ハルナの夢
休日の午後は新港に現れた巨大客船見物に費やした。島の商店会や地元の中学生たちが歓迎セレモニーをしているのを一通り眺め、冬の太陽が西に傾き始めたところでおれは帰路についた。
おれの事務所が入っているテナントビルの二階、大きなナチュラルウッドのドアをあけると、星が流れたのかと思える透明感のあるウィンドチャイムの音色がおれを迎え入れてくれる。同時に店の奥から「いらっしゃいませ」と柔らかな声が響き、おれの顔の筋肉がかすかに弛緩した。店内にはクリスマスらしくジャズピアノにアレンジされたクリスマスソングが流れてる。
店内奥のカウンターにならんだハイチェアに腰を掛けると、マコトがお待ちしてましたといわんばかりに、おしぼりと水の入ったグラスを差し出してくれた。みたところ、店内にヒメコの姿はなかった。今日はもうアルバイトを終えたのだろう。
「実はあのあとすぐコウジから電話があって、年明けにリョウコさんを手伝うことになったんだ」
コーヒーを注文しながらおれがいうと、マコトはふわりとした笑顔を浮かべた。
「あら、それじゃあ個展のお手伝いですか?」
そういいながら手際よくコーヒーを淹れるとカウンターの上にそっと差し出す。陶器の触れるカチリという心地よい音が鳴る。
おれはカップを手にしてコーヒーを一口飲む。その絶妙な香ばしさの奥の苦みが寒さで強張っていたおれの体を解きほぐしていく。ゆっくり時間をかけてコーヒーを味わったあと、カウンターの中のマコトにいう。
「なんでも、連休明けの週末に文化センターで開催する世界自然遺産登録へのプレゼンテーションの一環とかで、そのシンポジウムやら写真展示やらを役場の環境対策課が主催しているそうなんだ。そこに環境省も一枚かんでいるから人手が欲しいらしい。狙ったように、おれの仕事の合間にねじ込んできやがった」
「さすがはコウジさんですね。アキオさんのお仕事のマネージャーさんみたいですものね」
「一度おれの事務所に盗聴器が仕掛けられていないか確認する必要がありそうだな」
くだらない冗談を飛ばしながら笑いあっていると、マコトが思い出したようにぱちんと音を立てて手を合わせ、店内の書棚から一冊の本を手にしておれの正面へ差し出した。A5サイズのちいさな本の表紙には「なつかしゃの島」とタイトルが躍っていた。
視線を表紙からマコトへと移すと、彼女はにっこりと微笑んでいった。
「それは去年発売されたこの島の観光ガイドブックなんですけれど、そこにはリョウコちゃんの写真がたくさん使われているんですよ」
「へえ、すごいな。ちゃんと写真家としても認められているんだな」
「もちろん、リョウコちゃんのカメラマンとしての技術もありますけど、なにより彼女はこの島のことが大好きで、島人たちともすぐに仲良くなれちゃうので、その人柄が彼女の仕事に結びついているんだと思いますよ。もしかしたら、アキオさんとよく似てるのかもしれませんね」
マコトにそういわれておれはふと自分のことを思い返す。おれの場合はだれとでもすぐ仲良くなるというのとは少し違うかもしれない。おれのなんでも屋はだれかとだれかが繋がるための橋渡し役なのであって、その副産物として人脈を築けただけにすぎない。それに、おれはだれかれ構わず愛嬌を振りまくタイプではないし、人から愛されるようなキャラクターでもない。そんなおれと彼女に共通点があるだろうか、と考え込んでいると、店の入り口できらきらとウィンドチャイムの音色が響き、だれかが店に入ってきたことを告げた。マコトは入り口に視線を送ると、すっと目を細めた。
「おかえりなさい、ハルちゃん」
扉口に立っていたのはマコトとは対照的によく日に焼けた小麦色の肌をしたショートカットの女の子だった。彼女の名前は宮田晴奈。ここからすぐ近くの南海大島高校に通う二年生で、マコトとは年の離れた姉妹だ。おれもこの店に通うようになってから何度となく彼女とは顔を合わせている。
ハルナは愛想のいいタイプではなかった。口数が少なく、話しかけてみても会話が長続きしないし、いつもまぶたを重そうにしていて感情が読み取りにくい。その一方で、彼女は走ることが大好きで、高校では陸上部で長距離走の選手をしているらしく、毎日最低でも五キロメートル以上を走り込んでいるという。ちなみに「走って会社に就職したい」が本人の目下の夢だ。
おれは正直いって長い距離を走るというのは苦手だ。おれからすれば長距離走の選手だというそれだけで殊勝なことなのだ。
どうやらハルナは部活帰りのようで、胸ポケットに校章の刺しゅうされたシンプルな紺のブレザーとチェック柄のグレーのプリーツスカートの制服姿だった。荷物が詰め込まれてはち切れそうになったスクールバッグを背負ったまま、おれから一つ離れたスツールに飛び乗るようにして腰掛けると、カウンター内のマコトにむかっておもむろに口を開く。
「お姉ちゃん、私、来月の駅伝のメンバーに選抜された」
