03:2月9日(月) (1)
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鳥のさえずりが聞こえる。雀だろうか。カーテンが閉まっているこの部屋からは、鳴き声は聞こえても姿は見えない。
目を開けた。水中に沈められていたビニール製のボールが、押さえつける手から不意に解放されて水面へ浮き上がるがごとく、意識がふっと覚醒した。布団に包まれた四肢に疲れはない。体を横たわらせたまま、瞳だけをきょろきょろと動かす。睡眠から覚めた頭で一番始めに思ったのは、見慣れない部屋だ、ということだった。
八畳くらいの広さをもった洋室。備え付けのクローゼット、平机、ベッド、本棚が壁際を埋めている。それらは全て明るい木目調で、どこを見ても物が散らかった印象は受けない。閉められたカーテンは空色をしていた。よく言えばシンプルで落ち着く、悪く言えば個性の感じ取れない簡素な部屋だ。それでも、ここ一年ほどずっといた、布団と小さな文机しかないような、小さな部屋よりはずっと人間味があった。
床に敷いた布団に横になったまま部屋を眺めていると、
「千尋、起きた?」
上から声が降ってきて、ドッペルゲンガーは瞬きを繰り返した。ちひろ。聞きなれない響きに、それが自身を指しているとは今だに実感できていなかった。
体を起こして掛け布団を剥がす。部屋の時計を見れば、午前六時過ぎを指していた。二月九日、月曜日。午前六時十二分。
「おはよう」
「……おはよう」
この部屋の主──井々城千草 に声をかけられて、ドッペルゲンガーもまた挨拶を返す。千草はとうに目覚めきった様子で、白いワイシャツに学生服のスラックス姿でいた。上着とコートを羽織れば今すぐにでも出かけられる状態である。
千草は足を床から浮かせて、座っていた回転椅子をくるりと回した。机の上へ手を伸ばし、黄緑色をした紙パックを取る。「豆乳」と書かれた直方体から伸びるストローに口をつけると、ずず、と小さく音がした。
「申し訳ないんだけど、顔を洗うのとかもうちょっと待ってもらっても良い? 今、父がシャワー浴びてるはずだから。俺とお父さんは七時半に家を出るから、そうしたら好きなように過ごしてもらっていいんだけど」
言葉通り申し訳なさそうな顔をして千草が言う。ドッペルゲンガーは首を横に振った。
そのまま黙り込んでいると、「飲む?」という問いとともに目の前に紙パックが現れる。まだ開けられていないものだった。差し出されるままに受け取り、ひとまずは床へ置く。ドッペルゲンガーは布団から這い出てカーテンを開けた。千草は自身が起床するのを待っていてくれたのだろう。机のライトが点けられていた。
しゃっ、と子気味良い音とともに透きとおった青空がレースカーテンの向こうに覗く。ドッペルゲンガーはカーテンを束ね、布団のところへ戻って敷布団を簡単に三つ折にする。それを部屋の隅へ寄せて掛け布団や枕を重ね、背もたれにして座った。
そこで改めて、千草のくれた紙パックのパッケージをまじまじと観察した。調整豆乳と書かれているパックに見よう見真似でストローを挿す。ゆっくりと口をつける。舌を通り過ぎていった液体は味わったことのない、形容しがたい風味をしていた。甘くはない。感想の出て来ないドッペルゲンガーを見て千草が笑う。
この世には、美味しいものも、美味しさが自分にはよく分からないものも、数え切れないほど存在しているのだろう。
豆乳を飲み進めながらドッペルゲンガーは考える。
ドッペルゲンガーは食事を必要としない。身体機能としては食べることも飲むこともできるし、味覚もきちんと有している。美味しいと思うこともある。しかし、栄養摂取のために食べるという行為は求められないのだ。口から食物を摂取せずに、どうやって生きているのかはドッペルゲンガー自身にも分からない。人間ととてもよく似ているドッペルゲンガーが、人間と共通して必須とするものはおそらく睡眠くらいだろう。
