04:2月13日(金) (1)
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平日も五日目になった。今日一日頑張れば休みだ、と多くの学生や社会人の頭に過ぎっている頃だろう。
時計は七時半に差し掛かるところだった。
千草の部屋で、千草と千尋は向かい合っていた。片方は学ラン、片方は寝起きのときのラフな服装のままである。
「それじゃあ」
「うん。行ってらっしゃい」
「行って、きます」
リュックを抱えて部屋を出て行く。部屋の扉が閉められた。
それを見送って。
千草は、ベッドへと倒れこんだ。その勢いに枕が跳ねる。
天井を見つめながら不思議な気分を味わう。平日の、本来ならば学校に向かわなくてはいけない時間に自室にいる。たった今千草の制服を身につけ、千草の鞄を持って学校へと向かったのは千尋だった。
体調が悪いという訳ではない。「井々城千草」は学校へ登校し、問題が発生しない限りきちんと全ての授業を受けて帰って来るだろう。その間、千草の本物は―オリジナルは家にいることになる。欠席扱いにはならないがズル休みではある。
さて何をしようか。
布団に寝転んだまま千草は考える。千尋のことは心配していなかった。千尋を家へ引き入れてから今日でちょうど一週間になる。その期間の観察によって、ドッペルゲンガーという存在はコピーした人間そのものになることはできないのだということを学んだ。千尋は以前「触れた人間の容姿、知識、身体能力をコピーできる」と言っていた。それは言葉の通りだったのだ。容姿をコピーすることで見た目は同じ、身体能力をコピーすることで声も同じ、知識をコピーすることで口調も同じ。しかし知識に思い出は含まれない。千尋に寄れば「井々城千草という人間が友人の浅川葱生と映画を観に行った。その映画は○○というタイトルだった」ということは分かっても、「葱生と映画を観に行って、その映画はとても面白かった。葱生と感想を言い合うことで意外と趣味が合うことを知った」といった思い出までは読み取れないらしい。物事の感じ方はこれまでの経験が物を言う。その点で、千尋は千草の完全なるコピーとは言いがたい。
ただ、千尋は演技をすることができる。何も考えない状態で話すと千尋の一人称は「私」になる。初めてまともに会話をした時もそれは窺えた。そちらが素なのだろう。しかし父と接する時には、千草の口調で、千草ならこう反応するだろうということを考えて振舞っている。そうすると肉親ですら気づけなくなる。例えば友人とドッペルゲンガーが入れ替わっていたとしても、千草がそれにすぐ気づけるかは分からなかった。思い出を共有していないことに違和感を覚えるかもしれないが、まさか目の前の相手がすり替わっているとは思いつかないだろうし、思いついたとしても認めたくないだろう。ましてや「ドッペルゲンガーなど存在しない」と信じている人なら尚更だ。
千草が千尋を代わりに学校に行かせたのは、別にそれを検証するためではない。
昨夜に千尋の話を聞き、考えた結果として行かせることにしたのだ。千尋は躊躇いがちにこう言った。
「……このままだと、私の身体が崩れそう」
その言葉が何を意味しているのか、思わず怪訝な眼差しを向けながら考えても分からなかった。
「崩れる?」
オウム返しに返すと、千尋はこくりと頷いた。
「自分でも経験したことはないけれど、多分この姿を保てなくなる……」
崩れる、姿を保てなくなるというのは症状としてどのような状態なのだろう。想像がつかない。望もうと望むまいと、人間は自分の姿を変えられない。髪型や体型を変えたり、身に纏う物を変えたりすることで雰囲気は変えられるが。それでもそれは「別人のよう」であって「別人になる」訳ではない。「身体が崩れそう」という感覚は理解できそうになかった。
「これまでも、基本的には同じ姿でいたんだけど。一週間に一回、別の人間の姿に触れて一瞬だけ変わって、またお嬢様の姿に戻るっていうのを繰り返してた。だから、そろそろ一度誰かに代わらなければいけないと思う……」
千尋はぽつりぽつりと囁くように言った。
お嬢様。
先日は聞き流していたが、千尋はどうやらその「お嬢様」という人の姿を常にとり、その人物の代わりとさせられていたらしい。それが嫌で逃げ出してきたと言っていた。身分の高い人のために用意される、影武者のようなものだろうか。それにしても時代錯誤を感じる話だ。
千尋はここ一週間ずっと、千草の姿であり続けている。別の誰かに変わるためには、新たな誰かに触れなければならない。
「分かった。じゃあ明日、俺の制服を着て高校に行って来たら」
千草の提案を、千尋は飲み込めなかったようだった。
「……え?」
高校? と、声に出さずに唇を動かす。
「一時的に変化するのが誰でも良いなら、そこらへんを歩いている人にぶつかるのでも、それこそお父さんでも良いんだろうけど。でも、千尋、ここ一週間ずっと家の中にいただろ。気分転換というか刺激というか、学校に行ってみるのはどうかなって」
千草は軽い調子でそう説明した。声音はあっけらかんとしているが、その目は少しも笑っていなかった。言外に思いを込める。十七歳の人間の多くは高校に通ってるよ。人間になりたいんだろう?
それを読み取ったのかどうか、千尋は悩ましげに目線をさ迷わせた挙句、ゆっくりと首肯した。
ドッペルゲンガーは変化した人間の知識をもコピーする。それは「井々城千草」とラベルの貼られた引き出しに、知識の塊が放り込まれるような感じであるらしい。高校への行き方やクラスメイトの名前、高校二年生の勉強は、その引き出しの中を探れば分かるようだった。少しの注意事項を伝えておけば問題ないだろう。
そうして千尋は今朝、千草の制服を着込み、千草の教科書を持って学校へ向かったのだった。
もし耐えられない、あるいは正体がばれかねないような事態が発生したときには、早退という手段を用いても良い。千草がそう伝えると、千尋は「そうなったら、床に落ちてる誰かの髪の毛に触れて帰ってくる」と答えた。
頭でも髪でもなくて、人間本体から切り離された髪の毛でも、その持ち主であった人間の情報を読み取れるというのだ。床に落ちた髪の毛とはあまり触れたいものでもないが、それで新たな人間の情報をストックし、いつでもコピー可能になるというのならば一番手っ取り早いのかもしれない。
「……、」
千草は腹筋の要領で起き上がり、ベッドから足を落とした。机に向かい、引き出しからルーズリーフを取り出す。
時間ならたっぷりある。
ドッペルゲンガーについて、分かっていることを全て書き出してみようと思った。