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03:2月9日(月) (3)


 放課後。

 普段と変わらない調子で授業は進み、そして終わった。焦ることなく宿題を提出し、教師に数回名指しをされて、幸いにも全て模範解答を答える。午後の授業は眠たいことも多いが、目の前の浅川葱生(あさかわそうき)が自分以上にうつらうつらしているのを見ると却って眠気が吹っ飛ぶのだった。千草(ちぐさ)の分の眠気も葱生が吸い取っているのかもしれない。


 今週は教室掃除が当たっていた。出席番号によって割り振られた五名程度のグループで、床を掃いたり机の天板を水拭きしたりする。千草は黒板を綺麗にする仕事を担っていた。クリーナーを念入りにかけた黒板消しで、上からきっちりと消していく。


「い、井々城(いいしろ)


 高い声で話しかけられて、伸ばした腕の向こうを探る。千草を見上げていたのはクラスメイトの女子・森遥(もりはるか)だった。


 千草の通う高校の男子制服はどこにでも見られるような黒い学ランだが、女子制服は少し珍しい形をしている。上下が繋がった黒いジャンパースカートを着用し、その上にボレロを重ねるのだ。ボレロはウエストよりも丈が短く前が開いている。首元にブラウスの丸襟が覗いており、その下に赤いリボンを蝶の形に結ぶ。女子の規定の服装をして、遥は髪をポニーテールに括っていた。


 遥とはグループ学習で一、二度一緒になったことがある。一年生から二年に進級してもクラスが同じになった、数少ないクラスメイトの一人でもある。明るく、行事の時にも積極的に行動するので男女を問わず友人も多い。ムードメーカーの役割を果たしていることが多い子だと千草は認識していた。千草と遥は一緒に何かをするということはほとんどないが、会えば挨拶をするような仲ではあった。


 千草が遥を見遣ると、遥は言葉に詰まったように少し後ずさった。ポニーテールが波打つ。


 てっきり「担任が呼んでいる」といった事務的な連絡かと思ったが違うようだ。遥はひどく言いにくそうに、口をただぱくぱくとさせている。教室の喧騒の隙間を縫って、抑えられた声が聞こえた。遥、ファイト! 何やってんの、井々城くん困ってるよ! 声の聞こえた方を見れば、教室の扉から女子二人が顔だけを覗かせていた。本人達はひそひそ声で、遥だけに届くように話しているつもりのようだが、当然のように千草にも聞こえていた。


 黒板消しを動かす手を止めて、遥へと向き直る。あまり堂々と掃除をさぼっている訳にもいかなかった。他のメンバーは机を動かし始めている。


「森さん、何?」


 千草は屈んで遥と目線を合わせた。よっぽど言い辛いことならば、小声でも聞こえるようにした方が良いだろうかと考えたのだ。途端、茹で上がったかのごとく遥の顔が真っ赤になった。


「え、えっと」


 目を泳がせ、しどろもどろになりながらも遥は続ける。


「……井々城って、甘いものの中では何が好き?」


 声をかけてきた本題はそれらしい。

 甘いもの。正直に言うならば、甘い食べ物は得意ではなかった。食べられはするが、好きと言えるほどのものはない。自分で買うお菓子は塩気のあるものばかりだった。しかし質問の内容は「甘いものは何が好き」だ。Whatの問題であって、「甘いものは好きではない」という回答は少しずれている。どうしたものか。


 千草が考えていたところに、同じく掃除当番である葱生が現れる。運んでいた机をがたり、と床に置いたかと思うと去り際に、


「井々城はどっちかって言うとビター派。甘さ控えめのものが好きだと思うよ。それから、豆乳かな」


 流れるように答えを告げていった。


「そっか、豆乳。いっつも飲んでるもんね。分かった。ありがとう」


 遥は表情を明るくした。答えを述べたのが千草本人ではないということは気にしていないようだった。


「井々城、私、頑張るね」

「……うん? 頑張って」


 遥はぐっと拳を握りこんで宣言する。そしてくるりと踵を返すと、勢い良く友人達の元へ戻って行った。よしよし良く頑張った、と友人に頭を撫でられているのが見えた。


 千草はふう、と息を吐く。今の出来事を解釈するつもりはない。ただ黒板を綺麗にする作業を再開する。毎時間、教師によって書いては消して、書いては消してということを繰り返される黒板は、念入りに掃除をしてもすぐに汚れてしまう。だからこそ一日ごとに、見違えるほどに綺麗にすることを皆が当然の義務としていた。


 黒板消しを引っくり返してみる。白色に赤や黄が混ざって何とも言えない色合いになっていた。窓際のクリーナーへ向かう。スイッチを入れると大きな音が教室内に響く。稼動音を聞き流しながら、千草はガラスの向こうを眺めた。


 日の入りにはまだ時間があるが、太陽は少しずつ少しずつ地平線へ向けて傾いていっている。あと一時間もすれば生徒のいない教室へ橙色が滲んでいくだろう。一人、席について徐々に一日が夕暮れから夜へ切り替わっていく様を見つめているのも良いが、今日は悠長に残っている訳にはいかない。先ほどスマートフォンを確認した折には何のメッセージも入っていなかった。ドッペルゲンガー──千尋から緊急の連絡はない。家から出る必要もないようだったし、トラブルもなくやっているようだ。ただあまり帰りが遅くならないよう、掃除が終わったら寄り道せずに帰宅しようと考えていた。


 黒板消しをクリーナーにかけ終え、窓へ背を向ける。教室掃除はあと少しで完了しそうだった。千草は他の仕事に加わる。


 教室にいる生徒の数は少なくなってきていた。とっくに家へと向かった者、部活動へ参加しに行く者、廊下で友人と話している者、様々だ。

 机を整頓し終えて掃除班の五人で円になった。


「掃除終わり。おつかれさまでした」

「おつかれさまでした」


 声を揃えて解散する。ざわめきがまた少し遠くなる。

 千草はリュックサックを掬い上げて肩にかけた。

 普段と何ら変わらない調子で、一日がまた終わりへと近づいていく。



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