声に反応する。彼女はこの島に移り住んで移住者組だ。おれたちの島唄ライブをきいて、そのことがこの島に訪れるきっかけになっていたとしてもおかしくはない。


「それって、おれたちがReve(レーヴ)だとしっていて? あのときはおれもアスナもReveであることを隠して路上ライブをしていたんだけど」

「そう、ですね。声とか愛朱那あすなちゃんの顔とかでなんとなく。ただ、話しかけたりするほどの勇気はなくて、きっとそうに違いないって思っていただけなんです。それで、前に地区公民館で安田先生の前座をされたときにアキオさんが島唄を歌ってらっしゃるのをきいて、やっと出会えたぁって思って……」


 なるほど、それでリョウコはおれのことを「有名人だ」といったのかと理解する。声を弾ませながらリョウコが運んできたコーヒーカップから、白く湯気が立ちのぼっていた。いつもマコトに店で飲むコーヒーよりもややローストの強そうなコクのある香りだ。このポーションタイプのコーヒーマシンというのは手軽だが味は案外侮れない。おれはカップを手にして一口すする。いつもよりやや強い酸味が鼻を抜けて目の覚めるような刺激を口の中に残してくれる。


「それで今回、おれに依頼を寄越したってわけか」

「はい、役場のコウジさんがお知り合いだときいて、是非お手伝いをお願いしたいと思ったんです」

「なるほど。おれは法に触れないことと、自分ができないと思う仕事以外はやらせてもらってる。もちろん、リョウコの依頼も受けるよ。ただ、おれは現金では手伝いの依頼を受けないんだ。かわりに手伝い料としてなにかおれがわくわくするものを一つ寄越してくれればいいんだけど、なにかあるかい?」

「そうですね……」


 コーヒーを運んできたトレイを胸の前で抱えるようにしてリョウコは考え込むと、なにかを決意するような強い視線をおれにむけて静かにいった。


「アキオさん、その手伝い料というのはこのお仕事が終わってからでもいいんですか?」


 そうたずねられておれは、わずかに首をひねる。別になにがなんでも事前に手伝い料を寄越せというつもりもなかったし、そもそもおれにとってその手伝い料の内容や受取時期というのは特に重要な問題ではなかった。質問の内容に違和感がないわけではなかったが、リョウコからの依頼は初めてだったのでそういった質問があっても別に不思議ではない。


「おれはいつでも大丈夫だけど」

「よかった。この仕事が終われば必ずお手伝い料は渡します。どうぞよろしくお願いします」


 リョウコはそういうと深々と頭をさげる。後ろに束ねた髪の毛が彼女の動作からわずかに遅れて彼女の肩口から前に垂れ下がった。



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