写真展
あんたたちはこんな経験をしたことはないか?
朝、目が覚めて時計を見ると、起きるはずの時間をとっくに過ぎている。しかも、そんな日に限って大切な仕事や会議なんかが入ってるんだ。大慌てで家を出て大遅刻で怒られるのも覚悟で相手が待つ部屋の扉を開いた瞬間……
はっと目が覚めると、傍らで目覚まし時計が鳴っているんだ。
時間をみたらちゃんと予定通りの時間に目覚めて、ああ、なんだ夢だったのか、と安堵するんだ。
そう、いまおれはまさにそんな状況。ただ、困ったことに、おれの場合、目が覚めたとき、すでに起床予定時刻を三十分もオーバーしていたことだ。
どうも昨晩、マコトの店で飲みすぎたようだ。いや、それほど飲んだつもりはないから、よほど疲れがたまっていたのだろう。それにしても、今なにもこのタイミングで寝過ごすこともないだろうに。
自分自身にぶつくさ文句を垂れたところで状況は改善するわけではない。今日はリョウコの展示会の手伝いの当日で、さすがに人前にでるのにジーパンというわけにはいかないため、最近はめっきりと着ける機会が減ったネクタイをまいて、スーツのジャケットに袖を通す。
「くそ、今日は朝食抜きか」
誰にいうでもなくそう悪態をつきながら、おれは大急ぎで事務所を出た。
くすんだ蛍光灯の明かりがどこかどんよりとした空気を漂わせるテナントビルの階段を一つ降りたところで、マコトの店の入口をちらりと見遣る。いつもなら「OPEN」の看板がかかっているあしびばの大きなウッドドアには「本日、朝食は臨時休業いたします」と紙が貼りつけてあった。そういえば、マコトにも手伝いをお願いしていたんだった。どちらにしてもおれの朝食は抜きになっていたのか。仕方がない、むこうで時間ができたらなにか食料を調達するとしよう。
本来ならもう少し早く出てぶらぶらと港沿いを散歩しながら文化センターへむかうつもりだったのだが、今はそういうわけにはいかない。階段を駆け下りてスクーターに乗ろうかというところで、タイミングよく目の前をタクシーが横切った。それを追いかけるようにして停めると、おれは後部座席に滑り込むようにして乗り込み、運転手に行き先を告げる。行き先が近場で期待外れだったのか、無愛想な返事を運転手がしたところで、今度はおれのスマホがポケットの中でぶるぶると震えて呑気なメロディーを奏でた。このメロディーはコウジからの着信音だ。もしかしたら、おれが遅れているので嫌味の電話かもしれない。
「アキオか? いまどこだ?」
前置きなしにコウジはそういった。どことなくいつもの調子と違って緊迫感がある声だ。
「悪い、ちょっと出遅れて今タクシーでむかっているところだ。なにかあったのか?」
「ああ、ちょっとな。タクシーならすぐ着くな。こっちに着いてからでもいいけど」
「急ぐのか?」
コウジの返事に少し間があった。やつはまるで内緒話をするように声をひそめた。
「アキオ、リョウコとは一緒じゃないよな?」
「どういうことだ?」
おれは昨日あしびばを出たあとはその足で一つ上のおれの事務所に戻っている。もちろん、一人で寝ているので、リョウコとは一緒じゃない。ということは。
「まさか、リョウコがまだ来てないのか?」
「そうだ。ちなみにリョウコは昨日なにかいっていたか?」
「八時過ぎにはそっちに入るっていっていた」
おれは腕時計に目を落とす。時間は九時を回ったところだ。開場まではまだ一時間弱あるが、リョウコのスタジオから文化センターまでは最低でも三十分はかかる距離だ。
「電話には?」
「出ないな」
「そっちにリョウコの事務所の場所がわかるスタッフはいるか?」
「ああ、一応さっき一人むかわせたところだ。おまえはどこか心当たりはあるか?」
「いや、いまは彼女の事務所以外に思いつくところはない。とりあえずもうすぐそっちに着くから、対応を考えよう」
「それがな、問題はそれだけじゃない」
「なんだって?」
おれの声に運転手が一瞬びくりと肩を強張らせた。つい大声を出してしまったことに気まずくなるが、すぐにコウジの言葉に思い当たるものがあった。例の脅迫状の犯人が本格的に妨害をしてきたのだろうか。おれの心臓を打つリズムが早くなっていることに気付く。