本当に? とマコトの顔がめずらしく驚きの色にかわる。ハルナはこくりとうなずいただけだったが、マコトは驚きの表情から一転、破顔して両手を胸の前で合わせると興奮した声を上げた。
「おめでとう、ハルちゃん! ずっと頑張ってたものね。当然よね。でも本当によかった。じゃあ、今日はお姉ちゃんのおごりだから、好きなものを頼んでちょうだいね」
普段のマコトからは想像もつかないような早口で次々に言葉が飛び出してくる。ハルナもすこしびっくりしたように目をぱちくりとさせたが、すぐに「じゃあ、オレンジジュース」といつも通りの注文をした。マコトは「もっといいものを頼んでもいいのに」と苦笑いしながらも、ステンレスの冷蔵テーブルからオレンジジュースを取り出してグラスに注ぎ、ハルナの前に置いたコースターの上にそっと乗せた。
「部外者だけど、おれからもおめでとう」
そういっておれはスツールの座面をわずかに回転させ、ハルナのほうへ体をむける。彼女はちらりとおれを見やって恥ずかしそうに肩をすぼめながら「ありがとう」と小さな声でいった。
「その駅伝っていつ開催なの?」
「一月二十一日に本土で」
ということは、写真展の次の週の土曜日か。短い彼女の言葉を補足をするようにマコトが言葉を継ぐ。
「この駅伝大会は、来年の高校駅伝への登竜門ともいわれていて、これまで、その大会で優勝した高校はたいてい全国高校駅伝への出場を果たしているの。今年の南高の女子チームは優勝も狙える実力者揃いなのよ」
へえ、とおれが感心していると、ハルナがぽつりと口にした。
「……海晴北のマリカは欠場だって」
その声にこれまで上機嫌だったマコトの表情がほんの一瞬変わった気がした。もし、いつも通りに穏やかな様子のマコトだったら、おれはそんな些細な変化なんて見逃していたと思う。けれど、このときはそれまでのマコトの喜びようが嘘のようにすっと引いたのを感じたんだ。おれはつい無意識のうちに、そのマリカと呼ばれた相手のことをハルナにたずねていた。
「そのマリカって子は、ハルナとは別の学校の生徒?」
「うん。優勝常連校、海晴北高校のエース」
「欠場ってことは、ケガとか?」
ハルナは無言でうなずいた。彼女にとってみたら、優勝常連校のエースともなれば、ライバルであり目標でもあるのだろう。スポーツの世界からは縁遠いおれからすれば、ハルナの今の気持ちがライバル校のエース不在を喜んでいるのか、それとも、ライバルとの直接対決がかなわずに落ち込んでいるのか、推し量ることすらおこがましい気もするが、少なくとも彼女の表情には喜びの色は見えないので、どちらかといえば後者だろう。もっとも、普段から表情の読み取りにくい子ではあるのだが。
「まあ、スポーツの世界だからな、常に万全とはいかないさ。それに駅伝はチーム戦だろ。相手チームの主力が欠けるのは自分たちのチームにとってはとても有利な状況だ。悪いことじゃない。ハルナはいつも通り、自分のやってきた力を発揮すればいいんじゃないか」
ハルナがエース不在の相手チームとの対戦を残念に思っているのだと感じたおれは、そういって元気づけようとしたのだが、彼女の反応は小さな声で「うん」と一言口の中で呟いただけだった。その小さな違和感におれはどこかで推察を間違えたのだろうか? と、思っていると、ふたたび入り口のドアのチャイムが鳴り響いて、ハルナのクラスメイトらしき女子高生たちが四人ほど店内に入ってきた。マコトに一声かけると、すぐに彼女たちはハルナを連れて窓際の席を陣取って小さな祝勝会兼クリスマス会を始めたので、おれはなんとなくほっとしてその様子を眺めつつ、もう一度カウンターの中のマコトに目をやる。マコトはいつも通りに無駄のない動きで彼女たちの注文したドリンクを作っていた。考えすぎか、小さく嘆息しておれはマコトがもってきてくれたリョウコの写真が掲載されているというガイドブックを開いた。
年末というのはどこにいても慌ただしいもので、その日以降もおれの「なんでも屋」としての仕事は目のまわるような忙しさで過ぎていき、年内にすべての仕事が一段落したのは大晦日の夜になってからだった。
おれは事務所のテレビを垂れ流しにしたまま、応接用のソファセットに座ってパソコンで芳原涼子のホームページ「アイランドライフ365」をぼんやりと眺めていた。
このアイランドライフ365の存在を知ったのは、マコトから借りたガイドブックの最後のページ、編集協力者紹介のページに芳原涼子の氏名と略歴とともにURLが掲載されていたためだ。
ホームページに掲載してある写真は島の風景の写真が大半で、あとは草花や鳥、時には島の人たちの日常を切り取って、毎日二、三枚ずつ短いコメントつきで休むことなしにアップしていた。
アイランドライフ365の最初の記事は五年前の春で、そこにはこの島を上空から(たぶん搭乗していた飛行機の機内から)撮影した画像と共に、リョウコのこの島での生活がスタートすることへの期待や、不安が添えられていた。
