02:2月6日(金) (4)
2
夜もだいぶ更けた。ぽつりぽつりと佇む街灯と、少しだけ欠けた月が家々を照らしていた。駅から少し距離のあるこの住宅街は、カーテンの隙間から橙色の明かりとささめきが漏れてくるくらいで穏やかな時間が流れている。
「ただいま」
鍵を回す音、扉の開く音とともに低い声が聞こえた。少し疲れが滲んでいる。
それを受けて、とんとんとん、とあえて大きめに足音を立てて階段を下りてくる人物がいた。玄関口で革靴を脱いでいた父は首を後方へ回す。
「おかえり」
迎えの言葉に、声の主を考えるまでもない。一人息子である。ロングTシャツにジャージ、首元からタオルを提げるという普段と同じラフな格好をしていた。髪先はまだ少し濡れている。風呂から上がったばかりのようだ。
父はまた「ただいま」と繰り返した。飲み会帰りのようだが酔ってはいない。しっかりとした足取りで居間へ向かいながらネクタイを緩める。スーツから微かに煙草と酒の匂いがした。念入りに消臭をしなければならない。
「母さんは、今日からいないんだったな……」
「うん」
「千草。明日の夕方、買い物付き合ってくれないか? 食料品の買出しに行こう」
「分かった」
頷いて、父は居間へ、子は洗面所へ別れる。
鏡の前で歯ブラシを手にとって、思い出したように息子が廊下へ顔を出した。
「そういえばグループ学習があってさ、話し合いしなきゃいけないからちょこちょことスカイプすると思う。うるさかったら言って」
「ああ。……おやすみ」
「おやすみ」
歯磨きをぱっと終えて、また階段へ戻る。十四段を一段一段丁寧に上り、廊下を進む。奥の扉は開けたままで、部屋の明かりも点けたままだった。中に入って後ろでに扉を閉めると、
「問題なかっただろ?」
平机に座って腕を組んでいた千草が、開口一番に言った。
今しがた部屋へ入ってきたドッペルゲンガーも頷く。
「お父さん、何か言ってた?」
「明日の夕方、食料品を買いに行くって」
「ああ、なるほど。ありがとう」
千草は回転椅子をくるりと回して立ち上がった。ドッペルゲンガーの正面に立つ。二人は向かい合う形になる。揃いのTシャツにジャージ。違いと言えばドッペルゲンガーがタオルを持っていて、千草が持っていないことくらいか。
飲み会を終えた父の元へ、息子本人である自分の代わりにドッペルゲンガーを行かせてみた。多少アルコールが入っていることを加味しても、まさか中身が別人であるとは気付きもしなかっただろう。千草は二階で階下の遣り取りを聞いていたが、自分が直接父と話しているかのような感覚を覚えるほどだった。
先ほどドッペルゲンガーを通じてインターネット通話という布石も打ったので、部屋の会話が多少父に聞こえたとしても勝手に通話をしているのだと考えてくれるはずだ。唐突に自室を開けられて同じ姿の人間が二人いるところを見られない限り、ドッペルゲンガーの存在はばれないような気がした。
千草の目の前にはドッペルゲンガーが、千草の考えに思いを馳せることもなさそうな純真な顔で立っている。頭の上に疑問符が可視化されて浮かんでいてもおかしくないような姿だ。
そろそろドッペルゲンガーが使う布団を取りに行こうか。思い立って、千草はドアノブへ手を伸ばした。
3
ふっと、意識が浮上した。部屋の中は暗い。千草は布団の中でもぞりと体を動かした。棚の上の時計を見る。暗闇の中で薄ぼんやりと緑色に光るデジタル時計は、午前二時過ぎを指していた。日の出にも、起床時間にもまだまだ遠い。
微睡みの中で何か夢を見ていた気がする。よく思い出せない。何か、といった程度の、漠然とした輪郭のないものだった。厭な感じのものだったことだけを覚えている。ひどく眠かったが、今そのまま眠りに落ちるとその夢の続きを見そうだった。
よく回らない頭で、何か別のことを考えようとする。
「…………、」
音も光もない真夜中の部屋は精神衛生上良くない。沈黙が降り積もり過ぎるのか、もうずっと長い間、背中の辺りに張り付いたままの感情が、唇の隙間から零れ落ちそうになる。
その時、すう、と微かな音が耳に届いた。
重たいのに下りきらない瞼の奥、網膜に昨日まではいなかった存在を映す。客人用の布団の中で、ドッペルゲンガーが寝息を立てていた。千草と同じ顔をしていながら、朝まで絶対に目覚めることのなさそうな穏やかな顔をしていた。まるで幼子のようだ。
自分もあんな風に眠ることができるかもしれない。あるいは、もしかしたら普段はあんな顔で眠っているのかもしれない。そんなことを考えてふっと笑う。
瞼を下ろすと、他に何を考える間もなく千草は深い眠りに落ちていった。今度は夢も見なかった。