「ほかにもなにかトラブルがあるのか?」
「リョウコの写真のうち何枚かにシミ汚れがついていてこのままでは展示できない状態になっている」
「まさか……でも、昨日おれたちが設営した時にはなにも……」
「とりあえず、今のところはその写真をはずしてしまうほかないと思っている。まあ、じたばたしても仕方がないとは思うが、リョウコが来ていないことのほうが心配だ。なにか思い当たることがないか、こっちに着く間に考えていてくれないか」
そういうとコウジは電話を切った。そういう間にもタクシーは新港入口の交差点を曲がり、あとはこのまままっすぐ七百メートルもいけば文化センターに到着する。時間にすれば一分もかからないだろう。
おれはスマホの画面を操作しリョウコへ電話をかけてみるも、電源が切れているというお決まりのアナウンスが流れるだけだった。おれはリョウコへの連絡をとるのはいったん諦め、昨日から今日までの記憶をたどる。
昨日の午後三時ごろにおれとリョウコが設営を終え、ひと段落したところでマコトがやってきた。そのときにリョウコがマコトを案内しているから、その時点では問題はなかったはずだ。そのあとでホールを出るときも見て回ったがおかしな点はなかったはずだ。
もちろん、ホワイエという共通エリアである以上、他に出入りする人物があった可能性はあるが、あの日会場を出たのはおれたちが最後だったし、そのあとに誰かが出入りすれば職員は気付く可能性が高いだろう。あとでセンターの管理室で聞いてみる必要はありそうだ。
それにしてもシミ汚れというのは、世界遺産や文化遺産登録されている建造物に油がまかれる事件との関連性があるのだろうか。もしかしたら、リョウコがいっていたみたいに、世界遺産登録への反対グループがいてこのイベントそのものを妨害しようとしているということか。
考えを巡らせているうちに、タクシーは文化ホール正面の芝生広場前に到着する。残り百メートルほどをダッシュで駆け抜けて、おれは展示会場となっている大ホールのホワイエへ飛び込んだ。コウジのほか、ワタルやおれが声をかけていた数名がすでに現場に到着していたが、その場にいた全員が突然のトラブルにほとほと困り切っていた。リョウコが不在で的確な指示のできる人間がいなかったため、対応に手を焼いている状況だ。役場の職員も何名かいたようだが、そっちはホールのシンポジウムの準備で手いっぱいのようだ。
「遅れてすまなかった。それで状況は?」
「汚損されている写真は全部で五枚。どれも展示会場内のA4サイズのものだ。今回は額に保護ガラスをはめていなかったみたいで、写真もマットもダメだ」
「リョウコと連絡は?」
「彼女のスタジオにむかったスタッフからむこうにはいなかったと連絡があった」
コウジがいうと、続けてワタルが真剣な声をだした。
「スタジオに彼女の車も見当たらんかったらしいから、外出しとるのは間違いなさそうじゃが、一応、ワンの同僚に連絡を入れておいて彼女の車を見かけたら連絡してもらうように伝えとる」
想定外の事態に焦りがあるのか、ワタルもやや早口になっている。おれは二人からの報告を聞きながらパネルで囲まれた展示会場内に入り、汚損された写真を確認する。汚されていた写真は「島の自然」に一枚、「島の生物」に二枚、「島の文化」に二枚。合計で五枚だった。その中にはリョウコが新聞に掲載されたこともあるといっていた地区運動会でのムカデ競争の写真も含まれていた。
「どうする?」
おれの後をついてきていたコウジがたずねてきた。おれは少し考えてから、今いるスタッフに裏の控室から、昨日おれたちがしまい込んだ段ボールをいくつか持ってこさせるように指示をした。その中にはまだ何枚か予備のマットが余っているはずで、汚れたマットの交換はできるはずだ。
「けど、肝心の写真はどうするつもりだ? あの汚れた写真じゃせっかくの個展も台無しだ」
「それはなんとかなるさ。受付に今日配布する予定のパンフレットがあっただろう? あれを一部持ってきてくれるか?」
おれがワタルにそういうと、普段はあまり見せない機敏な動作で展示会場の入口のテーブルに積んであったパンフレットを持ってきた。