『今日からこの島での新たな生活がスタートします。このカメラの他はなにもかも東京へ置いてきちゃいました。私はここでなにができるのか、なにを成し遂げられるのか。まだハッキリと見えているわけではありません。でも、生まれ変わったつもりで、ゼロから始めます。私のこの島での軌跡としてこのアイランドライフ365を毎日の写真とともに綴っていきます』
五年前といえば、おれが島にやってきて一年ほどたち、今のなんでも屋を始めた頃だ。あの頃はこの島で生活することの楽しさに目覚め、がむしゃらにいろんな人たちとの繋がりを求めて走り回っていたなあと、なんだかおれまで妙に微笑ましい気持ちになった。
「次のニュースです。沖縄県にある世界遺産『首里城』の守礼門に油のようなものがかけられているのを、職員が発見し警察に通報しました」
テレビのニュース番組のアナウンサーの「世界遺産」という言葉に反応しておれはテレビ画面に目をむけた。ニュースでは沖縄の観光名所であり、世界遺産にも登録されている首里城の守礼門や他の門にも油のようなシミがついているのが発見され、さらに周辺にある国の重要文化財などにも同様の被害が出ているという事件を報道していた。
実は昨年ぐらいから京都や奈良を中心に、日本各地で建物に油がまかれるという被害が相次いでいて、それらの多くは世界遺産や重要文化財に指定されている寺社を狙って行われているものだった。犯行はどれも観光客が多数訪れている中で行われているらしく、そのために犯人が特定しづらいうえに、誰でも簡単に真似できることから各地で模倣犯による犯行も取り沙汰されていた。
ひどいこと、というよりもくだらないことをするものだと、おれは呆れてニュースをきいていた。犯人が捕まっていない以上、彼らの意図するところを知るすべはないが、少なくとも、世界遺産などを狙って犯行を繰り返しているところを考えれば、そうした世界遺産というものに対する恨み、妬み、嫉み、そういった感情のみが動機になっているような、どこか子供じみた犯行に思えてくる。
「朝、職員が巡回をしたときには被害が確認されておらず、日中に犯行がおこなわれたものとして、現在防犯カメラの映像を解析しているとこのことです」
犯人はいったいどういった目的で、こんな犯行に及んだのだろうかと考えていたところで、おれのスマホがなった。その妙に呑気な着信メロディはこの島でもっとも長い付き合いでもあるコウジからの着信に設定しているものだ。それにしても、この男はいつもおれが考えを巡らせているときに電話をよこしやがる。いつか本格的に盗聴器の調査をしてもらおう。
『よう、仕事は落ち着いたか?』
電話口のやつの声は呆れるほど脳天気だ。
「おかげさまでな。役所は冬休みがあっていいよな」
『まあな。ところで、この前いっていた写真展の手伝いの話だけど』
コウジの口から本題が飛び出した。おれもそろそろ確認しなければと思っていたところだ。
「まだなにもアクションしてないけど、おれはなにをすればいいんだ?」
『今回は環境省の連中が視察にくるんでね、閑古鳥が鳴いてるわけにもいかないからな。にぎやかしみたいなものだ』
「それだったら、別におれじゃなくてもいいんじゃないか?」
コウジは笑いを嚙み殺すような妙な音をたる。なにが面白いのかわからない。
「いや、お前がいいんだよ。詳細はまた連絡するから、もう少し待っていてくれ」
「わかってるよ。ちゃんと予定にはいってる」
そうか、とだけいうと、コウジは具体的な話はなにひとつせず「じゃあ、良いお年を」といって電話を切りやがった。なんてやつだ。
「続いて、明日のお天気です。日本付近は高気圧に覆われており、元日の朝は全国的に雨の心配もなく穏やかな晴天に恵まれ、初日の出も綺麗に見えるでしょう」
ちょうど電話が終わったところで、テレビのニュースが明日の天気予報を伝える。その情報におれは明日が正月であることを思い出した。画面ではこの島のあるエリアにも太陽マークが誇らしげに輝いていて、降水確率には大きなゼロの文字が躍っていた。
そういえば、ここの島に来てからまだちゃんと初日の出を見に行ったことはなかったなとぼんやりと思いながら、おれはパソコンのブラウザから新しいタブを起動してそこに地図を表示させた。この島の全体図を映しながらどこに行けば初日の出が眺められるのだろうかと考えながら、ふいに妙案を思いついたとばかりに指をパチンと鳴らして、ブラウザの画面をもう一度リョウコのホームページに切り替え、その記事一覧から今年の一月一日の記事を呼び出した。
おれの予想通り、そこには『あけましておめでとうございます』の文字とともに、海岸から昇る朝日の写真が掲載されていた。その記事に掲載されていた海岸の名前を地図で検索してその場所をメモをすると、おれはニュースで中断されていた紅組と白組に分かれて歌合戦を繰り広げているテレビ画面を消して、明日の朝に備えて早めに寝ることに決めた。
正月の朝に早起きをして初日の出を見にいくなんて、案外やったことがないものだと思わないか?