イントロダクション
日本にはおれたちが見たことのない風景がまだまだたくさんある。それこそ無数にあるといっても過言じゃない。けれど、その多くは写真や映像となって、テレビ番組やインターネット越しに、お茶の間にいながら、いや通勤電車の中や仕事をこっそり抜け出してひと息ついたトイレの個室でだって眺めることができる。百万ドルの夜景も、スマートフォンの月額使用料さえ払えば無料で堪能できるんだから、本当にいい時代になったと思わないか?
ただ、あんたたちが小さなディスプレイ越しに眺めているその絶景だって、誰かが覗き込んだファインダーのむこう側に広がる景色の一部を切り取ったに過ぎず、もっといえば何層にも重ねられたフィルターを通り抜けたあとに出来上がった、いわばひとつの作品なのであって、そこには製作者の意図というものも加味されていることを知っておく必要がある。
その写真を見たおれたちはその場所に憧れ、その場所に行きたいと思うだろう。そう思えるように、その写真には様々な工夫がなされているんだから、まあ当然なのだ。けれど、おれはそれが悪いことだとは思わない。例え商業的な写真だといわれようが、その場所、そのものの価値は不変なのであって、人類の歴史よりももっと長い時間を経て作られた造形美には写真で伝えられない、本物の価値があるからだ。
ひと昔前、いわゆるデジタルカメラが普及する以前、おれたち小市民の写真といえばインスタントカメラだった。真四角の紙製の箱に安っぽいシャッターとファインダーがわりののぞき穴、そして箱の真ん中に小さなレンズ穴の空いたフイルム入りの使い捨てカメラだ。最近ではまた流行り出しているというが、その理由は「スマホのカメラでは出せない懐かしい雰囲気の写真が撮れるから」だという。
そう、いまやカメラは一部の人間の趣味ではなく誰しもが手にする時代で、さらにいえば撮った写真をツイッターやインスタグラムなどのSNSを使って、瞬く間に全世界に拡散することだって容易くなっている。インスタ映えなんて言葉に象徴されるように、写真や動画によっていかにしてフォロワーに刺激をあたえたり、共感を得られるかということは、ネット社会に生きる個人のとても重要なファクターですらある。
それに、近頃のニュース映像をみていたらあんたたちだって気付くだろう?
横長のテレビ画面に無理矢理はめ込んだ縦長の動画、その隅に表示される「視聴者提供」の文字。交通事故や大雨、地震なんかの災害。おれたちは誰しもが一瞬の時間を切り取るスクープカメラマンになり得ることができるのだ。いまやマスコミよりもこうしたSNSの動画の方が情報が早いんだから皮肉なものだよな。
けれど、よく考えてみてほしい。
その小さな画面に映る景色は「真実」だろうか?
目の前に起こっている事実をそのまま垂れ流せば、それが真実なのだというのは、あまりにも乱暴な考え方だとおれは思う。
もっとも、そのことを気づかせてくれたのはひとりの女性であって、おれの経験に基づいているというわけでもないけどね。
だけどこれだけは覚えておいてほしい。
真実というものは、おれたちが思っているよりももっともっと深い海の底に沈んでいて、そう簡単に巡り会えるものじゃないってことをね。