「これは今日、リョウコさんが展示しとる写真の一覧じゃが」
「まさか、この小さい写真を飾るつもりか?」
コウジがここにきていつもの人を小馬鹿にしたような含み笑いをする。
「まあ、写真は大丈夫だ、心配ないさ。それよりもおれはリョウコを探す。せっかくの個展に本人がいないんじゃ格好がつかないしな」
ホールの外、ガラス扉のむこうのエントランス部分には会場を待っている気の早い来場者が何人か列を作って並んでいた。熱心な支持者がいたもんだ。
おれはワタルにとりあえず汚れた写真を外して額をきれいに拭いておくように頼み、いったんホールのホワイエを出る。コウジもおれの後をついてきた。おれたちはそのままエントランスから正面玄関へとまわり、ロビーの端にある文化センターの管理室の小窓をノックして中の職員に声をかけた。
「すいません、昨日写真展の準備をしていた者なんだけど、すこし聞きたいんだ。昨日、おれたちが準備を終えた後に、ホールに入った人っていたかな?」
「昨日ねぇ。そういえば、髪の長い女性が一人、忘れ物を取りに来たといって中に入りましたよ。すぐに出てきましたけど」
「髪の長い人? リョウコか?」
コウジがおれのうしろでつぶやいた。リョウコとは現場で別れたのでその後の動きはわからないが、なにかを取りに戻ったということか。
「それ以外はだれも入ってなかった?」
「そう思うけどね」
「わかった。ありがとう」
そういって礼をいうと、おれはまわれ右をしてロビーを出て、ふたたびホール前のエントランスへとやってきた。ホール入口前の人の列は時間が経つごとに長くなり、その数はすでに五十人は超えていそうだ。皆スマホや文庫本を片手に、会場までの時間を寒空の下で待っていた。おれがその人の合間を縫ってホールに戻ろうとしたときだった。
「ちくしょう! だれだ、大事な写真展の邪魔をしやがったのは!」
エントランスにいただれもがその声に驚いて、手にしたスマホや文庫本などから顔をあげて声の主へと視線をむけた。もちろん、おれもその中の一人だったのだが、おれにはすぐそれがコウジが発した叫び声だったことがわかった。
「おい、でかい声出すなよ。注目されてるぞ」
「悪いな。なんかむしゃくしゃしてつい」
そういったものの、コウジはまったく反省している様子も見せずにいつも通りのヘラヘラとした薄い笑いを浮かべてきる。ホワイエに戻るとワタルが駆け寄ってきた。
「いわれた通りにしたが、このあとはどうしたらいい」
「写真のことなんだが、ワタル。悪いが、港町のコンビニエンスストアまで急いでいってくれないか? タクシー使ってでもなんでもいいから」
ワタルはおれが突然コンビニに行けといった理由にいまいちピンとこなかったのか、かすかに眉を寄せてきき返した。
「それは構わんが、コンビニになにを買いに行くんだ?」
「リョウコの写真だ」
そういうとワタルはますますきょとんとおれを見返す。おれたちはふたたびホワイエに戻り、写真展のパンフレットの中から汚された五枚の写真をマジックペンで丸で囲むと、さらにそのタイトルの下に記載されたアルファベットの文字にマーカーでラインを引いて、ワタルに手渡した。
「そいつは、コンビニのコピー機から印刷できるんだ。操作自体は難しくないはずだ。A4サイズの光沢紙で印刷をして、予備のマットとともに額に入れて写真の額を元の位置に戻しておいてくれ」
「なるほど、そういうことか。これなら写真自体は問題なく展示できるな。それで、アキオはどうするつもりかい?」
「おれはリョウコを迎えにいってくる」
そういうと、ワタルもコウジも目を見開いて驚いた。
「まさか、リョウコの居場所がわかるのか?」
そういうコウジにむかっておれはにやりと笑ってみせた。いつもやつにやられている仕返しだ。
「まあな。開場時間に間に合えばいいけど、そうならなかったとしても必ず連れてきてみせるさ。じゃあ、写真のほうは頼んだぞ」
やつにそういい残し、おれはホールを飛び出すと、冬空の下、海風の舞う芝生広場を走り抜けて大通りでタクシーを拾う。おれが運転手に告げたのは、おれの事務所の住所だった。