そのことをドッペルゲンガーが千草に伝えると、千草はひどく驚いた顔をしていた。それでも、と言って金曜の夜はダイニングテーブルに二人で向かい合ってカレーライスを食べた。あれはドッぺルゲンガーのこれまでの生涯で食べたものの中でかなり上位に位置づけられる美味しさだった。伝えると、千草は大げさだと言っておかしそうにしていたが。
それはともかく。ドッペルゲンガーが千草の家に滞在し始めてから、今日で四日目になる。金曜の夕方から土日、そして月曜と、ドッペルゲンガーは家から出ないで過ごしていた。姿は、歩道橋で千草に接触してからそのままだ。衣服は千草のものを丸々借りている。似たような服装をした二人が代わる代わる居間に下りても、父に気付いた様子は全くなかった。
ストローを一息に吸っていると、二〇〇ミリリットル程度しか入っていない紙パックの中身はあっという間に底をつく。そのままの状態でいると紙パックの中の空気が少なくなってべこりとへこむ。さすがに口を離し、紙パックの糊でくっついている部分を剥がす。直方体を潰して平らにすれば、隠れていた部分に「たたんでくれてありがとう!」と文字が印刷されているのを見つけた。芸が細かい。どういたしまして、と舌の上で言葉を転がす。
立ち上がって、机の脇にあるゴミ箱に紙パックを捨てる。千草は机に向かっていた。天板の上には本やノートが広げられている。
「何してるの?」
ドッペルゲンガーの問いに、千草はシャープペンシルを動かす手を止めずに答える。
「うん? 授業の予習とか課題とか。朝型だからさ、ちょっと早く起きてまとめてやるようにしてるんだ」
言いながら、別の冊子を開いて赤ペンに持ち替えた。まとめられた解答解説と自身の回答を照らし合わせながら丸付けをしていく。丸の連ねられる音が軽快に響いてリズムを作る。
「……ふうん……。大変そう」
「そうでもないよ?」
突っかかって投げ出すということもなく、千草は教科書の例題やワーク、プリントを解いていく。解答が手元にあればさらりと答え合わせをし、ポイントを簡潔に書き写しておく。淀みのない流れだった。ドッペルゲンガーは傍らに佇み、それを黙ったまま見つめていた。
紙の上でシャープペンシルの芯が削れ、赤ペンが滑る音だけが部屋に散らばっていく。千草がきり良く一通りの予習を終えた時には、時刻は七時を少し過ぎたところだった。教材をすべて鞄へ仕舞いこみ、千草はドッペルゲンガーを見る。
「下で朝ごはん食べて、そのまま学校に行ってくる。家には誰もいないことになってるから、電話とチャイムは出ないで」
「居留守になるね」
「うん、まあ。仕方ない」
鞄と制服の上着を手に取り、千草は廊下へ向かう。思い出したように、自室の物は好きに使って良いことや食べ物も好きに食べて良いこと、困ったときはノートパソコンからメールを寄こすこと、など連絡を付け足す。ノートパソコンの扱いは休日のうちに教授済みだった。
「じゃあ千尋、よろしく」
「行ってらっしゃい。……千草」
名前を呼ばれて、ドッペルゲンガーもまた小声で返す。千草は一瞬きょとんとした表情を見せた後、破顔して部屋を出て行った。
一人になって、ドッペルゲンガーは再び絨毯の上へ座り込んだ。
現状、「しばらく家にいれば良い」という千草の言葉に、全面的に甘えていた。甘えているという自覚はあった。ドッペルゲンガーという存在は触れた誰かの姿をとることができる。それは裏を返せば、常に誰かの姿を借りていなければならないということだ。オリジナルの人間がいて、そのコピーとして在り続ける。月日によって、誰の複製であるかという違いはあるが。
この世に存在を得たときのことをドッペルゲンガーは覚えていない。ふと気がつけば自分はこうだった。人間に触れればその姿をとることができるという自身の特徴は、教えられたわけでもないのに理解していた。ただ生まれてからその瞬間まで、人間の暦でどれくらいの年月が経っているのか、自分の本当の姿はあるのか、あるとしたらどんなものなのか、そういったことは全く分からなかった。多くの人間の姿を渡り歩いて、それからしばらく一人の人間の元にいて、飛び出した今でも変わりない。
この部屋の持ち主である千草のことへ考えを移す。両親に見つからない限り、いつまでここにいても構わないといった態度でドッペルゲンガーに接してくるので「嬉しい」を通り越して少し戸惑う。相手が人間でないと知りながら、裏の見えない、素直な好意を与えてくれたのは千草が二人目だった。
井々城千草は、ドッペルゲンガーを──自身のコピーを、怖がらない。鏡に「お前は誰だ?」と問い続けると人間が狂うと言われるように、目の前に自分に瓜二つな存在が現れれば、怯える、怖がるといったマイナスの感情を覚えても何らおかしくない。うっかりぶつかって弾みで変化してしまった直後に、相手が叫び声を上げたことがあった。衝動的に殴りかかってきたこともあった。どちらも必死にその場を離れて難を逃れたが。
基本的に人間にとって、ドッペルゲンガーとは唯一の自己を脅かす、出会ってはいけない存在だった。だからこそ、本来ならば想像の世界にのみ居るべきものなのだ。それでも不運にも自身のコピーと顔を合わせたり、見かけたりする者が時折出てしまうものだから、都市伝説だなどと囁かれることになる。
しかし、千草は自然体で接してくる。一卵性の双子でも幾ばくかは違いが見つけられそうなものだが、あれは自身と全く同じ容貌が目の前にあることを、何の疑問もなく受け入れているように見えた。
「──ちひろ。……千尋」
呟く。それは、千草がドッペルゲンガーに与えた名だった。
「そういえば、何て呼べば良い?」
まるでクラスメイトに尋ねるような気さくな声音で問われて、ドッペルゲンガーは何の言葉も返せなかった。自己を認識して以来ずっと《誰か》であったドッペルゲンガーは、名を持っていたことがなかった。それに悲しく思ったことさえなかった。姿をとっている人間と同じ名前を使うことはできない。その名はオリジナル本人のものだ。ましてや千草を相手に、自分のことも千草と呼んでくれなどと言える訳がない。
唇を開く気配のないドッペルゲンガーに、千草が提案をする。
「じゃあ、一年くらい同じところに住んでたって言ってたけど。そこでは何て呼ばれてた?」
「……ドッペルゲンガーとか、代わり、あれ、って」
聞いた途端、千草は苦虫を噛み潰したような顔をする。そして本棚の辞書をぱらぱらと捲ったり紙に何か書きつけたりした後に、「千尋」という名を提案してきたのだった。「千草」に似ているから並べると双子のようだし、性別が男女どちらでも通じる気がする、と言って。
承諾したドッペルゲンガーに、千草は、始めからその名前であったかのような様子で名を呼ぶようになった。
初めての名前は呼ばれると今だにくすぐったい。本当に自分を指しているのかと疑いたくなる。しかしそのくすぐったさは心地よくもあった。
名を与えられたことで、人間に一歩近づく儀式を経たようで。
ドッペルゲンガーは──千尋は、少しの誇らしさを覚えながら瞼を下ろす。そのまま上半身を傾かせて、畳んだばかりの布団の山へ頭を預けた。
食事が要らない代わりに、睡眠は人間より多く摂取しなければならないらしい。それに気付いたのは千草と頭を並べて眠るようになってからだった。
千尋は抗わずに睡眠へと沈んでいく。目が覚めたら千草のノートパソコンを借りて調べ物をしよう。溶けていく意識の片隅でそんなことを思った。